第9話 手順と近道
城壁の上には、夕暮れの風が吹いていた。
石の胸壁に肘をつき、ガルドは黙ってアルクの話を聞いていた。眼下に広がるヴェルトリアの屋根が、茜色に染まっていく。遠くの塔の窓に、ぽつぽつと灯りがともり始めていた。
アルクは、ミレイユの依頼を全て話した。結界の核が魔物と同じ仕組みで動くこと。三十六基のうち十七基しか灯っていないこと。原典庫を開くという見返り。三日以内に答える、という期限。
話し終えたとき、ガルドは長く息を吐いた。
「……修復できるのか、本当に」
「おそらく。核石の信号と同じ言語だ。ルート権限で書き換えられる」
「やり方は」
「全ての節点を一度に同期させて、再構築する。一晩あれば終わる」
「一晩?」
ガルドが、顔をしかめた。
「待て。順を追って話せ。お前、三十六の塔を一度に触るつもりか」
「そうだ」
「馬鹿な」
短い一言だった。
「俺の考えはこうだ。まず、塔を一つずつ点検する。ギルドの連中と騎士団で、現場に張りつく。お前は、一基ずつ、書き換えを試す。うまくいったら次の塔だ。時間は、三週間か、四週間かかる」
「間に合わない」
「何に」
「まず、結界の劣化速度が早い。一月に一基が消えている。四週間かければ、その間に二基は落ちる。それに、節点は互いに信号を共有している。一つずつ書き換えれば、新旧の塔の間で同期がずれる。ずれが重なれば、全体が不安定になる」
「それは、お前の計算か」
「ああ」
「間違っている可能性は」
アルクは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「ゼロではない。ただ、分けて行う方が、リスクは高い」
ガルドは胸壁を、とん、とん、と二度叩いた。
「ひとつ聞く。お前が全部の塔を触って、何かが起きたら、誰が止める」
「私が止める」
「お前が間に合わなかったら」
「間に合う」
「どうして断言できる」
「分けて行うより、一度に行う方が、制御しやすいからだ。それに」
アルクは、言わなくてもいいことを言った。
「あなたの小隊も、分けたから死んだのではないのか」
風が止まったように感じられた。
ガルドの表情は、動かなかった。ただ、拳が胸壁の上でゆっくりと握られた。
「……そうだな」
低い声だった。
「確かに、俺は分けた」
「すまない。今のは」
「いい」
ガルドは目を伏せ、少しだけ笑った。痛みの混じった笑みだった。
「お前の言うとおりだ。分けたことが、死因の一つだった。それは事実だ」
「ガルド」
「だがな、アルク」
男は顔を上げ、真っ直ぐに見た。
「俺が間違えたのは、分けたことじゃない。敵の数も知らないのに、分かった気になったことだ」
その目は、怒りではなかった。哀願に近いものがあった。
「お前は、結界の仕組みを、全部分かっているのか」
「核石の信号は」
「それは、一部だ。結界は、何千年も前の遺物だ。誰が作って、何のために、どこへ繋がっているか、教会さえ知らんのだろう。そんなものを、一度に触るのか」
アルクは、答えなかった。
胸の奥に、違和感があった。ガルドの言葉は、間違っていない。分かっている。けれど、時間がない。それも事実だった。
「ガルド団長!」
階段を駆け上がってくる足音がした。振り向くと、司祭補のユリウスが、息を切らして立っていた。顔が蒼白だった。
「ハートウェル様が、先ほど、高熱を出されて。お嬢さんが、アルク殿を呼んでほしいと」
アルクは、考える前に駆け出していた。
医院の特別室は、緊迫した空気に満ちていた。寝台のセレナは、頬が赤く、呼吸が浅く速い。額に濡れ布が載せられ、リーナが枕元で母の手を握りしめていた。アンナが薬箱を前に、険しい顔で立っている。
「アルク!」
リーナが振り返った。目が赤かった。
「熱が、下がらないの。さっきから、咳も止まらなくて」
アルクはセレナの傍らに膝をついた。HUDが、ナノマシン濃度を映し出す。
七パーセント。
村で初めて測った十四パーセントの、半分だった。
「先生」
リーナがアンナを見上げた。
「母さんは、治るんですよね。熱が引けば、また」
アンナは唇を結び、静かに首を振った。
「リーナさん。……この熱は、枯れが急に進んでいる兆しです。このままでは、一週間か、それより早く」
部屋の空気が、凍った。
リーナの口から、声にならない息が漏れた。
「一週間……?」
「申し訳ありません。教会の癒しは、使えません。休んでいただくことしか」
「そんな」
リーナの手が、震えた。セレナの手を握る力が強まり、母の指がそれに応えるように、ゆっくりと動いた。
「リーナ」
掠れた声が、寝台から聞こえた。セレナの目が、薄く開いていた。
「泣かないの。……あなたは、笑っている顔のほうが、好きよ」
「母さん」
「アルクさん」
セレナの視線が、彼の顔を探した。熱で潤んだ目の奥に、まだ静かな光が残っていた。
「何か、頼まれたのね。猊下に」
アルクは息を呑んだ。
「どうして」
「顔に、書いてある」
彼女は、弱々しく笑った。
「受けるかどうかは、あなたが決めなさい。……ただ、私のことで、焦らないで」
その言葉は、まっすぐに胸に刺さった。
「焦ってはいない」
口から出た声は、思ったより固かった。
「最適化している」
「そう」
セレナはそれ以上は言わず、目を閉じた。呼吸が、浅く揺れた。
アルクは立ち上がり、廊下に出た。
壁に背をつけ、天井を仰ぐ。胸の中で、数字が回っていた。一週間。三週間。四週間。ガルドの手順では、セレナの命に間に合わない。一晩で終われば、原典庫が開く。そこに、病を止める鍵があるかもしれない。
焦っているわけではない。選択肢の合理的な比較だ。
そう、自分に言い聞かせた。
廊下の先に、人影があった。ガルドが、階段の途中で立っていた。ここまで、ついてきていたのだ。
「聞こえていた」
「ああ」
「どうする」
アルクは、目を閉じた。ガルドの声。セレナの声。村で自分が起こした、取り返しのつかないこと。いくつもの声が、頭の中でぶつかる。
それでも、時間は、待ってくれない。
「今夜、やる」
目を開けて、言った。
「一括で修復する。三十六基を、一晩で」
ガルドの顔が、わずかに歪んだ。けれど、怒鳴りはしなかった。長い沈黙のあと、彼は小さく息を吐いた。
「……止めても、聞かんのだな」
「すまない」
「謝るな。覚えておけ、と言っただろう」
男は階段を降り、アルクの前に立った。左膝を引きずる音が、静かな廊下に響いた。
「条件がある」
「聞く」
「一つ。俺の合図で、必ず止めろ。手を上げたら、そこで終わりだ。何が起きていようと、それで止めろ」
「分かった」
「二つ。塔の周辺に、騎士団を全員配置する。夜通しだ。レクスも、下の連中も」
「分かった」
「三つ」
ガルドは、少しだけ声を落とした。
「無理だと思ったら、断れ。恥じゃない。生きていれば、また次の手がある」
アルクは、頷いた。
「約束する」
「約束か」
ガルドは目を細めた。
「お前の約束は、重いぞ。破ったら、俺は一生、許さん」
「破らない」
その言葉に、嘘はなかった。
ガルドは何も言わず、背を向けて階段を降りていった。左膝を引きずる足音が、遠ざかる。アルクは、その背が見えなくなるまで見送った。
部屋の中から、リーナの小さな嗚咽が聞こえた。
夜が、近づいていた。




