夢
聖ヒルダの受難と地獄を再現した城塞を去り、魔王とゲオルギウスは離れ地に野営を組んだ。
魔王はもはや糧食は摂らない。敵から簒奪した内力が体内を巡り、胆力となる。竜も同じく、実体的な飢えを知らない。だが、休眠は必要だった。資源の浪費を抑え、緊張に疲弊した精神の安寧を保つための束の間の休息。一度欠けたものは癒されることはない。それは世界の摂理。いずれ尽きる定めの者たちに残された延命の選択肢。それが夢だ。
「次は⋯何処へ向かう⋯?」
ゲオルギウスが小さな篝火をぼんやりと見つめながら、魔王に問う。彼もまた座り込み、灯火を見つめる。腹に空いた大穴も、爆ぜた足先もそのままに疲れた吐息だけを漏らしている。
「殺しだけがお前の野望ではないのだろう⋯?何処を目指している⋯」
魔王は応えない。
毒竜は訝しげに彼に視線を移す。
ぱちぱちと音を立てる焚き木。揺らぐ篝火が身動きひとつしない歪鎧を舐めるように影深くした。
竜は気付く。
「ああ、お前もまた、夢を見るのだな⋯」
夢の底へと落ちた共犯者の傍らで彼女もまた意識を休めた。竜体の至るところに刻まれた裂傷はじくじくと音を立てて塞ぎ始めていた。
――木漏れ日挿し込む花畑。綺麗で優しい歌声が耳をくすぐる。
少女と青年が二人。色とりどりの花の絨毯に座り、穏やかな微風に身を任せている。
見目麗しく乙女の如き美しさを輝かせる青年は、その見た目に相応しい透き通る声を以て歌を紡いでいる。世の平穏を肌に感じ、神の愛の恩恵に賛美を贈る、そんな歌詞。
傍らにて少女は青年を無垢なる瞳で見上げている。雪のようにきめ細やかな白肌。金銀に透き通る長髪はたおやかに編まれている。
「あー、あー⋯」
青年の歌い方を真似して声を出す。言葉とならない不器用な発声に、思わず笑みが零れた。
「兄さん」
青年が此方へ顔を上げる。耽美的な美顔に歓喜に満ちた笑みが咲く。
「おかえりなさい」
頷きで返す。
近づき、そっと二人にしゃがみ込む。弟の顔をじっと見上げ続ける少女の手をとる。そしてその名を呼ぶ。
「ただいま、ソフィア」
あー、と気の抜けた返事で応える。そこで始めて合わさった視線。翠の瞳は清く澄んで、深く深く、奥へと誘うかのようだった。
「聞いて、兄さん」
俺は弟へと視線を戻す。金色の瞳が嬉し気に揺れた。
「ソフィアが花冠の編み方をひとつ覚えたんだ」
そう言って自身の頭を示す。解れかけた花冠が控えめに載せられている。
「凄いじゃないか、ソフィア」
妹に向き直り、その頭を撫でた。ソフィアは青年に被せた花冠に手を伸ばして、にこにこと微笑んでいた。
ノイズ。
一転。
ノイズ。
赤。
ノイズ。
燃える音。
ノイズ。
血の匂い。
ああ、ああ――。
「何故だ、グリゼルダ――」
赤い赤い世界の中で、騎士が俺を見下している。
その血塗れの両腕に意識を失ったソフィアを抱き抱え、騎士は、男は、弟は、グリゼルダは、俺の知らない蒼い瞳で嗤った。
「自分で考えて、兄さん」
ノイズ。
これは未来。いずれ来る運命を見せられている。
これはソフィアの未来。いずれ至る、神を産み落とすための、真名の削り落とし。
ノイズ。
冷たい石の部屋。
ノイズ。
引き千切られる手脚。潰される翠の両瞳。
ノイズ。
焼かれる肌。潰される喉元。
ノイズ。
何もかも、何もかも、何もかも、何もかも。
しゃがれた声が響く。「身体は不要。愛だけ残せ」
ああ、ソフィア――、ソフィア――。
これは防腐処理。世界を腐ったまま生かすための、エンバーミング。
神を産み落とし、神を殺すための“神の母胎”。
決して報われることのない受難が始まる。
少女に背負わした、世界すべての受難が。
ノイズ。
赤に、染まる。
何故だ、その答えを得るために俺は走った。
何故だ、その答えを得るために男は殺した。
何故だ、その答えを得るために魔王は奪った。
だが、そのいずれもグリゼルダの真意には至らなかった。
ならば、と。
教会の謀を追う。各地にて行われる所業を追った。
その過程で竜こそ簒奪の力を持つことを知った。
周囲の生命を喰らい続ける厄災。死者の記憶すら取り込むその権能。
欲しい。
故に、魔王はゲオルギウスに至ったのだった。
――夜闇の中で、魔王が微かに動く。
「ああ⋯これが⋯お前の、殺す意味⋯」
ゲオルギウスが嘆きを辛うじて絞り出す。
「なんと、惨く⋯なんと、憐れ⋯」
彼女の喪心の溜息が、篝火を微かに揺らす。照らされた歪鎧は、しかし、微動だにせず。
ゲオルギウスは契約の内情を知らなかった。永くに生きてきた竜の一匹ではあったが、契約は正に当人同士の秘儀であり、為して初めて知るものだったからだ。
心内にて交わせる会話。夢の共有。それは激情が漏れ出した所以だろう。契約は両者の心の境界線をぼやかすものだった。
魔王は傍らで絶句しているゲオルギウスに視線を投げた。そして、その鱗肌に触れようとして――やはり、止めた。
毒竜はじくじくとした音に気付く。己の身体からではない。魔王からだ。
「お前、もしや」
眼を細め、見入る。
爆ぜた足先から新たな指が形成されつつある。腹の大穴すらどんどんと塞がっていく。
不意に脳裏掠めるソールとシルフの記憶。
手を引かれる白髪の幼子。白い教会の奥深くへと繋がれて、両親は重い戸を閉めた。
「手に負えない」と。
毒竜は頭を振る。
今のもまた白昼の夢か、と。
他者の記憶が入り込む怖気を振り払うように魔王を凝視する。
両者から簒奪した生命力が尽きゆく者の定めを乱して、再構築している。常人ではありえない再生力。
魔王の赤き双眸が灯火に揺らぐ。
ゲオルギウスは、息を呑み、夢の道程を反芻する。竜との契約なくしては、異端審問官には挑まなかっただろう。魔王の旅路は、ひとつ、堅き関門を打ち開いた。
教会の中枢へ至るための鍵は竜の力だったのだ。
再び休息に入ったふたり。
だが、次はもう夢は見なかった。
朝。
旅支度を終え、両者は歩み出す。
「ようやっと解ったよ、お前の目的が、お前の目指す地が」
ゲオルギウスは魔王に呼びかける。少し垣間見た夢の影響か、かつての憎悪は微かに解け、声色はある種の穏やかさを帯びている。
「往くのだろう?"教会の庭"へ。如何なる障害が在ろうとも、な」
要衝を越え、今より、深く、王国本土を目指す。そのための疾き道はやはり街道を進むのみ。
王都は底知れぬ谷に断絶され、大架橋を渡り切る必要がある。その麓を目指す。
ふたつの影は曙光の中を恥ずべきこともなく進むのだった。




