第6話 文書庫
文書庫の扉の前で、ガルドは壁に背をつけて腕を組んだ。
「俺はここで待つ。入るなとは言わんが、荒らすな」
「分かっている」
「あと、司教には気をつけろ」
アルクは振り返った。ガルドの目は、廊下の奥の闇を見ていた。
「ダミアンのことか」
「教会の中で、ミレイユ猊下に次ぐ権力を持つ男だ。あの方が猊下の庇護を与えたからといって、全員が従うわけじゃない」
それだけ言って、ガルドは口を閉じた。
文書庫は、大聖堂の地下に広がっていた。天井まで届く書架が、迷路のように並んでいる。蝋燭の灯りが、羊皮紙と革の匂いの中で揺れていた。奥に、一人の老修道士が座っている。白い髭を腰まで垂らし、背中を丸め、写本の頁に顔を近づけていた。
「ヨハン師でしょうか」
アルクは静かに声をかけた。老人は顔を上げた。皺の中の目は、薄い水色で、驚くほど澄んでいた。
「いかにも。あなたが、アシュフェンの」
「アルクと申します。お時間をいただけますか」
「文書庫の閲覧は、本来、聖職者のみに許されております」
老人は穏やかに言った。拒絶ではなく、事実を述べる声だった。
「公開されている書物なら、構いません。『天啓の夜』について、調べたいのです」
ヨハンの指が、写本の端で止まった。
「……天啓の夜、ですか」
「はい」
「なぜ」
「数日前、森の上の空に光が走った夜がありました。その夜が、天啓の夜と関わりがあるかもしれないと思ったのです」
本当のことの、半分だった。老人はしばらくアルクを見つめ、それから立ち上がって、書架の一角へ歩いていった。
「こちらです。公開暦は、この棚に」
取り出された帳面は、大判の暦だった。年ごとに頁が分かれ、祝日と祭礼が整然と書かれている。アルクは机に広げ、頁を繰った。
鐘の印を目で探す。
《天啓の夜:冬至の前夜。全鐘守、一斉に鐘を打つ》
古い暦の頁には、確かにそう記されていた。数十年前の頁も、百年前の頁も、同じだ。毎年、冬至の前夜。
彼は、今年の頁を開いた。
指が、止まった。
《天啓の夜:大司教令により、変更》
日付は、冬至ではなかった。
アルクが森に降り立った、あの夜の日付だった。
「……変更されている」
声が、掠れた。
「ええ。今年だけ、特別に」
背後で、ヨハンが静かに言った。
「猊下が、半年前に布告されました。『天啓の夜を、前倒しにする』と。理由は告げられませんでした」
「半年前に」
「はい。私は書記として、その布告を暦に書き写しました」
アルクは頁を睨んだ。
偶然ではない、という考えが、胸の底から這い上がってきた。降下は、観測空白域の裂け目を、偶然捉えたものだと思っていた。けれど、暦はその夜を、半年前から指定していた。
大司教が、この夜に、鐘を打たせた。
「その夜、鐘守たちは何を」
「祈りを捧げました。日没から夜明けまで」
「祈りの内容は」
「それは、原典庫の書です」
ヨハンは奥の鉄扉を指した。鎖と錠で厳重に封じられている。
「私には、閲覧の権限がありません」
その時だった。
「何をしておられる、ヨハン師」
冷たい声が、書架の間から響いた。
足音が近づく。黒い法衣の男が、数人の侍祭を従えて現れた。五十代半ば。痩せた長身で、頬骨が高く、細い目がいつも笑っているように見える。しかし、笑っていないことは、すぐに分かった。
「ダミアン司教」
ヨハンが、膝を折って頭を下げた。
「大賢者殿は、公開暦をご覧になっているだけで」
「ほう。公開暦を」
ダミアンの視線が、広げられた頁に落ちる。そして、アルクの顔に戻る。
「これはこれは、大賢者殿。猊下から、よくお客様として扱われているようですな」
「アルクと申します」
「存じておりますとも。村を救った英雄だと。……しかし、ここは聖域です。外つ国の方が、軽々しく入る場所ではない」
「猊下の許可は、得ております」
「公開書庫の許可、でしょう。原典庫の許可は、猊下であれ私の署名なしには出せません。規則でしてな」
笑みを貼りつけたまま、ダミアンは鉄扉の前に立った。
「ご覧のとおり、あちらは封印されております。もし、それ以上の書を覗こうとなされば」
細い目が、アルクを射た。
「教会の秘事に触れた者として、庇護は外れます。……医院の寝台も、含めて」
アルクの胸が、小さく軋んだ。
脅しだった。しかも、的確な。リーナとセレナの寝台を、彼の行動に結びつけている。
ここで原典庫の鍵を壊すことは、できる。ルート権限を使えば、錠も鎖も数秒で解ける。けれど。
「承知しました」
アルクは静かに言った。
「原典庫には、手を触れません」
ダミアンの目が、僅かに細くなった。予想外だったのだろう。
「賢明なご判断だ」
「ただ、一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何かな」
「この大聖堂の紋章。扉の上に刻まれた、あの螺旋と幾何学の線。あれは、何を表しているのですか」
空気が、変わった。
ダミアンの笑みが、ほんの一瞬、止まった。ヨハンの肩が、びくりと震えた。
「……古い言い伝えです」
ダミアンが答えた。声が少し硬い。
「創建期の意匠にすぎません。特別な意味は」
「天蓋の、鍵」
小さな声が、割って入った。
ヨハンだった。老修道士は顔を伏せたまま、唇だけが動いていた。
「あれは、蓋を閉めるための鍵。昔から、そう呼ばれて」
「ヨハン!」
ダミアンの声が、鋭く跳ねた。老人は、口をつぐんだ。肩が震えている。
「師は、お疲れだ。下がって休みなさい」
「……はい、猊下の……いえ、司教様の仰せのままに」
ヨハンは杖を握り、足を引きずるように歩き去った。その背中が、ひどく小さく見えた。アルクは、目で追った。老人は一度だけ振り返り、何かを訴えるような目をした。
ダミアンが一歩、近づいた。
「大賢者殿。お引き取りを。お連れの騎士殿が、扉の外でお待ちのようですし」
文書庫を出ると、ガルドが壁に背をつけて待っていた。アルクの顔を見て、何も聞かずに歩き出す。階段を上がりきったところで、ようやく口を開いた。
「ダミアンに会ったか」
「ああ」
「何を言われた」
「庇護が外れる、と」
ガルドは低く唸った。
「あの男は、教会の権威を何より守りたがる。猊下が何を考えているかは知らんが、あの男にとっては、お前もその邪魔者の一人だ」
「分かっている」
大聖堂の廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。アルクは足を止め、窓の外を見た。尖塔の鐘が、茜色の空にそびえている。
天蓋の鍵。蓋を閉める。
天球の結界。先代堕天者が張ったという、星を隠すための膜。鍵は、それを閉じるためのものだ。紋は、教会が、その鍵を知っているということ。
そして、大司教は半年前から、その夜に鐘を打たせると決めていた。
「ガルド」
「何だ」
「ミレイユ猊下に、会わせてもらえないか。直接、聞きたいことがある」
ガルドは眉を上げた。
「盗み読みではなく、正面から行くのか」
「ああ」
「危険だぞ」
「だが、それが一番、真っ直ぐな道だ」
しばらく、ガルドはアルクの顔を見つめていた。やがて、小さく笑った。
「……お前は、案外、馬鹿正直だな」
「よく言われる」
「いい。段取りは俺がつけてやる。ただし、その前に一つ、付き合え」
「何に」
「酒だ。今夜は付き合え。腹の中に何も入れずに、猊下の前には立たせん」
ガルドは背を向けて歩き出した。アルクは窓の外に、もう一度だけ目をやった。
鐘が、夕刻を告げて鳴り始めた。




