母と子よ
――トリエルはある農村にて育った。
そこは穢らわしい獣たちの棲家。まだ血を滴るも知らぬ幼きトリエルに、村の男達は情欲をぶつけ、村の女達は男達の罪を信仰によって隠した。赤髪は忌諱されて然るべき劣等。神の持つ名簿に記載されていない。故に人ではなく、亜人の如きである、と。
彼女は神を呪った。何故、自分は貴方に愛されなかったのか。何故、見捨てたのだ、と。
だからこそ、自らの力で井戸を這い出し、村を逃げ出した。
日頃栄養も採れず、傷だらけ出血だらけの身体では、宛もなく彷徨い、野垂れ死ぬが定めであっただろう。
だが、神は始めて微笑んだ。その受難に祝福を与えた。
教会の庭に向かわんとする第二教皇フリルダの駅馬車が通りがかったのはまさに神の思し召しだっただろう。
トリエルは教会へと至った。
耐え難き憎悪を神への忠義へと武装して、神の兵士となったのだ。
フリルダの見立て通り、彼女はみるみる内に頭角を表した。熱風の奇跡を受領し、サラマンダーと契約し、遂には異端審問官のひとりにまで上り詰めた。
だが、悍ましき生まれ故郷を焼いたとて、永き苦しみに喘いだ。洗っても拭っても、火に焼いても、落ちない汚物の気配。異常な潔癖への執着は忌まわしき過去から這い出したものだった。
そして、心身の成熟とともに、いつしか女性しか愛せなくなっていた。
彼女は隠した。
教会はそれを許さないだろう。
暴かれたるその時、自分は村へと連れ戻されてしまうだろう。この心は間違っているのだ。あの男たちのものと同じく醜い情欲なのだ。
故にグリゼルダとの邂逅は、本当の意味での救いとなった。
女性に見紛うばかりの、いや、女性よりも美しい、その美貌。麗しい声。
ああ、私は男が憎く、女性を愛でていたのではなかった。
私は、美、そのものを愛していたのだ。
グリゼルダは惚けるトリエルの赤髪を撫でながら言った、綺麗だね、と。
トリエルは、落ちた。
恋に、愛に、情欲に。
私は間違っていなかった。正しかった。私は美しい側に、いる。間違っていたのは男たちだったのだ。醜悪はあの村にあったのだ、と。
一方で巨炎虫サラマンダーは、どうだったか。
群れを討たれ孤立無縁となった仄暗い卵。
教会の兵士となったトリエルがそれを拾う。
そして孵る、醜悪な這虫。
彼の誕生に祝福はなかった。悍ましくも恐ろしい産声は遠く鳩たちを絶命させるに至る。
だが、母はそこに居た。
彼にとって、それで充分だった。どれだけ苛まれようとも、どれだけ虐げられても、どれだけ無視されても、どれだけ罵られても、大好きだった。母を慕わぬ子は居らぬ。母のために、彼は村を焼き、人を喰らった。
母がくれる食べ物はぜんぶ硬かった。鉄の殻に、鋭い棘。だから焼き溶かして食べた。何か叫んでる。形は母に似てたけど、残さず食べて、母のために力をつける。
愛されなくてもいい。そんな概念は彼にはない。ただひたすらに母のために。
彼は知らない。卵を抱えた時、母の手は黒油で汚れていた。簒奪はそこで起こっていたのだと。でも、それでもいい。醜くても、狡くても、怒ってても、母を慕わぬ子はいない。
故にトリエルとサラマンダーの契約は儚いものだった。
トリエルの欠け落ちたるは、自己肯定。愛し、愛され、己の存在を認められること。サラマンダーの欠け落ちたるは、母の情。無意識下で求め続けた抱擁だ。
既に満たされていた筈なのに、ふたつはひとつになれなかった。




