Chapter 9 Their World , Their Return 02
リリィがこの世界に来てからというもの、俺は毎朝エヴァと一緒に登校するのが日課になっていた。理由の一つは、リリィの様子を見るためだ。
これまでのところ心配な点は何もなく、むしろ俺が思っていた以上に贅沢な暮らしをしているようだった。
あいつが楽しそうにしている姿で思い出すのは……クロエにかなり高価な新しい杖を買ってもらった時くらいだろうか。
その杖は、今でも大切に使っているようだ。
「……ちっとも清々しくない朝ね」
エヴァがドアを開け、俺と一緒にいるアイの姿を見るなり、隠そうともせずに嫌そうな顔をした。
俺は口を開く。
「ちょっといろいろあってな。まあ、デコイルと亀裂の件は当分心配いらなくなったよ」
俺は状況をかいつまんでエヴァに伝えた。
エヴァは腕を組み、鼻を鳴らす。
「一週間も姿を消してた甲斐はあったみたいね」
「……ああ」
エヴァの皮肉に、アイが短く応える。
そのままアイがエヴァの家に入ろうとすると、彼女がその腕を掴んで引き止めた。
「ちょっと待って!? まだ招き入れてないんですけど!?」
「リリィはどこだ?」
「まだ寝てるわよ!」
「起こしてこい。あいつをベータに送り返す」
エヴァが眉を上げた。
「えっ……なんで急に」
「……? ずっと帰りたがっていたのではないのか?」
「それはそうだけど……。はぁ、分かったわよ。起こしてくるから、ユウは中で待ってて」
エヴァに促され、俺は家の中へ足を踏み入れる。
だが、アイが後に続こうとした瞬間、エヴァが手をかざして遮った。
「あんたは外で待ってなさい!」
「……くだらん」
アイが低く呟く。
俺は板挟みになって困り顔をするしかなかった。一方は家主、もう一方は俺の兄貴だ。深入りは禁物だろう。
「少しは謝る気にならないわけ? ユウがこの間、どんな目に遭ったか分かってるの!?」
「ユウはお前のように瑣末なことは気にせん。それに、あいつはお前が思っているよりずっとタフだ」
「タフかどうかは関係ないでしょ!」
……まあ、殺し合いにまでは発展しないだろう。
俺は苦笑いしながら言った。
「じゃあ……俺がリリィを起こしてくるよ。二人はゆっくり話し合っててくれ……」
そう言い残したが、二人の言い合いが止まる気配は微塵もなかった。
リリィがどの部屋で寝ているのかは知らない。夕食を食べに来たことはあるが、二階に上がったことは一度もなかったからだ。
だが、リリィから漏れ出す微かな光属性の気配を辿れば……この部屋か。
ドアをノックしようとして、ふと思い出す。リリィの寝起きの悪さは天下一品だ。死ぬほど揺すってもなかなか起きないあいつが、ノック程度で起きるはずがない。
……少し失礼させてもらう。
俺はエヴァの部屋のドアを開けた。そこにはリリィが眠っていた。
「……相変わらず、はしたない寝相だな」
喉の奥で小さくいびきをかいている聖女を見下ろす。
掛け布団はあらぬ方向に蹴り飛ばされ、めくれたシャツの裾からはへそが丸見えだ。頬にはよだれの跡がついている。
「エヴァに迷惑かけすぎだろ、これ……。おい、リリィ」
俺はあいつの体を揺すった。
「ん……むにゃ……」
本当に起きない。
リリィの防御力はそれなりに高い。俺ほどではないが、二分の一くらいの力で殴っても痣にはならないだろう。
だが、そんな乱暴な真似は気が引ける。
俺は、かつてクロエが爆睡中のリリィをダンジョンへ引きずっていく時に使っていた方法を試すことにした。
外に出ると、アイとエヴァの言い合いは終わっていた。というか、少なくとも口をきいていないようだ。
俺に気づいたエヴァが声を上げる。
「ちょっと……なんでリリィをそんな風に担いでるのよ……」
俺はリリィを米俵のように肩に乗せていた。
「揺すっても起きなかったんだ」
「そうだとしても……」
エヴァが困惑していると、眩しい朝の光がリリィの瞼を射抜いた。熱気が体に触れたその瞬間――。
「ま、眩しいいいいい!!!」
リリィは酸っぱいものでも食べたような顔をして、目を細めながら顔を覆った。
俺はニヤリと笑う。
「お目覚めか?」
「起きないわけないですよぉ! クロエさんに無理やり連行されてるのかと思いました!」
リリィはひらりと地面に飛び降りると、寝ぼけ眼なのか光のせいなのか、目をこすりながら周囲を見回した。
「むにゃ……エヴァさん、おはようございます……」
「え、ええ、おはよう」
「ユウさんも……あれ? なんでユウさんが二人いるんですか……」
リリィは俺とアイを交互に見つめる。二重に見えているのか。
ようやく判別がついたのか、リリィは目を丸くした。
「あら? アイさんじゃないですか。おはようございまーす♪」
「ああ……」
「相変わらず、怖い顔をしてますねぇ〜」
「……そうか」
リリィも異世界時代にアイとは何度か会っている。だが、親しいかと言われると……どうなんだろうな。
エヴァが俺の耳元で囁いてきた。
「……なんでリリィ相手だと、あいつ毒を吐かないわけ!?」
「どういう意味だよ」
「見てなさいよ! 『怖い顔』なんて言われて『そうか』だけで済ませるなんて。私が言ったら、あいつの口から猟犬の群れが飛び出してくるわよ!」
「二人がどれくらい仲が良いのかは知らないけどさ……そもそも、リリィに毒を吐ける奴なんてこの世にいるか?」
エヴァは真剣に考え込んだ。
「……そうね。あの子をいじめて泣かせたりしたら、罪悪感で心臓が保たない気がするわ」
エヴァが納得して満足げにしていると、アイの鋭い紅い瞳がこちらを向いた。リリィはおどおどと前で手を組んでいる。
「どうした、アイ?」
アイは目を閉じ、呆れたように言った。
「……別れの挨拶くらい、済ませたらどうだ?」
俺とエヴァに促すようにそう告げると、彼は家の壁に背を預け、俺たちがリリィを見送る時間を黙って作った。
沈黙を破ったのはリリィだった。
「エヴァさん」
「ええ……」
「この服……いただいてもいいですか?」
エヴァの肩がガクッと落ちた。それはエヴァのパジャマだろう。
リリィは照れくさそうに頭をかいた。
「その、思い出に欲しくて」
「いいわよ、別に。何着もあるし……」
「ありがとうございます!」
「……まさか、話すことはそれだけじゃないよな?」
俺が口を挟むと、リリィはクスクスと笑った。
「私、お別れってあまり得意じゃないんです。だから……『またね』という言葉にしておきますね」リリィは静かに目を閉じた。「でも……今まで本当にありがとうございました、エヴァさん。すごく楽しくて、貴族の娘になったみたいに快適でした!」
エヴァは手を振る。
「そ、そんなことないわよ。私にできる限りのことをしただけ」
「はい!」
「でも……貴女がいなくなると、少し寂しくなるわね」
「二度と会えないみたいな言い方しないでください! いつか必ずまた会えますって!」
「ええ……」
寂しげなエヴァを、リリィがそっと抱きしめた。そして笑顔で言った。
「また会いましょうね、エヴァさん」
「ええ、またね、リリィ」
二人を見ていて、俺も思わず笑みがこぼれた。するとリリィが俺の方を向く。
「ユウさんも、エヴァさんを困らせちゃダメですよ」
「分かってるよ……クロエとシルヴィに、俺は元気だって伝えてくれ」
「了解ですっ!」
リリィは待っていたアイの元へ駆け寄った。
「亀裂へ行くんですね?」
「ああ……」
出発の間際、リリィが俺たちに手を振った。
「暇だったら遊びに来てくださいねー! 全部全部、ありがとうございましたー!」
リリィはその明るい気配を残したまま、俺たちの視界から消えていった。
しばらくして、エヴァがぽつりと漏らした。
「寂しくなるわね」
「そうだな」
「また会えるかしら」
「確実なことなんて何もないけどな」
「……それもそうね」
朝の風が吹き抜ける。その瞬間、エヴァが飛び上がった。
「ユウ! 私たち、遅刻よ!」
慌ててスマホで時間を確認する。
「本当だ! 急ごう!」
「アイはどうするのよ!?」
「あいつは少し遅れるって言ってた。あいつのことだ、遅刻なんて気にしちゃいないさ!」
俺とエヴァは学校に向かって走り出した。だがこの時間、たとえエヴァを背負って全力疾走したとしても、間に合わないのは明白だった。




