第四章(2)
暗がりを見渡せば、先ほどの重い闇は、拭い去ったように掻き消えている。
きれいなものだ。
先ほど、足元からせりあがっていたのは、これまで、そこで殺された者たちの無念だろうか。
一緒に飛んでいってしまった今は、確かめる術もない。
「よし、きれいになったわ」
呟いたあとで、天井を見上げる。
天井板がすべて落ちていた。
というか、屋根がない。
潔く無視する。
気が緩んだ直後、耳に断末魔が飛び込んできた。
外!
弾かれたように窓に駆け寄り、押し開く。
月明かりに、タキが見えた。
暗くとも、彼だけは見間違えようもない。
先ほど、エマたちがいた場所で月光を従えるように立っている。
エマたちの姿はなかった。
タキの手には、抜き身の長剣。
足元に倒れた影は、闇の水溜りみたいに見えた。
あれが、先ほどの断末魔の正体か。
彼の周囲を、黒衣の集団が取り囲んでいる。
瞬時に脳裏を、中央府の官吏の顔が過ぎる。
彼はあの中にいるのか。
建物の三階からでは顔が判別できない。
しかも、暗がりだ。
せめて、顔を上げてくれたらと思うが、それは難しい。
なにせ彼らの前にいるのは、タキだ。
東の怪物。
タキの存在感は、問答無用の暴威である。
周囲の黒衣たちは、塗り込められた黒い絵の具みたいに、身動ぎもしない。
いや、できない。
私は身を投げ打つように、部屋の中央へ駆け戻った。
黒衣たちを操るのがカーターなら、彼さえ押さえれば確実に他の動きを封じられる。
私は鉄の箱に手をかけた。
左手首で、シャラ、と腕輪が繊細な音を立てる。
その音をメキ、バキッ、という騒音が掻き消した。
私が力づくで鉄の箱の蓋を引っぺがしたからだ。
上蓋の蝶番が弾け飛ぶ。
全開になった箱から、さらに黄金のひかりが青い闇に冷たく溶け出た。
太古の金貨。
掌大の大きさで、壮年の男の横顔が浮き彫りされていた。
この男が、始原と呼ばれる帝国の初代帝王。
荘厳で、秀麗な横顔。
うつくしい金貨だった。
だからと言って。
それだけだ。
私は上蓋をひょい、と投げ捨てた。
見るものの魂を魅了し続けた金貨が入った箱を、無造作に持ち上げる。
一度ふらついたが、水瓶より軽々と、それは私の肩に乗った。
常人ならば、持ち上げる前に腰を痛める。
土を身につけた教示者の怪力ならではだ。
大股に、再度窓辺に寄り、私は窓枠に片足をかけた。
行儀は最悪だが、そんなことを気にしている場合ではない。
庭の状況に動きは見えない。
相変わらずの膠着状態だ。
私は気が短い。いつまでも付き合いきれなかった。
私は大きく息を吸い込んだ。
「…どっかにいるなら、さっさと顔出しなさいよ…っ」
ゴルベの邸で宣言したとおり、叩きのめしてやる。
怒りが力に火をくべた。
私は猛然と、鉄の箱を地面目がけて投げつける。
狙いはできるだけ、遠く。
結果。
館の庭に、金貨の雨が燦然と降る。
刹那、すべての注意が頭上を向いた。
状況の判断に絶したそれぞれの顔を、金貨のきらめきが斑に照らす。その中で。
木陰からさ迷い出て、驚愕に仰のいた人影があった。
私は会心の笑みを浮かべる。
「見つけた…!」
異変に気付いたか、遠くから二つの影が黒い疾風のように馳せよって来る。
イエルとゼンだ。
彼らの敵意に撃たれ、引き絞られた弓みたいに硬直していた事態が、一挙に解き放たれた。
ゼンの鞭が撓り、イエルの槍が唸る。
黒衣たちが刃を抜き連ねた。
タキが悠然と切っ先を上向かせ、―――――直後、殺意が奔騰した。
ど、と地上から血なまぐさい熱波が吹き上がる。
押しやられる形で室内に後退し、すぐさま、私は身を翻した。
残る虚脱に、一度、よろめく。
それも無視して、勢いよく階段を駆け下りた。
カーターを逃してなるものか。
一階に辿り着き、扉から外へ飛び出しかけた直前。
鼻先を掠めた烈風に、私は棒立ちになった。
開け放したままの扉の前で、斬撃が暴発の勢いで火花を散らす。
間合いに踏み込むだけで、肉がはじけそうな危機感に、私は本能的に後退った。
目の前で、タキとカーターが対峙していた。
刀身が嵐を生みそうな剣勢。
鼓膜が痛む刃音。
飛鳥みたいに刃が舞う。
一合、一閃、また一合。
なのにどちらにも、会話ほどの緊張感もない。
見ているほうは、息が詰まる。
切っ先が微塵に、闇を刻んだ。
突如、それを吹き払うように、岩すら叩き割る一閃が、カーターを横殴りに襲った。
避けられない。
咄嗟に受けた、彼の姿勢が崩れる。
生じた隙は、致命的だ。
にも関わらず、カーターの頬に笑みが浮かんだ。
己の命すら弄ぶように。
タキは踏み込まなかった。代わりに。
タキは後退。
ごく自然に、私の前へ。
乱刃から庇うために。
彼が当然のように私に手を伸ばすより早く。
私はタキの腕の中へ飛び込んだ。
腕を伸ばし、手を彼の背に回す。
当然、腕が回りきるはずがない。
縋るように、着物を掴む。
彼の懐へもぐりこむように、タキの胸元に強く頬を押し当てた。
私は。
誰かに頼っていい立場ではない。
たとえいつも守られていても、最後の最後には、相手を守る立場に、私は立っていなければならない。
その、私が。
この世で、唯一頼っていい相手。それが。
東の太守・タキ。
そして、この男は。
面倒だ、と投げ出したりせず。
受け止めてくれる。
―――――いつだって。
今だって。
抱きとめてくれた。
剣を持っていない手で肩を抱かれる。
途方もない安堵に、私は足元が崩れそうになった。
無論、タキとの関係上、意地でもぎりぎりまで頼りたくはない。けれど。
自身すら騙していた強がりが、そろそろ底をつく。
このときばかりは、カーターへの報復も何もかも、頭から消えていた。
唇を引き結ぶ。涙が滲んだ。
こわかった。
死霊には、慣れている。
他者の無情な言動にだって。
でも。
…好きな、わけがない。
気付いたか、タキが私を、さらに深く抱き込んだ。
私を外から隠そうとするように。
そして甘やかす所作で、無骨な指先が頭を撫でる。
―――――昔から、こういうところは変わらない。いや。
慣れたぶん、いっそう慈愛に満ちている。
この男が、と驚くほど。
だが、そうしてばかりもいられない状況だと、私も分かっていた。
どうにか、泣き出すのを堪えながら、顔を上げる。
タキの身体越しに見えたカーターは、笑っていた。
数日前、庭で会ったときから変わらない笑顔で。
長剣を下ろし、首を横に振る。
「加減、されるとは。意外でした。アナタが本気なら、私は一合で死んでいた」
「答えろ」
タキは彼の言葉を黙殺し、低く言った。
「東府の混乱が、中央府の総意か。―――――クラン宰相」
瞬時、私の思考すべてが吹っ飛ぶ。
予期せぬ爆撃みたいな言葉だった。
クラン宰相。…カーターが?
意味は分かるが、思考が理解を拒絶する。
カーターと名乗った中央府の官吏も同様だったか、ひび割れた声で尋ねた。
「…いつから」
「はじめからだ。カーター、と偽名は父親のものか? なんにせよ、聖上の右腕直々にお越しとは痛み入る」
重厚な声音は、生真面目なほど静謐だ。
カーターは仮面を被ったように言った。
「中央府に興味もない田舎者の傭兵と侮っていましたよ。なかなかどうして、有能だ。出所は噂に聞く、暗殺者たちの情報網ですか?」
彼はすぐさま、正気に戻る。とたん。
一息、二息つく間に、彼を中心に、闇が濃度を増した。
外見が変わったわけではない。
なのに、肌や髪の色が変わったように、そこにいるカーターは、最早別人に見えた。
いや、クラン宰相、か。
だが今更言い直すのは面倒だ。
もう、カーターでいい。
「一挙に仕掛けた混乱の種は、悉く速やかに封殺。取りこぼしなし。くだらないことばかりだったから見逃しやすいと思ったのですが、見事なお手並みです。簒奪者殿」
「光栄だが、暇人。御託を並べる前に、質問に答えろ」
応酬のたび、空気が冷える。
外では乱刃の嵐が、まだ止まない。
「短気ですね。答えてもいいですが、条件を出させてください」
「言ってみろ」
「先に私の質問に答えてほしい」
一拍置いて、タキは冷静に応じた。
「よかろう」
「寛大な処置に感謝いたします」
慇懃に頭を下げ、カーターは、タキに縋ったままの私を見る。
「ユカ姫。先ほどの金貨の雨は、アナタが降らせたんですか? 驚きましたよ。大胆な方だ」
私は無言で応じた。
彼は構わず続ける。
―――――言ってはならない言葉を。
「あれほどの根強い毒念を一瞬に浄化されたお手並み、鮮やかで感服致しました。こうなった以上、呪いは解けたのでしょうね」
一瞬、気が遠くなった。
今度は、怒りのあまり声もない。
胸に雄叫びが轟く。
解呪までタキにバレないようにこぎつけたのに、この野郎。
殺人鬼的な形相になったか、それまで余裕綽々だったカーターが怯む。
「…え。なぜ、怒るんですか?」
「…呪い、か」
ふいに、タキが呟いた。
押されたように、カーターは一歩後退する。
次第にまわりの空気が重くなってきた。
同時に、凍えそうなほど冷えていく。
なのに私はいやな汗をかいていた。
問いかけるカーターの視線に、音を立ててそっぽを向く。
虎の尻尾を踏ん付けたのはカーターだ。
そ知らぬふりで迂回すればよかったのに。
「ユカ」
「…はい」
抱き合っている状況では逃げようもなく、私は神妙に答えた。
カーターのことを悟っていた以上、他のすべてをタキは把握していたに違いない。
そういう男だ。
ともすると、ユカの行動をも計算に組み込んで放置していた可能性が高い。
ゴルベが私にしたことまでは、予想外だったろうが。
なにせ私には、カサネがついていた。
そのままならば、あのようなことが起こったはずはない。
その彼が、…知らなかったのだ。
ユカの胸で息づいていた毒の種のことを、唯一。
当然、タキの声と態度も不穏になろうというものだ。
隠し切った、と満足を感じるどころか、私は身を縮めて、タキの言葉を待った。
逆らってはいけない。
「…明日一日、東府の書類整理だ」
「…ううぅ、はい…」
ますますカーターが恨めしい。
苦手なものを押し付けられるに決まっている。
計算とか計算とか計算とか。
今から憂鬱だ。
肩に痛いほど重く冷たい空気に、中央府の官吏は…いや、宰相閣下は頬をひきつらせながら、咳払いした。
「余計なことだったようで。すみません」
「なんでまた太守の館に現れたのよっ」
「ああ、ちょっと暗殺でもしていこうかと」
人が良さそうな笑顔も、今となっては薄ら寒い。
タキは、ひとまず落ち着いてきた私を自身の背後に押しこめた。
状況からして荒事にはならないと判断した私は、今度は背中にくっつく。
タキの体温は精神安定剤だ。
ほっぺをぎゅうと押しつける。
なにより、この、広くて小揺るぎもしない背中が私は大好物なのだ。
こういうとき、タキは好きなようにさせてくれる。
「随分大切にしている。それは、太古の名門の血に対する敬意ですか」
「それが、質問か」
冷静なタキに、カーターは言い直す。
「…好奇心なのですが、太古の名門の血を引く者がユカ姫だけでないとすれば、アナタはユカ姫を妻にと望みましたか?」
これが、質問です。
試す語調。
タキは即答した。
「愚問だ。その答えを、お前は持っている」
「いくら私でも、人の心は見通せませんよ」
「己の心は分かるだろう。お前がユカにこだわる理由は、太古の名門の血を引く者であるからか?」
カーターは沈黙。
つられたように、外の騒乱が静まっていく。
「俺は答えた。次は、お前だ。東府の混乱は、中央府の総意か、お前の独断か?」
「…独断です。遊びを仕掛けるなら、今がぎりぎりの時機でしたからね」
タキが、ちらと私に目を向けた。
視線の意味は、私には分からない。
だが、タキには十分だったようだ。
「確かにな」
「楽しめました。全部無駄になりましたが。東府の真価を知るには、十分」
「結論は」
「純潔の種、汚れなき毒、―――――とでも評しましょうか。触れてはならない」
非の打ち所もない典雅な所作で腰を折り、カーターは面白そうに目を輝かせた。
「とりあえず、今のところは。中央府にはそう伝えましょう。そうすれば、東を警戒する者も、そう迂闊に手出しできなくなる。第一、中央の心証はともかく、他国の侵入に際して東府は、得難い牙だ。東の太守殿の人徳を慕う者も多い。合格ですよ」
「暇潰しなら、よそでやれ」
「つれないですね。殺しますか」
「いや。独断ならば、殺さない。悪趣味でも、宰相。死ねば、隠蔽工作が面倒だ」
タキの腕が動く。
刃を鞘に戻した。
動きにあわせ、私がくっついていた背の筋肉がしなる。
「中央府の総意なら、殺した」
「普通、逆でしょう」
「いや? お前を殺したその足で、兵を束ね、軍を動かし、中央府を落とす。隠し事は面倒だが、これなら後腐れない。容易くはないが、可能だ」
澱みも気負いもない声音。
なのに、冷気に吹かれ、知らず、私は身を縮めた。
カーターが苦笑交じりに、けれど真剣に言う。
「だから、アナタは危険なんですよ」
カーターの背後、開け放たれた扉から、血臭が吹き込んだ。
刹那、刃音が止む。
それを見計らったかのように、カーターは身を翻した。
予備動作ひとつない、唐突な所作。
突如疾風と化した彼が、館へ駆け込み、階段まで行きついたところで、やっと私は声を上げた。
「逃げる気っ?」
「お別れは悲しいですが、ユカ姫」
身を乗り出す私に、カーターはふてぶてしい笑みを振り向かせる。
「生きていれば、また会えますよ」
言うなり、彼の姿は消えた。
階段を駆け上る足音も聞こえない。
鮮やかな去りようだ。
おまけに、追う気力を大幅に削ぐ台詞つきである。
見事だ。
「タキ様、ユカ様、お怪我はっ?」
「大将、姫さん、アイツは?」
ゼンとイエルが血刀さげて駆け込んでくるのを尻目に、私は上階目がけ、低く唸った。
「二度とくるな、疫病神…っ」




