第5話 診断の限界
蜂蜜は、琥珀色だった。
木の匙の先で、とろりと糸を引く。リーナは壺の蓋を開け、慎重にひとすくいして、寝台の母の口元へ運んだ。
「はい、あーん」
「子供じゃないのよ」
「いいから」
セレナは苦笑して、口を開けた。舌の上に蜂蜜が載る。ゆっくりと、目が細くなっていった。
「……甘い」
「でしょ? ギルドで、自分で稼いだお金で買ったの」
「あなたが」
「うん。薬草を売ったの。上質だって褒められた」
リーナは得意げに胸を張った。セレナは娘の頬に手を伸ばし、指先でそっと撫でた。
「立派になったわね」
窓際の椅子で、アルクはその光景を見ていた。特別室には午後の陽が差し込み、白いシーツに斑の影を落としている。穏やかな時間だった。
けれど、セレナが二口目を食べたとき、喉が震えた。
咳が、出た。
最初は軽い。やがて連続し、肩が上下し、息が詰まる。リーナが慌てて背をさすり、布を渡した。セレナは顔を背け、布を口に押し当てる。
「大丈夫。大丈夫だから」
咳が収まるまで、数十秒かかった。その間、リーナの手は止まらなかった。母の背を撫で続け、目だけが、アルクの方を向いた。助けて、と言っていた。
扉が叩かれ、白い頭巾の女性が入ってきた。
「お加減はいかがですか、ハートウェル様」
癒し手のシスター・アンナだった。三十代半ばの、疲れた目をした女性だ。肩までの茶色い髪を頭巾にしまい、両手には薬箱を抱えている。彼女はセレナの脈を取り、額に手を当て、目を閉じた。
掌が、淡く光った。
それは村の魔法とよく似た、青白い光だった。光はセレナの胸に降りて、ゆっくりと吸い込まれていく。アルクのHUDが、ナノマシンの流れを映した。癒し手の周囲の粒子が、セレナの身体へ流れ込む。
そして、数秒後。
セレナの周囲の濃度が、上がらなかった。
むしろ、僅かに下がった。
「……やはり」
アンナが目を開けた。唇を噛み、手を引く。
「どうしたんですか」
「いえ」
「今、光が入りましたよね。それなのに、母の顔色が、悪くなった」
リーナの声が硬くなった。
「ねえ、癒しは効いてるんでしょう?」
アンナはしばらく黙っていた。それから、薬箱を床に置き、真っ直ぐにリーナを見た。
「リーナさん。正直に、お伝えします」
「はい」
「魔力枯れ病は、教会の癒しでは、治せません」
部屋が、静かになった。
「それだけではないのです。この病の患者様に癒しを重ねると、かえって、枯れが進むことがあります。魔力を分け与えようとするほど、患者様の回路が、それを吸い上げてしまう。吸い上げた先で、何かが、失われていく」
「何かって」
「分かりません。私たちは、原因を知らないのです」
アンナの声は、低く、震えていた。
「ですから、この医院でできるのは、痛みを和らげることと、休んでいただくことだけです。癒しの光は、使えません。申し訳ありません」
「それじゃ……何のために、ここに」
「リーナ」
セレナが、静かに呼んだ。
「いいの」
「よくない!」
リーナは立ち上がった。蜂蜜の壺が、膝から滑り落ちかけ、アルクが慌てて受け止める。
「治るって、思ったのに。王都の医院なら、教会の癒し手なら、治るかもしれないって。そのためにここまで来たのに、治せないどころか、触ったら悪くなるなんて」
「リーナさん」
「教会は、知ってたんでしょう? 五年も、十年も、こういう人がいたはずでしょう!」
アンナは唇を結んだ。何も言い返さなかった。それが、肯定の代わりだった。
リーナは、扉を乱暴に開けて、廊下へ飛び出していった。
アルクは壺を机に置き、セレナを見た。彼女は静かに首を振った。
「追ってあげて。あの子は、私の前では泣かないから」
廊下の突き当たりに、小さな中庭があった。リーナはそこで、石の柱に額を押し当てて立っていた。肩が震えている。
「……母さんの前で、怒鳴っちゃった」
「ああ」
「だめだよね。一番つらいのは母さんなのに」
アルクは隣に立った。何を言えばいいのか、まだ分からなかった。ただ、ここ数日で学んだことが一つだけあった。黙って、隣にいること。
やがて、リーナが顔を上げた。目は赤かったが、決意が灯っていた。
「ねえ、アルク。記録、見られないかな」
「記録?」
「この医院の、病棟の記録。魔力枯れ病で来た人が、今まで何人いて、どうなったか。教会が知ってたなら、残してるはずでしょ」
アルクは一瞬迷い、頷いた。
「アンナさんに頼もう」
アンナは、最初は渋った。しかし、リーナの顔を見て、観念したように息を吐いた。
「閲覧は、制限されています。大司教猊下の許可が」
「それなら、猊下に直接」
「いえ……私が責任を取ります。見るだけです。持ち出しは禁止です」
記録室は、地下の小さな石室だった。棚に分厚い帳面が並び、蝋燭の火が揺れている。アンナが一冊を取り出し、机に置いた。
アルクは頁をめくった。
病名、入院日、症状、死亡日。几帳面な筆跡で、数十年分の記録が並んでいる。魔力枯れ病の項目は、時代を追うごとに増えていた。特に、五年前から。
そして、ある欄で、手が止まった。
備考に、小さな印があった。鐘の絵。
鐘の印がつけられた患者は、全員、鐘守だった。
「これ……」
「鐘守の名簿と照合した記録です」
アンナが小声で言った。
「第一期から第七期まで、各期七名。全員が、魔力枯れ病で亡くなったわけではありません。ですが、ここ五年で、急に」
「第七期は」
アルクは頁を繰り、第七期の欄を見つけた。
七名の名前が、並んでいた。
セレナ・ハートウェル。生存。
その下に、五人。病没。死亡日は、全て、この五年以内。
最後の一人の欄は、黒い墨で塗り潰されていた。
アルクは、目を凝らした。塗り潰された文字の下に、かすかに筆圧の跡が残っている。だが判読はできなかった。墨の黒さが、他の頁より鮮やかだった。
「ここは」
「……閲覧不可です。以前は、名前が書いてあったはずですが」
「いつ、消された」
アンナの顔が、青ざめた。
「先月です。猊下の指示で」
リーナが、息を呑む音がした。
「待って。じゃあ、母さんの同期は、七人のうち五人が死んで、一人は消されて、残ってるのは母さんだけ?」
「……そうなります」
「どうして、鐘守だけ」
誰も答えなかった。蝋燭の火が、石壁に揺れる影を作った。
アルクは、考えた。鐘と病。鐘の周期と軌道信号の一致。濃度の低下。回路の強い者ほど吸われる。全てが一本の線で繋がりかけている。けれど、まだ確証はない。
彼は、リーナを見た。
村にいた頃の自分なら、確証が得られるまで黙っていただろう。余計な不安を与えたくない、という理由で。けれどそれは、リーナの母に隠し事をされていた彼女が、一番嫌った形だった。
「リーナ」
「なに」
「推測だが、聞いてくれるか」
彼女は、頷いた。
「鐘が、関係している可能性がある。鐘守が吸い上げられているのは、鐘の音のせいかもしれない。確証はない。ただ、記録がそう示している」
リーナの目が、大きく見開かれた。それから、ゆっくりと細まった。
「……教会が、母さんを、殺したってこと?」
「まだ、そうとは言えない」
「でも、そう思うんでしょう」
「可能性の一つとして」
彼女は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。叫びたいのを、必死に堪えているのが分かった。
「言わないで」
小さな声だった。
「母さんには、まだ言わないで。今、これ以上、不安にさせたくない」
「分かった」
「それと」
彼女は顔を上げた。
「ちゃんと、調べて。私も手伝う。逃げないで」
「ああ」
アルクは、塗り潰された最後の一行を見た。
先月。猊下の指示。
誰かが、何かを、隠そうとしている。それも、つい最近になって。
蝋燭の炎が、揺れた。一人の名前が、墨の下で、息を潜めているようだった。




