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呪歌  作者: 野中
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第四章(1)

不安と恐怖に血の気が引いた門番たちの顔が、駆け寄る私を認めるなり輝いた。

「奥方様!」

「おかえりなさいませっ」

太守の館の門前、へっぴり腰ながら、無理して笑顔を作る。

私は微笑んだ。

ここにいる全員、私が守るべき存在。

私だけは、まだ崩れ落ちてはならない。

「よかったわ、無事ね」


「ええ、ですが、これは」

アレ、ですよねえ、と門番二人は青い顔を見合わせる。

戦中、死霊たちに酷い目にあった経験が、感覚で存在を悟らせるらしい。

フリーダみたいに鈍感な場合を除き、身体に失調をきたす者がいて不思議はないほど深刻な気配が館から噴き出していた。


「他の使用人たちは?」

「館で待機しています」

「太守は?」

「まだ東府におられます」

「ゼンやイエルも、太守と一緒ね?」

「はい」

タキの指示で動いているナツメもおそらく不在だろう。

私は頷いた。


「アナタたちはここで待機。館の住人以外を入れたらダメよ」

門番たちに命じると、彼らは奮い立ったように姿勢を正す。

「はっ、死守いたします」

「他の三人は中へ入って、使用人たちを元気付けてあげて。すぐ終わるからって」

振り向いた私に、ヴァルは心配を隠さず呟いた。

「姫さんひとりで行くの?」


「この空気の中、絶好調に動き回れるのは教示者くらいよ。刺客がいても、ヘバって動けないわ。大丈夫よ」

呪いが解けた今、浮きそうなくらい身体が軽い。

笑い飛ばせば、周囲の顔から曇りがいくらか吹き飛んだ。

「気をつけて」

ヴァルの声に頷き、駆け出す。

目的地は門から遠い。


本館の裏手だ。もどかしい。

回りこむ合間にも、泥みたいな気配はどんどん濃厚になっていく。

エマたちは、この中心にいるのだ。

(早く、早く、もっと早く!)

気持ちだけはとっくに飛んでいるのに、身体は足踏みしているみたいに遅い。

全速力で駆けても、まだ足りない。


―――――間に合え!


賢者のごとく沈黙した、庭の木々の合間を走る。視界が開けた。本館の、裏手。

いた。

今にも折れそうな、みっつの人影。

私は大きく息を吸った。



「なにしてんの、さっさと逃げなさい!」



三対の目が振り向く。

安堵で、胸が痛くなった。無事だ。

鮫の歯みたいな怨念の気配に弱っているが、確かに生きている。

扉を押さえるように、最後尾で両手を突っ張ったカイルが、首を横に振った。

「ぼ、僕がおさえてないと…っ。背を向けたら、喰われます!だから早く、お嬢様とヘルマンさんを…!」

「莫迦!! 逃げる時はアンタも一緒だって言ってんでしょ!」

「…ってことなんで」

半泣きで怒鳴るエマ。

ヘルマンは、おどけた所作で肩を竦める。

二人は、カイルを両脇で支えていた。

聡明なはずの彼らが、考えなしに命を投げ出し挑んでいる。

無策に、ただ一緒に帰るためだけに。

ますます、見捨てられない。

駆ける足を緩めた。


私は彼らの横をすり抜け、意識して氷の声を出す。




「邪魔よ」




易々と通り過ぎた私に、カイルはギョッと目を剥いた。

とたん、両脇の支えも空しく、彼は派手に顔から転倒する。

鼻の頭をすりむいた。

無理もない。


身体に圧し掛かっていた巨人みたいな負荷が、私が通り過ぎると同時に、風に吹かれたように失せたのだから。



隣を通るなり、私が脅しつけたせいだ。



それは泡を食って、ヤドカリみたいに館へ引っ込んだ。

ずっと重荷を支えていたカイルの腕が、震えている。

「え」


カイルはヘルマンに引っ張り起こされた。

エマに縋るように抱きつかれながら、唖然と私を凝視する。

私は表情を消した。

「まず、この不始末を片付けるわ。侵入者はその後に罰します」

厳しく言えば、びく、とカイルは身を縮める。

エマが刃そのものの目を向けてきた。

ヘルマンだけが、察したようににやりと笑う。

「ご配慮、感謝致します」

「感謝ってなによ、ヘルマン」


「おや、お嬢様。ユカ様が不始末の片付けに館の中へ入っている間、ここでおとなしく待っているつもりですか」

エマの瞳から反発が掻き消えた。

理解と驚愕が閃く。

肩を竦め、私はカイルを見遣った。

「頑張ったわね」

「え、あ」


魚みたいに口を開閉するカイルを、エマは反射みたいに庇う。

彼女の指先が赤く腫れ、乾いた血が見えた。

番人を全部片付けた結果だ。

視線に気付き、エマは傷ついた指を後ろに隠した。

私は澄まし顔で言う。


「私、連中の呪いにかかっていたから番人を全部片付けてくれて助かったわ。お礼に、アナタたちがここにいたことは誰にも言わない」

エマは、目を丸くした。

ヘルマンは満足そうに煙管をくわえ、そ知らぬ顔だ。

己を持ち崩さない男を、感心と呆れで見遣る。


昼間、場所が分かっても彼らの方が不利だと言ったのは、場所が太守の館の敷地内だったからだ。

常識で言えば、忍び込むのは不可能だ。

現実では、ヴァルのトラップを抜け、彼らはここまで辿り着いた。

たいしたものだ。

とたん、空気が激しく鳴動した。

雷にでも、うたれたみたいに。

私は挑む目で館を見上げた。


駆け出せば、声が背中に投げられる。エマだ。

「あんなのにやっつけられたら、承知しないからね!」

「アナタこそ、間抜けに捕まったら承知しないわよ」

笑った声だけ残し、毒沼みたいな館へ飛び込む。


空気が煮詰まった墨みたいだ。

普通だったら窒息している。

階段目がけ、身体を蹴り出す。

手すりを掴み、一段飛ばしに駆け上がった。

天井に黒いものが沁み、雨漏りみたいに降ってくる。

肌に落ち、ずるりと伝い落ちる感覚はあるが、汚れたりはしない。実体がないのだ。


床や壁には、館を絞め殺す勢いで、蔦のようなものが蔓延り始める。


百年かかる荒廃が、一晩でなされようとしているみたいだ。


三階まで駆け上がり、私は周囲を見渡す。

足で、思い切り床を蹴りつけた。

「屋根裏ってどこからのぼるのよ!」

ヴァルにもエマたちにも聞くのを忘れた。

後悔先に立たず。

ええい、と吐き捨て、その場でぐるぐる三度回る。

妙案もなく、結局そのまま北東を目指した。


結論から言えば、探すまでもなかった。

三階の北東の部屋に、鉄の箱が転がっている。

天井板が半ば崩壊し、発見者の豪胆な性格が垣間見えた。


なんとも粗忽な惨状だが、迂闊に近寄ることはできない。

部屋の入り口で、私は逃げ出そうとする手足を意思で押さえつけ、呼吸を整える。

大型犬ほどの大きさの鉄の箱から、零れ落ちた金貨と共に、汚濁の息吹が吐き出されていた。

牙をむき出しに、警戒して唸っている。

私は奥歯を噛み締めた。


人食い虎に近付くように、ゆっくり歩を進める。


一歩進むたび、落雷めいた拒絶に打ち据えられた。

思考が全部吹き飛ぶような衝撃だ。

数歩目で、意識を手放しかけた刹那、引き絞られた怨念が雪崩を打って私の中へ墜落した。


音が消える。

色がなくなり、肉体の感覚が遠くに去った。

なにもかも取り払われ、落ちていく先で、虚空だけが、口をあけて待っている。


それを知覚した瞬間、一番暗いところから、絶叫の突風が吹きつけた。




―――――わたしのものだ、わたしのものだ、わたしのものだ、わたしのものだ!!




触れさせない。

汚れさせない。


冷たく高貴なこの輝きを。


闇の中、鼓動する独占欲。

無思慮で醜悪な、狭い魂。

はじめに糸の端を持ったものが誰かは分からない。

年経るに従い、幾人もがそれに巻き込まれていった。

結果、執着の欲念は、鍵より頑丈な封印となって、外の世界を拒絶しはじめた。


どうして金貨が太守の手元へ来たかは知らないが、だから、なのだ。


浪費家の先代も、触れられないのでは使おうにも使えなかった。

そして彼もまた、他の誰にも金貨に触れさせたくなかったのだ。


ただし、彼はただ隠すだけでは面白くないと考えた。

だから遊戯を用意した。



賞品は誰の手にも入らない細工を施した遊戯を。



しかも欲の深い彼は、奪われないだけでなく、手に入れることを考えた。

彼の死後、生き残った、彼が執着した女たちと、正統の後継者である太古の名門の血を引く人間たちを、諸共に消し去ろうとしたのはその心の表れだ。




死してなお、血族と、愛した女を手元に置きたがった。




傍迷惑な。

私は奥歯を噛み締める。

欲望が体内で這い回った。


噛み付きたがるのを、間髪入れず怒りを込めて、渾身の力で引っ叩く。


よほど痛かったか、笛みたいな悲鳴を上げ、相手は脱兎と化した。

追って闇を蹴り、私は意識を浮上させる。


音が戻った。

視力が回復する。

眩暈がした。

転倒しかけ、危うく踏ん張る。


豪雨の只中に放り出されたみたいだ。

鉄の箱からだけでなく、足元からもせりあがる気配を感じた。




別口か。




こうなればまとめて面倒みてやる。


混乱が最大の敵。

自分に言い聞かせ、膝を落とした。

落ち着いて、顔を伏せる。

物心ついた頃から、ずっとやってきた所作だ。


心が凪いでいく。


胸が、海の底にあるかのように静かになった。

無心に沈んだ瞬間、身体の奥から吹き起こるものがある。

その感覚は、花が全力を賭して開く瞬間にも似ていた。


逆らわず、私は身を委ねる。


澄んだ音が、私の体内から波のように周囲へ広がった。

たちまち、春風のようなそれに、焼け爛れ苦悶しながら、闇の嵐が打ち伏していく。


汚濁が洗われ、白い砂浜みたいな感覚が広がった。

その上を、清い芯の通った旋律が、涼やかに吹き抜けていく。

心は静謐の淵にあるのに、身体が追い上げるように昂揚した。


合わせて、寸前まで荒れ狂っていた何かが惑いがちに飛翔を始める。


獣のように周囲を巡り、螺旋に加速し、どこまでもどこまでも昇っていく。

どこへ行くのか、私にも分からない。

何かに導かれ、指し示すだけだ。

私にできるのは、祈ること。

祈りで、何かにつながる。


それを引き出し、道を開く。


たったそれだけの、有限の力しか持っていない。


ごぅ、激しい竜巻が室内を掻き乱し、壁を、天井を、乱打した。

薄れるに従い、確かに感じ取っていたものが私から急速に千切れ落ちていく。

取り残される感覚はあるが、寂しいとは思わない。


それはいつだって、身近にあるのだ。




ほ、と息を吐いた。

夜の静寂が戻る。







薄い倦怠感が身体を包んだ。











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