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堕天のアルケー  作者: 山本田38ページ
第2章 大賢者
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第5話 診断の限界

 蜂蜜は、琥珀色だった。


 木の匙の先で、とろりと糸を引く。リーナは壺の蓋を開け、慎重にひとすくいして、寝台の母の口元へ運んだ。


「はい、あーん」


「子供じゃないのよ」


「いいから」


 セレナは苦笑して、口を開けた。舌の上に蜂蜜が載る。ゆっくりと、目が細くなっていった。


「……甘い」


「でしょ? ギルドで、自分で稼いだお金で買ったの」


「あなたが」


「うん。薬草を売ったの。上質だって褒められた」


 リーナは得意げに胸を張った。セレナは娘の頬に手を伸ばし、指先でそっと撫でた。


「立派になったわね」


 窓際の椅子で、アルクはその光景を見ていた。特別室には午後の陽が差し込み、白いシーツに斑の影を落としている。穏やかな時間だった。


 けれど、セレナが二口目を食べたとき、喉が震えた。


 咳が、出た。


 最初は軽い。やがて連続し、肩が上下し、息が詰まる。リーナが慌てて背をさすり、布を渡した。セレナは顔を背け、布を口に押し当てる。


「大丈夫。大丈夫だから」


 咳が収まるまで、数十秒かかった。その間、リーナの手は止まらなかった。母の背を撫で続け、目だけが、アルクの方を向いた。助けて、と言っていた。


 扉が叩かれ、白い頭巾の女性が入ってきた。


「お加減はいかがですか、ハートウェル様」


 癒し手のシスター・アンナだった。三十代半ばの、疲れた目をした女性だ。肩までの茶色い髪を頭巾にしまい、両手には薬箱を抱えている。彼女はセレナの脈を取り、額に手を当て、目を閉じた。


 掌が、淡く光った。


 それは村の魔法とよく似た、青白い光だった。光はセレナの胸に降りて、ゆっくりと吸い込まれていく。アルクのHUDが、ナノマシンの流れを映した。癒し手の周囲の粒子が、セレナの身体へ流れ込む。


 そして、数秒後。


 セレナの周囲の濃度が、上がらなかった。


 むしろ、僅かに下がった。


「……やはり」


 アンナが目を開けた。唇を噛み、手を引く。


「どうしたんですか」


「いえ」


「今、光が入りましたよね。それなのに、母の顔色が、悪くなった」


 リーナの声が硬くなった。


「ねえ、癒しは効いてるんでしょう?」


 アンナはしばらく黙っていた。それから、薬箱を床に置き、真っ直ぐにリーナを見た。


「リーナさん。正直に、お伝えします」


「はい」


「魔力枯れ病は、教会の癒しでは、治せません」


 部屋が、静かになった。


「それだけではないのです。この病の患者様に癒しを重ねると、かえって、枯れが進むことがあります。魔力を分け与えようとするほど、患者様の回路が、それを吸い上げてしまう。吸い上げた先で、何かが、失われていく」


「何かって」


「分かりません。私たちは、原因を知らないのです」


 アンナの声は、低く、震えていた。


「ですから、この医院でできるのは、痛みを和らげることと、休んでいただくことだけです。癒しの光は、使えません。申し訳ありません」


「それじゃ……何のために、ここに」


「リーナ」


 セレナが、静かに呼んだ。


「いいの」


「よくない!」


 リーナは立ち上がった。蜂蜜の壺が、膝から滑り落ちかけ、アルクが慌てて受け止める。


「治るって、思ったのに。王都の医院なら、教会の癒し手なら、治るかもしれないって。そのためにここまで来たのに、治せないどころか、触ったら悪くなるなんて」


「リーナさん」


「教会は、知ってたんでしょう? 五年も、十年も、こういう人がいたはずでしょう!」


 アンナは唇を結んだ。何も言い返さなかった。それが、肯定の代わりだった。


 リーナは、扉を乱暴に開けて、廊下へ飛び出していった。


 アルクは壺を机に置き、セレナを見た。彼女は静かに首を振った。


「追ってあげて。あの子は、私の前では泣かないから」


 廊下の突き当たりに、小さな中庭があった。リーナはそこで、石の柱に額を押し当てて立っていた。肩が震えている。


「……母さんの前で、怒鳴っちゃった」


「ああ」


「だめだよね。一番つらいのは母さんなのに」


 アルクは隣に立った。何を言えばいいのか、まだ分からなかった。ただ、ここ数日で学んだことが一つだけあった。黙って、隣にいること。


 やがて、リーナが顔を上げた。目は赤かったが、決意が灯っていた。


「ねえ、アルク。記録、見られないかな」


「記録?」


「この医院の、病棟の記録。魔力枯れ病で来た人が、今まで何人いて、どうなったか。教会が知ってたなら、残してるはずでしょ」


 アルクは一瞬迷い、頷いた。


「アンナさんに頼もう」


 アンナは、最初は渋った。しかし、リーナの顔を見て、観念したように息を吐いた。


「閲覧は、制限されています。大司教猊下の許可が」


「それなら、猊下に直接」


「いえ……私が責任を取ります。見るだけです。持ち出しは禁止です」


 記録室は、地下の小さな石室だった。棚に分厚い帳面が並び、蝋燭の火が揺れている。アンナが一冊を取り出し、机に置いた。


 アルクは頁をめくった。


 病名、入院日、症状、死亡日。几帳面な筆跡で、数十年分の記録が並んでいる。魔力枯れ病の項目は、時代を追うごとに増えていた。特に、五年前から。


 そして、ある欄で、手が止まった。


 備考に、小さな印があった。鐘の絵。


 鐘の印がつけられた患者は、全員、鐘守だった。


「これ……」


「鐘守の名簿と照合した記録です」


 アンナが小声で言った。


「第一期から第七期まで、各期七名。全員が、魔力枯れ病で亡くなったわけではありません。ですが、ここ五年で、急に」


「第七期は」


 アルクは頁を繰り、第七期の欄を見つけた。


 七名の名前が、並んでいた。


 セレナ・ハートウェル。生存。


 その下に、五人。病没。死亡日は、全て、この五年以内。


 最後の一人の欄は、黒い墨で塗り潰されていた。


 アルクは、目を凝らした。塗り潰された文字の下に、かすかに筆圧の跡が残っている。だが判読はできなかった。墨の黒さが、他の頁より鮮やかだった。


「ここは」


「……閲覧不可です。以前は、名前が書いてあったはずですが」


「いつ、消された」


 アンナの顔が、青ざめた。


「先月です。猊下の指示で」


 リーナが、息を呑む音がした。


「待って。じゃあ、母さんの同期は、七人のうち五人が死んで、一人は消されて、残ってるのは母さんだけ?」


「……そうなります」


「どうして、鐘守だけ」


 誰も答えなかった。蝋燭の火が、石壁に揺れる影を作った。


 アルクは、考えた。鐘と病。鐘の周期と軌道信号の一致。濃度の低下。回路の強い者ほど吸われる。全てが一本の線で繋がりかけている。けれど、まだ確証はない。


 彼は、リーナを見た。


 村にいた頃の自分なら、確証が得られるまで黙っていただろう。余計な不安を与えたくない、という理由で。けれどそれは、リーナの母に隠し事をされていた彼女が、一番嫌った形だった。


「リーナ」


「なに」


「推測だが、聞いてくれるか」


 彼女は、頷いた。


「鐘が、関係している可能性がある。鐘守が吸い上げられているのは、鐘の音のせいかもしれない。確証はない。ただ、記録がそう示している」


 リーナの目が、大きく見開かれた。それから、ゆっくりと細まった。


「……教会が、母さんを、殺したってこと?」


「まだ、そうとは言えない」


「でも、そう思うんでしょう」


「可能性の一つとして」


 彼女は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。叫びたいのを、必死に堪えているのが分かった。


「言わないで」


 小さな声だった。


「母さんには、まだ言わないで。今、これ以上、不安にさせたくない」


「分かった」


「それと」


 彼女は顔を上げた。


「ちゃんと、調べて。私も手伝う。逃げないで」


「ああ」


 アルクは、塗り潰された最後の一行を見た。


 先月。猊下の指示。


 誰かが、何かを、隠そうとしている。それも、つい最近になって。


 蝋燭の炎が、揺れた。一人の名前が、墨の下で、息を潜めているようだった。


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