魔王
ごう、と。
それは一投だった。
斧槍の一投。
衝撃。
一帯を宙空へと圧す。
音も光も、潰された。
何が、と問う息すら死んだ。
霧の欠片に砕けた血肉。
赤い惨雨。一粒、一粒。
陽炎に揺れる黒の歪鎧へ、べったりと注がれていく。
頭部全て覆う兜、ひとつの隙間もない竜肌の如き甲冑。
獣性が吐息に形を成して、白く揺らぐ。
一切の解釈を排し、靱やかで、豪胆で、故に禍々しい。
人の形をした、冒涜暴狂。
ソレが、其処に在った。
兵たちが密集する中央にヒビ割れた土塊を作り出して、底に顕れた。
ただの一投にて緑の覆い引き剥がして、灰の大穴を成した。
どさ、どさ。どさどさ、と。
血と肉。
音は遅れて降ってきた。
魂は天へと登ること無く、亡骸の部品は地に溜まる。
ソレは、立ち上がり、斧槍を引き抜く。地が微かに震えたのかもしれない。
一歩、歩み出る。死者踏み抜いて。
一歩、歩み出る。死肉踏み潰して。
一歩、歩み出る。死血踏み荒らして。
両軍どちらか定かでは無く、誰かが呟いた。
魔王だ、と。
あれが、魔王。
噂に聞く、魔王。
信仰遍くを潰して世を周る、魔王。
「下僕たる肉叢どもよ」
魔王の声、禍々しく、赫赫しく色めいて地を舐める。
「辿る道程は那由多に残れど、達するはひとつ――」
雨。音もなく。
「――遍く死ね」
大きな、一歩。
その一歩を以て、混乱は瞬く間に広がった。
魔王踏み込んだ先、たじろぐ兵士たちの中心。獣性溜め込んで放たれる黒の一薙。跳ねる胴と胴。重い血滝は地を穿つ。
ただ悲鳴。
溢れた臓物に逃げ脚は縺れ、追の縦撃が人の形を泥土へと混ぜ込む。生者は境界線を失って、死者へと混れていく。
大地を抉り込むように刺さったままの斧槍を突き出す。蛮勇に剣掲げる腕を根本から切り離した。刃の腹を横に叩きつけて、悲痛な金切り声を黙らす。
一歩。また、一歩。血と泥の溜まりは歪鎧に縋り付くも、魔王の足は止まらない。
ただ恐怖、ただ悲鳴。
飛沫蹴る鉄足の音は、叫びに混ざって方方に散り行く。だが、暴虐からは逃れ得ない。
黒き手甲が赤い雨粒を砕きながら冷虚を滑る。熱失い硬直する残腕から欠け刃の剣を奪い取り、構え、投げる。血濡れた円弧が、首の幾つかを打ち上げ、ロザリオの鎖を断った。雨は水嵩を増やす。
ひゅん、と。
退き行く肩と肩の間を鏃が空を切って、飛んだ。
魔王の胸元に突き刺さる。
歩みが止まった。姿勢揺らぎ、視線が少し落ちる。
文字通り、一矢の報い。
だが、すぐに赤筋は陽炎に滲んで、返り血かどうかも分からなくなっていた。故に、一瞥もくれずに矢竹は手折られる。
得物振り上げられた懐へ、姿勢落として重々しく一歩、踏み締める。
切先になったのは一兵。柔き筋で重い槍先を一生懸命に引き絞ったところだった。
黒き掌が驚愕に目を見開く頭部を掴む。
破木が脳天を抉る。
流れるように首を折る。
母の名を呼ぶこと無く、短くテノールは潰れた。
それは一瞬の動き。
故に、兵士たちが逃げに転ずる隙は無かった。その中には先の一兵にとっての同郷の友も、師も、隣人も、居たのだろうか。
魔王は身を捻る。
その手に槍。簒奪は躊躇無く、とても軽い。
速槍の連凸は的確に、距離近い者から順に、致命を一点ずつ。
倒れ伏す、座り込む、重い鉄甲冑は次から次へと地に沈む。
得物は変わる。剣へ槍へ斧槍へ鉄兜へ拳へ刃の欠片へ。遍く肉を地に注ぐために。
この場の誰もが、この底無し沼から這い出ることなく、嵩となる。
だが、暴虐凄惨な殺戮の沼に、自ら踏み込む者が、在った。
勇ましき、一足。
光輝たる直剣が魔王にぶち当たる。凶手が、止まる。
その時間は、一際長い。
誰かが喘いだ。勇者だ。
歓喜安堵、それら声の響きに、なお一層輝きを増す、人の形をした光。
勇者レドゥアの身体は魔王に取り付き、剣を突き立てていた。
「貴様は何者だ」
勇者の問いは、断ずるが如き重きを持っていた。
応えるような深い呼気。噎せ返る程の獣性。
勇者の表情に翳り、焦燥。
剣が、浅い。力を込める。剣は震えるだけ。突き立ったはずの剣がゆっくりと圧されていく。
魔王は、歪な掌にて刃を突き刺させて致命を防いでいた。同時に、逃げの手段を塞いでいた。
勇者が微かな動きに気配取る。
魔王の斧槍握る手が、微かに。
「友よ!」
勇者の喚び声。
瞬時、剛力。緑の崩落が両者を浮かす。毒竜ゲオルギウスの竜爪。
勇者は足裏にて魔王の腹捉え、蹴り飛ばす。強圧。彼我著しく離れる。
空転し、着地する。屈んだ姿勢のまま、歪む陽炎の主を睨みつけ、直剣の柄を握り締める。
「レドゥア、傷はないか!?」
ゲオルギウスが即座傍らに集う。
「ああ、大丈夫だ、ありがとう」
レドゥアは視線を固めたまま、短く答える。
魔王は数歩後退っただけで、佇立していた。俯きは緩慢な動きで直視へと移る。輝きに目を逸らすことなくすっと見据えている。
レドゥアは立ち上がる。直剣の先を突きつける。
「我が名はレドゥア!神の恩寵よりここに参上した!」
声高らかに名乗る。兵士たちが声震わせて歓声をあげる。
だが、魔王は名乗らない。
重く重く、一歩一歩を踏み出す。その黒鉄の音が空気を震わすように鳴り響く。
魔王、魔王と恐れ慄く声が熱を帯びれば帯びるほどに、陽炎は揺らぐ。レドゥアには魔王の歪鎧の輪郭が少しぼやけて見えてきていた。
かぶりを微かに振り、目を凝らす。ゲオルギウスの案じる視線に少し頷きながら、声を張った。
「魔王よ。お前も人の形をしているというのなら、名乗れ。お前は何処から来て、何者か。よもや名を忘れたとは――」
「くだらぬ」
禍言は勇言を断つ。
「その毒竜」
視線が毒竜に移る。剥き出された竜牙を認め、深い息を吐いたかと思うと、またレドゥアへと戻る。ゆっくりと開かれる掌は、恫喝の色を見せる。
「契約せず置いておくというのなら、寄越せ――」
「戯言を」
思わず勇言が禍言を切った。
魔王は掌を戻し、歩みを再開した。此方に来る。
勇者は剣先を向けたまま、言葉を取り繕う。
「貴様も満ち足るを欲するのか、欠けを苦痛としているのか?だとすれば、貴様は亜人どもと同質だ」
魔王は無反応だ。ただただ歩み近づく。斧槍構え直し、傍らの死体から槍を抜き取り、戦闘の準備を淡々と続ける。
――時間稼ぎにはならないか。
レドゥアの頬は微かにひくついた。周囲の兵士たちは逃げる脚を止めてしまっている。見届けようというのか。
――駄目だ、逃げろ。頼む。
視界の中で魔王がぐっと踏み込むのを見て取った。
レドゥアは叫んだ。
「友よ、すまない!」
背後より咆哮。前へ抜きん出る灰緑。快諾で応じたゲオルギウスが魔王に飛び掛かる。剛腕を叩き付ける。魔王は横に跳んで避ける。斧槍が翻り、竜爪と剣戟の音を閃かせる。
レドゥアは即座に振り返り、手を降って叫んだ。
「皆逃げろ!走れ!」
その堰を切ったような焦燥に、兵士たちが一間驚き、そして恐怖に我が返る。踵返す音が徐々に。
「ここは僕と彼女が食い止める!行け!行ってくれ!」
無数数多の逃げ行く足音が撤退のドラムを叩く。衆徒は得物も、武具も放り投げて、転がるように退散していく。
「ああ、ゲオルギウス!」
人混み掻き分けるように、レドゥアは前へ駆け出した。片腕折られ、地に押しつけられた毒竜の元へ。友の傍へ。
雨は雷雨に。咆哮は悲痛なる叫びに。輝光は初めて翳る。レドゥア奔る。
灰泥に汚れた竜頭。口許は吐血に塗れ、劇毒混じる。斧槍によって断首台の如く地に捉えられ、毒竜は低く呻くのみ。
魔王が歪鎧の外皮から立つ腐臭の細煙を認め、深き重声を零した。
「その竜毒、万物万象を解く。使わぬ道理が無い」
竜は答えない。牙を剥き出す。
「ゲオルギウス!ゲオルギウス!」
勇ましき焦燥の声。微かに竜の頬が動く。剛の筋に力が駆ける。
視界の端に見止めた魔王。
その声は白の吐息に、ひとつ、低められた。
「思慕、故か」
魔王が斧槍を引き抜く。
同時。
輝かしき直剣が黒背に振り抜かれた。
腕甲にて留める。
触、圧。力の波、雨砕く。
ドス黒い血飛沫上がる。だが、やはり断てぬ。
反応は情緒無く。斧槍引かれ、光へ突き出される欠け刃の先。
勇者の鞭打つ反射にて追いつく。外套を羽ばたかせるように、身を捩り、致命を避ける。
視界の端が黒く歪む。汗爆ぜる。足下がぐにゃりと沈む。
いや、まだだ。
ひとつ光を、踏み込む。
直剣引き抜き、刃先軌跡描いて転じた。
低い姿勢より放たれた横薙ぎ。直撃。切り――抜けた。
血潮再び。傷は深い。
が。魔王は、反応した。
柄短く引く。掌返して、持ち変え、叩き付ける。
勇者は、一手遅れた。筋張り詰めた。しかし、斧槍もはや眼前。
血潮上がる。勇者が傷。
が。耐えた。
片目塞ぐ鮮血そのままに、苦痛押し殺し、肩甲を魔王の深い傷口へとぶち当てる。
――ならぬ。
竜頭が泥溜まりより這い上がった。
――行っては、ならぬ。
豪雨に熱失い、ぼやける視界。剣戟の閃きは帷向こう。
光が、翳り、滲む。
黒は、歪み、揺らぐ。
手を伸ばした。爪を突き立て、身を引き摺る。後ろ脚に僅か残った力込める。均衡崩した筋が千切れていく。毒含む竜血が辺りを穢す、腐らせる。しかし、口許噛み殺し、可溶な毒息だけは封じ込めた。喉内が爛れ解けていく。痛みなど、構うものか。レドゥアに嗅がせぬように、なお、噛み締める。
羨望を、希望を、憧憬を。
思慕を――、行かしては、ならぬ。
「――ならぬ!」
腐毒を竜言へと無理矢理に変えて、蒼魔の堰を切った。
不可視の矢、触れ得ぬ棘、蒼き思慕。虚空、奔る。
敵を、留めよ。
蒼の助力が、魔王に突き刺さる。
貫くことは無い。歪な外皮を抉るに留まる。
力込められた斧槍が間隙に浮く。
その一間を、レドゥアは逃さなかった。
崩れた剣戟のリズムを、いま正す。焦駆仕切った筋肉を、いま留める。
力、込める。
奇蹟でも、魔法でも、滾りでもない。
雄叫び、だ。
直剣、胸元へ、深々と。
突き立つ。
――まだ、動く。
それはどちらへの見立か。
勇者は更に胆力出し"尽クス"。
雄叫び閉ざすことなく、そのまま、剣の刃を捩り、そして、横へ。
――まだ、だ。
彼我の判断は、駆け巡る視界に置き捨てて。
追の一撃。
止まった。
魔王が。
膝をついた。
粗い呼吸。雨はしとしと、と白い吐息を避けて落ちる。
乾きざらついた喉を、荒い湿度で濡らす。
友を見やる。泥土に倒れ伏した巨躯。しかし、その竜胸が微かに上下しているのを見取ると、思わず深い呼気が漏れた。
静かに視線、転じる。
眼下、膝付き、項垂れる魔王の姿。
熱に揺らぎ、灰の地に溶けかけた輪郭は、身動がない。
ただ、勇者と同じく、拍掴めずに息乱れている。
両者の血は、雨に量増して溜まる。ひとつの盃に注がれている。
勇者は柄を持ち直した。
一歩、静かに波紋に足をつける。
一歩、終わらすために進む。
歪な兜を掴み、脱がすこと無く上側へと引く。帷子向こうにて喉仏上下する首元を露わにする。ゆっくりと静かに直剣を振り上げる。ふたつは、まだ、息乱れたまま。
光が射し込んだ。
白瑪瑙色の微風が、彼ら二人だけを包んだ。
歪兜の目貫。光が入る。
初めて。魔王の瞳。
金色の瞳。
思わず、嘆息。
「なんと憐れな…」
剣先が固まった。
「哀しい瞳だ…」
この金の瞳は、まだ壊れ尽キてない。
まだ壊れる余地"を"残されている。
死を直面した今この瞬間ですら、哀しみの色のみが底にあった。
一瞬。
黒が、勇者の視界に翻った。
正しき光は、この日、灰色の底に沈んだ。
斧槍。欠けた刃先から、真っ赤な雫が伝う。
魔王の手の内に固く握られて。
見届けるものは毒竜ただひとつだった。
――行っては、ならぬ。
荒廃した大地から雨があがった。
黒線の飛沫は泥土と灰の溜まりとなり、汚らしく底にあった。
遠く剣戟も悲鳴も、あらゆる感情は掻き混ぜられて、ぐるぐると渦を巻いている。
竜はひとつの死体に寄り添った。数多の傷口から夥しい血潮を迸らせて、荒い呼吸を繰り返す、尚も、友と定めた一人の男の傍らを離れない。
起きよ、目を覚ませ。
繰り返す囁きすら、重き沈黙に撃ち落とされて、泥溜まりへと沈む。
鼻先で男の手に触れる。暖かく、柔らかく、竜を撫でていたその手のひらは、いまや冷たく、固く、力無く垂れ落ちた。
擦れる金属の音が、騒がしい静寂の向こうから歩み寄る。
竜を見下す影がひとつ。歪な鎧に全てを包んだ人物が、斧槍と刃欠けした直剣を両の手に握り、その先を竜へと差し向ける。
「魔王め」
竜が苦々しく息を吐く。牙を剥き出して、身を起こす。食らいつかんと気概を奮う。
「お前だけは、お前だけは、許さぬ」
魔王はしかし動じず、対峙すら意中に無い。ただ、死に損ないの魔物を無感情に、無関心に、見ているだけだ。
「死ね!」
竜はその言葉に魔力を込めた。魔法の根源である竜の言葉。常時であれば、その蒼き言葉は棘矢となって敵を貫いただろう。
代わりに出たのは血反吐のみ。
長首は支えを失い、こうべが地に伏せる。
竜の瞳に薄く膜が張っていく。薄い薄い、死の、喪失の膜。
ああ、終わるのだろう。
私の存在は、ここで尽キル。
「死に切れぬのならば、選べ」
魔王が呟くように竜に問うた。
彼は勇者のものだった直剣を捨て、斧槍の柄を支えにして、竜の瞳を覗き込むように、近付いている。
竜の鼻が捉える。血の匂い。死の匂い。夥しく、熱く。
ああ、お前も、死に尽キルのだな――口元を歪ませて、嘲笑、う。
死に損ないは、お前も、同じ。
だか、ら――。
「契約するか、尽き果てるか」
魔王の指先からドス黒く粘り濃い血が、竜の口からだらんと垂れ除く舌先に触れる。
ぽたり、と。
無音の暗闇に、ただひとつ。
あた、たか、い――。




