第8話 ミレイユの頼み
大司教の私室は、大聖堂の最上階にあった。
螺旋階段を上り切った先、扉の向こうに、広い窓があった。薄い雲の流れる空が、まるごと切り取られている。書棚と簡素な机、小さな暖炉。華美なものは、ほとんどなかった。唯一、窓辺に置かれた古い望遠鏡だけが、持ち主の習慣を物語っていた。
「ようこそ、アルク殿」
ミレイユは、窓際の椅子から立ち上がった。白い法衣の上に、灰色の薄いショールを羽織っている。首元の小さな鐘の飾りが、光を受けて鈍く輝いた。
「お茶を用意しました。どうぞ、お掛けください」
卓には、湯気の立つ陶器の杯が二つ。そして部屋の隅の影に、黒い法衣のダミアンが立っていた。腕を組み、細い目だけが動いている。
「立会人として、同席させていただきます。大司教猊下と外つ国の方が、二人きりとあっては、教会の体面に関わりますのでな」
「ご配慮に感謝します、司教」
ミレイユは、微笑みを崩さずに言った。それから、アルクに向き直る。
「お聞きしたいことが、おありなのでしょう」
アルクは杯に手を伸ばさず、まっすぐに彼女を見た。
「天啓の夜を、前倒しにされた理由を伺いたい」
部屋の空気が、ほんの僅かに動いた。ダミアンの肩が、わずかに強張る。
「文書庫で、公開暦をご覧になったのですね」
「はい」
「古い祈りの日を、早めたのです。この星が、傾きかけている兆しがありましたので」
「傾いている」
「ええ。空の膜が、薄くなっているのです」
ミレイユは窓の外を指差した。空には、見えない膜がある。アルクにだけは、それが分かった。
「祈りが早ければ早いほど、救いの手が間に合うと考えました」
「その日が、私が降りた夜と、一致したのは」
「偶然です」
即答だった。
「そう信じたい、と申し上げた方が正確かもしれません」
「信じたい?」
「わたくしの祈りが、あなたをお呼びしたのだと。そう思いたいのです。それが、事実かどうかは別として」
含みのある言い方だった。嘘ではない。けれど、全てでもない。アルクの目が、彼女の手元に落ちた。
杯を持つ指が、小さく震えている。
首の鐘の飾りを、親指と人差し指で、強く握りしめている。
――隠している。
その確信は、証拠ではなかった。ただ、これまで出会った人間の中で、嘘の下手な者たちの顔を、彼は覚え込んでいた。リーナの右の眉。セレナの指先。ミレイユの手の震えは、それらと同じ種類の、隠しきれない痛みに見えた。
「紋章について、伺ってもよろしいでしょうか。『天蓋の鍵』と呼ばれていると聞きました」
「ヨハン師が、口を滑らせたのですね」
ミレイユは、困ったように笑った。ダミアンの視線が、鋭くなる。
「その名は、古い呼び名です。星を覆う空の膜を、人々は天蓋と呼びました。紋は、それを守る祈りの形。……それ以上は、申し上げられません」
「それ以上とは」
「今は、まだ」
彼女は杯を置いた。それから、静かに立ち上がった。
「ご覧に入れたいものがあります。ついてきてください」
「猊下」
ダミアンが、割って入った。
「そこは、教会の秘所です。外つ国の者に見せるなど」
「司教。これは大司教令です」
声は穏やかだったが、反論を許さない重みがあった。ダミアンは唇を引き結び、黙った。
私室の奥の石の扉を、ミレイユは古い鍵で開けた。
階段を下りた先に、円形の広間があった。
壁一面に、地図が描かれている。ヴェルトリアの城壁と、その周囲の大地。中央の床には、巨大な円盤が嵌め込まれ、その表面に、三十六の小さな窪みが並んでいた。各窪みに、結晶が収められ、淡い青の光を放っている。
結界の節点塔。その、制御の間だった。
アルクは息を止めた。
結晶の半分近くが、暗かった。
「五年前は、全て灯っておりました」
ミレイユが言った。
「今は十七基です。毎年、一つか二つ、光を失っていきます。核石の補充で延命してきましたが、需要に追いつきません」
円盤の端に、紙束が積まれている。彼女はその一枚を取り上げ、アルクに差し出した。
報告書だった。
《西の街道沿い、カルネ村。魔物の襲撃により壊滅。生存者十二名。》
《北の丘陵、エルデン集落。結界の外縁にあたるが、補修間に合わず消滅。》
十枚近くが、同じ筆跡で綴られていた。
「この二年で、十の村が消えました」
ミレイユの声は、静かだった。
「教会は、毎月、慰霊の祈りを捧げています。けれど、祈りだけでは、人は救えません」
紙を持つ彼女の指先が、白く強張っている。アルクは、その横顔を見ていた。
これが、嘘のはずがなかった。
「このままでは、三年も持たないでしょう。結界が全て落ちれば、ヴェルトリアは、魔物に飲まれます」
「それで、私に」
「はい」
ミレイユは、アルクを真っ直ぐ見た。灰色の瞳に、飾りのない切実さがあった。
「あなたの手は、鐘と、同じ言葉を話せます」
アルクの背筋が、凍った。
「アシュフェンの九体を止めた、とお聞きしました。一言で。詠唱もなく」
「それが、何か」
「結界の核は、あの魔物と、同じ仕組みで動いています。古い言葉で、書き換えることができるのです。わたくしたち教会の者にはできません。けれど、あなたなら」
彼女は円盤の上の暗い結晶に、そっと手を置いた。
「この結界を、修復していただけませんか」
言葉が、広間に響いた。
アルクは、答えなかった。
核石と結界塔の信号が同じ形式だと、彼は先日、ギルドの帰り道で気づいたばかりだった。ミレイユは、それを知っている。あるいは、知っていて、彼に頼んでいる。
「見返りは」
「はい」
彼女は、まるで準備していたかのように、静かに告げた。
「原典庫を、開きます」
背後で、ダミアンが息を呑む音がした。
「天啓の夜の祈りの書、天蓋の鍵に関する全ての文書。あなたが知りたいと願うことの、全てをお見せします。それと」
彼女は少し間を置いた。
「医院の全患者に、教会の持つ全ての資源を提供します。ハートウェル殿には、特別に」
アルクの胸の奥が、強く揺さぶられた。
それは、彼が最も欲しかったものだった。病の原因。鐘守の死。リーナの母を救う道。全てが、一つの修復作業と引き換えに手に入る。
「猊下!」
ダミアンが叫んだ。
「原典庫を外つ国の者に開くなど、教義への冒涜です。しかも、鍵を任せるなど」
「司教」
「あなたは、何を考えておられる。あの鍵に触れた者がどうなるか、あなたは誰よりも」
「ダミアン」
ミレイユの声が、初めて、刃のように鋭くなった。
「退室なさい」
長い沈黙が、落ちた。ダミアンの顔が、怒りと怯えと、別の何かで歪んでいた。それから彼は黙って頭を下げ、石階段を上がっていった。足音が遠ざかる。
「……見苦しいところを、お見せしました」
ミレイユは小さく笑った。疲れた笑みだった。
「すぐにお答えをいただく必要はありません。ただ、時間はあまり残されていません」
「返答は、少し待ってほしい」
アルクは口を開いた。
「この件は、私一人では決められない。ガルド団長と、相談したい。三日以内に答える」
「三日」
ミレイユは頷いた。
「お待ちします。長らくお待ちしたのです。三日など」
その言葉に、アルクは目を上げた。しかし彼女は、すでに背を向けていた。
広間を出て、階段を上がる。私室の窓の前を通り過ぎるとき、アルクはふと振り返った。
ミレイユが、窓辺に立っていた。
望遠鏡の傍で、空を見上げている。夕刻の薄い光の中で、両手を胸の前で組み、唇が小さく動いていた。祈っているのだと分かった。
その肩が、小さく震えていた。
アルクは、扉を静かに閉めた。
廊下に出ると、ガルドが壁に背をつけて待っていた。アルクの顔を見て、片眉を上げる。
「どうだった」
「……頼みごとを、された」
「どんな」
アルクは答えなかった。階段の窓から、大聖堂の鐘楼が見えた。
引き受けるべきか。断るべきか。考えるほど、天秤は揺れた。
「後で話す。……少し、歩かせてくれ」
ガルドは何も言わず、頷いた。




