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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第2章 大賢者
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第8話 ミレイユの頼み

 大司教の私室は、大聖堂の最上階にあった。


 螺旋階段を上り切った先、扉の向こうに、広い窓があった。薄い雲の流れる空が、まるごと切り取られている。書棚と簡素な机、小さな暖炉。華美なものは、ほとんどなかった。唯一、窓辺に置かれた古い望遠鏡だけが、持ち主の習慣を物語っていた。


「ようこそ、アルク殿」


 ミレイユは、窓際の椅子から立ち上がった。白い法衣の上に、灰色の薄いショールを羽織っている。首元の小さな鐘の飾りが、光を受けて鈍く輝いた。


「お茶を用意しました。どうぞ、お掛けください」


 卓には、湯気の立つ陶器の杯が二つ。そして部屋の隅の影に、黒い法衣のダミアンが立っていた。腕を組み、細い目だけが動いている。


「立会人として、同席させていただきます。大司教猊下と外つ国の方が、二人きりとあっては、教会の体面に関わりますのでな」


「ご配慮に感謝します、司教」


 ミレイユは、微笑みを崩さずに言った。それから、アルクに向き直る。


「お聞きしたいことが、おありなのでしょう」


 アルクは杯に手を伸ばさず、まっすぐに彼女を見た。


「天啓の夜を、前倒しにされた理由を伺いたい」


 部屋の空気が、ほんの僅かに動いた。ダミアンの肩が、わずかに強張る。


「文書庫で、公開暦をご覧になったのですね」


「はい」


「古い祈りの日を、早めたのです。この星が、傾きかけている兆しがありましたので」


「傾いている」


「ええ。空の膜が、薄くなっているのです」


 ミレイユは窓の外を指差した。空には、見えない膜がある。アルクにだけは、それが分かった。


「祈りが早ければ早いほど、救いの手が間に合うと考えました」


「その日が、私が降りた夜と、一致したのは」


「偶然です」


 即答だった。


「そう信じたい、と申し上げた方が正確かもしれません」


「信じたい?」


「わたくしの祈りが、あなたをお呼びしたのだと。そう思いたいのです。それが、事実かどうかは別として」


 含みのある言い方だった。嘘ではない。けれど、全てでもない。アルクの目が、彼女の手元に落ちた。


 杯を持つ指が、小さく震えている。


 首の鐘の飾りを、親指と人差し指で、強く握りしめている。


 ――隠している。


 その確信は、証拠ではなかった。ただ、これまで出会った人間の中で、嘘の下手な者たちの顔を、彼は覚え込んでいた。リーナの右の眉。セレナの指先。ミレイユの手の震えは、それらと同じ種類の、隠しきれない痛みに見えた。


「紋章について、伺ってもよろしいでしょうか。『天蓋の鍵』と呼ばれていると聞きました」


「ヨハン師が、口を滑らせたのですね」


 ミレイユは、困ったように笑った。ダミアンの視線が、鋭くなる。


「その名は、古い呼び名です。星を覆う空の膜を、人々は天蓋と呼びました。紋は、それを守る祈りの形。……それ以上は、申し上げられません」


「それ以上とは」


「今は、まだ」


 彼女は杯を置いた。それから、静かに立ち上がった。


「ご覧に入れたいものがあります。ついてきてください」


「猊下」


 ダミアンが、割って入った。


「そこは、教会の秘所です。外つ国の者に見せるなど」


「司教。これは大司教令です」


 声は穏やかだったが、反論を許さない重みがあった。ダミアンは唇を引き結び、黙った。


 私室の奥の石の扉を、ミレイユは古い鍵で開けた。


 階段を下りた先に、円形の広間があった。


 壁一面に、地図が描かれている。ヴェルトリアの城壁と、その周囲の大地。中央の床には、巨大な円盤が嵌め込まれ、その表面に、三十六の小さな窪みが並んでいた。各窪みに、結晶が収められ、淡い青の光を放っている。


 結界の節点塔。その、制御の間だった。


 アルクは息を止めた。


 結晶の半分近くが、暗かった。


「五年前は、全て灯っておりました」


 ミレイユが言った。


「今は十七基です。毎年、一つか二つ、光を失っていきます。核石の補充で延命してきましたが、需要に追いつきません」


 円盤の端に、紙束が積まれている。彼女はその一枚を取り上げ、アルクに差し出した。


 報告書だった。


 《西の街道沿い、カルネ村。魔物の襲撃により壊滅。生存者十二名。》

 《北の丘陵、エルデン集落。結界の外縁にあたるが、補修間に合わず消滅。》


 十枚近くが、同じ筆跡で綴られていた。


「この二年で、十の村が消えました」


 ミレイユの声は、静かだった。


「教会は、毎月、慰霊の祈りを捧げています。けれど、祈りだけでは、人は救えません」


 紙を持つ彼女の指先が、白く強張っている。アルクは、その横顔を見ていた。


 これが、嘘のはずがなかった。


「このままでは、三年も持たないでしょう。結界が全て落ちれば、ヴェルトリアは、魔物に飲まれます」


「それで、私に」


「はい」


 ミレイユは、アルクを真っ直ぐ見た。灰色の瞳に、飾りのない切実さがあった。


「あなたの手は、鐘と、同じ言葉を話せます」


 アルクの背筋が、凍った。


「アシュフェンの九体を止めた、とお聞きしました。一言で。詠唱もなく」


「それが、何か」


「結界の核は、あの魔物と、同じ仕組みで動いています。古い言葉で、書き換えることができるのです。わたくしたち教会の者にはできません。けれど、あなたなら」


 彼女は円盤の上の暗い結晶に、そっと手を置いた。


「この結界を、修復していただけませんか」


 言葉が、広間に響いた。


 アルクは、答えなかった。


 核石と結界塔の信号が同じ形式だと、彼は先日、ギルドの帰り道で気づいたばかりだった。ミレイユは、それを知っている。あるいは、知っていて、彼に頼んでいる。


「見返りは」


「はい」


 彼女は、まるで準備していたかのように、静かに告げた。


「原典庫を、開きます」


 背後で、ダミアンが息を呑む音がした。


「天啓の夜の祈りの書、天蓋の鍵に関する全ての文書。あなたが知りたいと願うことの、全てをお見せします。それと」


 彼女は少し間を置いた。


「医院の全患者に、教会の持つ全ての資源を提供します。ハートウェル殿には、特別に」


 アルクの胸の奥が、強く揺さぶられた。


 それは、彼が最も欲しかったものだった。病の原因。鐘守の死。リーナの母を救う道。全てが、一つの修復作業と引き換えに手に入る。


「猊下!」


 ダミアンが叫んだ。


「原典庫を外つ国の者に開くなど、教義への冒涜です。しかも、鍵を任せるなど」


「司教」


「あなたは、何を考えておられる。あの鍵に触れた者がどうなるか、あなたは誰よりも」


「ダミアン」


 ミレイユの声が、初めて、刃のように鋭くなった。


「退室なさい」


 長い沈黙が、落ちた。ダミアンの顔が、怒りと怯えと、別の何かで歪んでいた。それから彼は黙って頭を下げ、石階段を上がっていった。足音が遠ざかる。


「……見苦しいところを、お見せしました」


 ミレイユは小さく笑った。疲れた笑みだった。


「すぐにお答えをいただく必要はありません。ただ、時間はあまり残されていません」


「返答は、少し待ってほしい」


 アルクは口を開いた。


「この件は、私一人では決められない。ガルド団長と、相談したい。三日以内に答える」


「三日」


 ミレイユは頷いた。


「お待ちします。長らくお待ちしたのです。三日など」


 その言葉に、アルクは目を上げた。しかし彼女は、すでに背を向けていた。


 広間を出て、階段を上がる。私室の窓の前を通り過ぎるとき、アルクはふと振り返った。


 ミレイユが、窓辺に立っていた。


 望遠鏡の傍で、空を見上げている。夕刻の薄い光の中で、両手を胸の前で組み、唇が小さく動いていた。祈っているのだと分かった。


 その肩が、小さく震えていた。


 アルクは、扉を静かに閉めた。


 廊下に出ると、ガルドが壁に背をつけて待っていた。アルクの顔を見て、片眉を上げる。


「どうだった」


「……頼みごとを、された」


「どんな」


 アルクは答えなかった。階段の窓から、大聖堂の鐘楼が見えた。


 引き受けるべきか。断るべきか。考えるほど、天秤は揺れた。


「後で話す。……少し、歩かせてくれ」


 ガルドは何も言わず、頷いた。


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