Chapter 11 Desire Loop 05
「つまり、今はエヴァを家に置いて、お前がここ数日間エヴァの代わりに学校へ来ていたってことか?」
「その通りだ」
ベルは首の後ろで手を組みながら、俺の後ろをついて歩いた。俺たちがいる廊下には、窓から不気味なピンク色の光が差し込んでいる。
ヴェルモーラの能力は本当に学校中の人間に影響を及ぼしているらしく、周囲は不気味なほど静まり返っていた。隣の教室をのぞき見ても、同じように全員が意識を失っている。
「あの女神は Void の能力を受けて精神が不安定になってな。だからアイ様が代わりに私をここへ寄こしたのだ。お前、本当に気づかなかったのか?」
「俺、魔法の気配を見分けるのは苦手なんだよな」
「そうか。まあ無理もない、アイ様の魔法は深遠だからな」
確かにそれもあるが、俺個人の理由としては魔力を持っていないせいですべての魔法が見えないのだ。ましてや姿を変える魔法なんて、疑う余地もなく騙されるに決まっている。
ベルは言葉を続けた。
「おそらく Void は、あの女神が女神であることにまだ気づいておらず、大して重要視していなかったのだろう。そうなる前に、アイ様がこのような形で手を打たれたのだ。お前が不満を抱くと思って黙っていたのだろうがな」
「俺が不満を抱くわけないだろ? エヴァの安全を思ってのことなんだろ?」
「あやつ……まあ、そうだな」
ベルは短く答えた。俺は何か大切なことを見落としているのだろうか……。
ここ数日、エヴァがああだったから俺は彼女と全く話していなかった。まさか結構前からベルと入れ替わっていたなんて思いもしなかった……。
「そうだ、ベルさん」
「ベルでよい。お前はアイ様の弟なのだからな」
ベルは笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、ベル。……ちょっと聞いてもいいか? お前が意識を失っていた時、何を見たんだ?」
「……なぜだ?」
「今回の件で、ヴェルモーラに何のメリットがあるのかまだ分からないんだ。意識を失っている間に俺たちを仕留めるつもりなら、とっくにやっていたはずだ。それに……ヴェルモーラの狙いは、俺たち自身じゃないような気がしてならないんだ」
彼女は「みんなに愛されること」が目的だと言っていた。……それは、色欲の Void という形で己の強さを誇示するための手段なのかもしれない。
つまり、アヴァリスの時のように、最初から俺を標的にしているわけではないということだ。
他人の視点からの情報があれば、ヴェルモーラが何を望んでいるのかが見えてくるかもしれない。
ベルは喉を鳴らし、俺の肩をガシッと掴んだ。
「アイ様には絶対に秘密だと約束しろ」
「あ、ああ……」
そんな命がけみたいな話なのか……?
すると、ベルは口を開いた。
「私は……アイ様と恋人同士になっていたのだ」
「あー……」
なぜ俺に口止めしたのか、なんとなく理解できた。
俺はさらに尋ねた。
「それって、過去に本当にあったことなのか?」
「私のただの妄想だ。アイ様は……もう誰も愛せないのだから」
クロイチと同じようなことを言うな。
俺は一旦その話題から意識を逸らした。
「俺が見たものとは、随分と違うみたいだな」
「お前は何を見たのだ?」
「パーティの仲間たちと初めて出会った時のことだ。しかも、実際に起きた出来事だった」
「随分と差があるな」
「それとも、それぞれが見ているものは、ヴェルモーラの能力とは直接関係がないのか?」
ベルは首を振った。
「いや、これほどの規模の集団に同様の影響を与える力が、異なる結果をもたらす可能性は低い。お前と私が放り込まれた幻影には、必ず何か共通する要素があるはずだ」
「うーん……色欲、か……」
ベルの場合は情欲と言っても間違いではないが、俺の場合は違う。
だとしたら、共通点とは一体何なんだ……。
「ユウ」
ベルの声が、何かに気づいたようなトーンに変わった。
「ん?」
「お前……本当は異世界に戻りたいと思っているのではないか?」
「戻りたい……だって……?」
俺はその言葉を繰り返した。
俺は魔王を討伐した後、元の世界に戻ることを報酬として望んだ人間だ。だけど、戻ってきてから……そうだ。
モンスターが学校に襲来した時、デコイルが襲撃してきた時、俺の感情は「なんでここにモンスターがいるんだ!? 最悪だ」ではなかった。
むしろ……。
またモンスターと戦えるという、高揚感だった。
もしかしたら……戻ってきて以来、俺はずっと心のどこかで再び異世界へ行きたいと願っていたのかもしれない。
だとしたら……俺はなぜ最初からこの世界に戻ることを選んだんだ? 得られるはずの報酬は、必ずしもここに戻ることである必要はなかったはずなのに。
なぜだ……。
「くっ……!」
ハンマーで殴られたかのような激しい頭痛が襲う。
それを見たベルが俺を支えた。
「ユウ!」
「ごめん……ちょっと立ちくらみがしただけだ。だけど……分かったよ。俺たちが……みんなが見ているものが何なのか」
俺がそう言うと、答えにたどり着いたらしいベルも笑みを浮かべた。
「『願望』だな?」
俺は頷いた。
「ああ。俺の場合は異世界に戻りたいという願いだから、みんなと出会った瞬間が見えたんだ。俺の冒険はそこから始まったから。お前の場合は……少し踏み込みすぎかもしれないけど、アイの恋人になりたいってことだろ?」
「……」
ベルは答えず顔を背けたが、それが肯定の証だった。
「つまり、見えているのは願望だ。だけど、ヴェルモーラがなぜ俺たちにそんなものを見せる必要があるのか、その理由はまだ分からない……」
俺が話しているその時、あの独特の重なり合う声が学校中に響き渡った。
「それは、皆さんに幸せになってほしいからですよ」
その声に、俺とベルは即座に背中合わせになり、周囲に視線を走らせた。
「ヴェルモーラ!」
「私は皆さんの幸せそうな姿を見るのが大好きなのです。あなたもそうではないのですか? 勇者ユウ」
そんなの、幸せであってほしいに決まっている。
だけど……!
「他人の心から生み出した幻影をそんな汚い方法で利用しておいて! それが本当の幸せだと言えるのか!?」
ベルが俺の思考を代弁するように叫んだ。
険しい目つきで、獰猛に牙を剥く。
ヴェルモーラは嘲笑うように言った。
「少なくとも望んでいたものでしょう? 正直、私には皆さんが何を見ているのかまでは分かりませんが、あなたにとっても喜ばしいことだったのではないですか? 竜族さん」
ベルはそれを聞き、悔しそうに唇を噛んだ。
……声は周囲に響き渡っているが、本体はどこにいる。
そして、もし見つけたとしても、俺とベルの身体能力だけで本当に倒せるのか?
これまでは冷戦状態が続いていたが、学校の人間を巻き込んでここまで能力を使う以上、放置するわけにはいかない。……今ここで仕留めるしかない。
俺は魔力の流れを読めないが、仮に読めたとしても Void は魔法の法則に従わない。つまり、ヴェルモーラの居場所を特定する方法は皆無に等しいということだ。
「おい、ヴェルモーラ」
「何かしら?」
「みんなに幸せになってほしいって言ったよな?」
彼女が鼻で笑っている気配が伝わってくる。
「ええ、そうですよ。あなたは幸せではないのですか? 私が与えた夢の景色は」
その言葉に、俺の眉がピクリと跳ねた。
「それが本当の幸せだとしたら……」
俺にとっては間違いではなかったかもしれない……。だけど……。
あいつの、あの今にも泣き出しそうな顔は何なんだ。
「じゃあ、なんでアイはあんな顔をしていたんだよ!? ヴェルモーラ!」
あれは一体どういう意味なんだ!
「あはは! そのことで怒っていらっしゃるのですか? まあ……強いて言うなら、アイ君の幸せは、彼にとって悲しいことでもあるのでしょうね」
「出鱈目を言うな! 戦う気があるなら今すぐ出てこい! 俺がお前を殺してやる! ヴェルモーラ!!!」
「そう急がないでください。私はまだ準備が整っていないのです……。ですが、これくらいならもう動かせますね……」
声が途切れた瞬間、教室……すべての教室から、ガタガタと何かが崩れるような騒音が響いた。
次の瞬間、眠っていたはずの生徒たちが、まるでゾンビ映画のように一斉に這い出してきた。
俺とベルは廊下の中央にいる。あと数瞬もしないうちに、数多の生徒たちに四方八方から囲まれる。
「この者たちは満たされた者たち……。気分を害するようなことは言いたくありませんので、端的に申し上げましょう……。彼らは私の操り人形 になったのです」
それだけで十分に胸糞悪い。
押し寄せてくる無数の瞳には生気がなく、その首筋にはハートの紋章が刻まれていた。あれこそが、ヴェルモーラに願望を満たされて操り人形と化した証だ。
能力の性質は魔術師の洗脳に近いが、これほど多くの対象を同時に制御できるとなると、格が違いすぎる。
「私を深く愛する人形たちが時間を稼いでくれている間に、私は失礼させていただきますね。ほんのもう少しで準備が整います。その時まで生き延びられることを祈っていますよ、勇者様、竜族様」
「ヴェルモーラ!」
俺は叫んだが、もう返事はなかった。
もう少しで準備が整うって……一体何のことだ。
「ユウ! ぼうっとするな!」
「おお!」
俺は応じ、意識を失ったまま襲いかかってくるクラスメイトたちの群れに向き直った。




