第7話 酒場の夜
泡は、予想より苦かった。
木の杯に口をつけたアルクは、顔をしかめた。喉を滑り落ちる液体が、麦の香りと、舌の奥に残る渋みを残していく。数秒後、胃のあたりが熱くなった。
「どうだ」
向かいの席で、ガルドが頬杖をついて眺めていた。
「……苦い」
「慣れるまでは、そんなもんだ」
「毒ではないのか」
「毒だ。少しだけな。だから、うまいんだ」
隣のレクスが、堪えきれずに吹き出した。
「大賢者様でも、麦酒は初めてなんですね」
「麦酒という名前は、知っていた。実物は、初めてだ」
「知識だけの人ですね、本当に」
酒場の名は『錆びた盾亭』といった。騎士団の詰所から二本離れた路地にあり、狭い店内は、煙と汗と煮込みの匂いで満ちている。天井の梁に、古い盾や兜が無造作に吊られていた。壁の板には、常連らしい男たちの落書きが残っている。奥のカウンターで、片腕のない主人が、黙って杯を拭いていた。
卓の上には、豆と腸詰の煮込み、硬いパン、焼いた川魚。リーナが見たら喜びそうだ、とアルクはぼんやり思った。
「食え」
ガルドが皿を押し出した。
「飲むだけだと、悪酔いする」
「ありがとう」
「礼はいらん」
男は短く言って、自分の杯を呷った。喉仏が大きく上下する。
「お前は、すぐに礼を言うな」
「言ってはいけないのか」
「いや。悪いことじゃない。ただ」
ガルドは卓を、とん、とん、と二度叩いた。考え事をするときの癖らしい。
「俺は、礼を言葉で済ませるのが、苦手でな。借りは、返す。それが俺のやり方だ」
「借り」
「昔の話だ」
ガルドが、目を細めた。杯の中の泡を見つめている。
「三十年前、俺が二十代の頃だ。国境の小競り合いで、足をやられた。左の膝だ。そのとき、山奥の農家の婆さんが、俺を匿ってくれた。納屋に隠して、薬草を煎じて、三月、面倒を見てくれた」
レクスが、肘でアルクをつついた。小声で囁く。
「ここからは、聞いたことのある話です」
「うるさい」
「婆さんは、何も受け取らなかった。礼をすると言っても、笑って首を振った。『いいから、生きて帰りなさい』と」
ガルドは杯を置いた。
「だから俺は、その後、毎年春になると、麦を一袋担いで、山を登った。十年だ。婆さんが死ぬまで。最後の年は、墓に供えた」
「……十年も」
「借りは、返し終わるまで、借りだ。相手が受け取らなくても。いや、受け取らないからこそ、な」
アルクは、言葉を失った。
利息、という概念ではなかった。効率の問題でもない。ただ、受け取った温度を、そのままの形で返し続ける、愚直なやり方だった。
「団長の借りは、利息つきなんですよ」
レクスが、酒で赤くなった顔で笑った。
「この前なんて、肉屋の親父に、三年前に奢られた分を、倍にして返してましたからね」
「覚えている奴が悪い」
「覚えてるのは団長でしょう」
そう言って、レクスは杯を傾けた。笑い声が、卓を満たす。
アルクは、気づいた。自分の頬が、緩んでいることに。
それから、レクスが調子に乗って話し始めた。団長が新入りだった頃のレクスに、剣の代わりに箒を持たせた話。馬の世話で、自分が先に落馬した話。団長が、初めての演習で、盾を逆さまに持って号令をかけた話。
「やめろ、それは作り話だ」
「本当ですって。ねえ、ブルーノ爺さん、本当ですよね!」
カウンターの主人が、無言で頷いた。ガルドの顔が、みるみる赤くなった。
「……あの野郎」
その瞬間、アルクの喉から、笑い声が漏れた。
自分でも驚くほど、大きな声だった。短く、息が詰まるような、不格好な笑い。腹が痛くなり、肩が震え、目の端に涙が滲んだ。
数秒後、卓が静まった。
ガルドとレクスが、目を丸くして彼を見ていた。
「……すまない」
「いや」
ガルドは杯を持ち上げ、口の端を上げた。
「初めて聞いたぞ。お前の笑い声は、案外、間抜けだな」
「そうか」
「ああ。だが、悪くない」
アルクは、胸に手を当てた。何かが、ほどけていた。心臓が、ゆっくりと、柔らかく打っている。
それから、静かな時間が来た。レクスが酔い潰れて卓に突っ伏し、小さく寝息を立て始めた。ガルドは新しい杯を二つ、注文した。
「お前、怖いんだろう」
唐突に、ガルドが言った。
アルクは、手を止めた。
「何が」
「自分が、何かを動かすことが」
杯の中の泡が、ゆっくり消えていく。
「見ていれば分かる。あの訓練場でも、医院でも。お前は、力を使うことを避けるんじゃない。使った後に、何が起こるかを、恐れている」
「……ああ」
言葉が、思ったより素直に出た。
「村で、一度失敗した。私が降りたことで、眠っていた魔物が目を覚ました。私が助けたと思っていた者たちは、元は私が危険に晒していた」
「それで?」
「何かをする度に、同じことが起きるのではないかと思う。助けたつもりで、誰かを壊すのではないかと」
ガルドは、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「六年前だ」
視線が、遠くへ向かう。
「第七小隊。俺が率いていた。十三人。北の街道で、魔物の巣が見つかったと報せが入った。夜だった」
卓を叩く指が、止まった。
「選択を迫られた。部隊を二つに分けて挟撃するか、全員で正面から削るか。分ければ、早く片付く。時間は、そのとき、俺たちに味方してなかった」
「分けたのか」
「ああ。効率を取った。最短の手を」
男の声は、淡々としていた。淡々としすぎていて、かえって痛かった。
「一方の隊が、予想外の数に呑まれた。俺は、もう一方にいた。気づいたとき、遅かった。十三人のうち、戻ったのは、俺とあと一人だけだ」
「……」
「膝は、そのときのものじゃない。そっちは昔の傷だ。だが、あの夜から、よく痛むようになった」
隣で、レクスが寝言を呟いた。
「……父さん」
ガルドの目が、一瞬だけ、少年のような顔に向かった。
「こいつの親父は、あの十一人の中にいた」
アルクは、息を呑んだ。
「俺は、こいつに会う前から、こいつの名前を知っていた。親父が、日記に書いていたからな。『息子が生まれた。レクスと名付けた』と。……こいつが騎士団に入ると言ったとき、俺は止めた。止められなかった」
「彼は、知っているのか」
「全部、知っている。それでも、俺の下に来た」
ガルドは、喉の奥で笑った。自嘲の響きがあった。
「だから、俺は部下の名前を全員覚える。一人も忘れないと決めた。それが、俺にできる、せめてもの借りの返し方だ」
酒場の騒めきが、遠くに聞こえた。アルクは、杯を握りしめた。
慰めの言葉は、浮かばなかった。何を言っても、軽すぎる。彼は、ただ頷いた。
「怖がれ、アルク」
ガルドが言った。
「怖がれるうちは、まだ使える。怖がらなくなったとき、人間は、一番危ない。俺がそうだった。自分の判断を、信じ切った」
「……分かった」
「分かったと言うな。覚えておけ」
そう言って、ガルドは杯を空にした。アルクもまた、残りの麦酒を飲み干した。苦さが、今度は、少しだけ温かかった。
店を出る頃には、夜も更けていた。通りの石畳を、冷たい風が吹き抜ける。レクスはガルドの肩に担がれ、半分眠ったまま、ぶつぶつと何かを呟いている。
「重いな、お前は」
「だんちょう……すみません……」
「謝るな。借りは、あとで返せ」
アルクは、二人の後ろを歩いた。街灯のない路地に、教会の鐘が、遠く低く響く。
別れ際、医院の前の分かれ道で、ガルドが振り返った。
「また来い」
不意に、そう言った。
「え」
「あの店だ。席は、空けておく」
アルクは、返す言葉を探した。礼を言いかけて、やめた。ガルドの流儀を思い出したからだ。
「……ああ。必ず」
「借りだぞ」
「分かっている」
ガルドは、レクスを担ぎ直し、背を向けて歩き出した。左膝を引きずる、不揃いな足音。それが闇に溶けるまで、アルクは立ち尽くしていた。
席を空けておく、という言葉が、胸の中で何度も反響した。
居場所、というものを、数万年ぶりに、与えられた気がした。




