04 【天秤、墜つ】
白い。
見わたすかぎり、すべてが白い。
二つの国のちょうど狭間、どちらの領土でもない中境の荒野に、その巨大な円形闘技場はぽつんと建っていた。継ぎ目のない白石を高々と積みあげてつくられたそれを、人は『白円の闘技場』と呼ぶ。空の青さえ吸いとってしまいそうなほどに、ただ、白い。
その白を、いま、二色の喧噪が埋めつくしていた。
円を半分に割って、東の観客席。
そろいの紺のローブをまとった人々が、整然と席を満たし、低く長い祈りを唱えている。魔法の神アルスティナスへ捧げる祈祷だ。魔法国家アルディアス——魔力を信仰し、魔力こそが世界の理であると信じて疑わない国の、民であった。
円を半分に割って、西の観客席。
そちらは、まるで様子がちがう。毛皮や革鎧をまとった荒くれ者たちが、立ちあがり、足を踏みならし、喉が裂けんばかりに吼えていた。武術の神バルドレカスの名を叫び、ただ血を求めて。武闘都市バルザース——勁力を信仰し、強き者が弱き者のすべてを喰らうのを当然とする、街の民だ。
魔力と、勁力。
この世界にだけ存在する、二種類の力。
片や、体内をめぐる魔力をもって、炎を、水を、風を生みだす業。片や、体内に練りあげた勁力をもって、おのれの肉体を限界の彼方へと押しあげる業。どちらの力が優れているのか——その問いに、二つの国は何百年ものあいだ、ただの一度も、答えを出せずにいた。
いや。答えを出す方法だけは、とうの昔に決まっている。
戦争では、ない。
三年に一度。両国はこの『白円の闘技場』へ、選りすぐりの代表者を三名ずつ送りこむ。そして、殺しあう。先に相手国の代表者三名を倒した側が、勝者となる。
勝者となった国は、以後三年ものあいだ、両国にまたがる政のすべてを握る。敗者となった国には、重い税が、屈辱が、ときには領土の割譲さえもが課せられる。
たった三人の生き死にが、これからの三年、二つの街に暮らす幾十万の人間の運命を、まるごと決めてしまう。
人はこの儀式を、『天秤の儀』と呼んだ。
そして——天秤は、いままさに、傾こうとしていた。
闘技場の中央。
白い砂の上には、すでに四つの影が、倒れ伏していた。
アルディアスの先鋒と、次鋒。バルザースの先鋒と、次鋒。両国から二名ずつ、計四名の代表者が、出しうるすべてを出しきって、敗れた。
勝敗が決するのは、相手が倒れたとき。あるいは、死んだとき。——これは、そういう儀式だ。砂の上に広がる赤と、残された者たちの傷の深さが、なにより雄弁に、それを物語っていた。
残るは、両国の、最後のひとり。
大将と、大将。
次に倒れたほうの国が、すべてを失う。
東の端に、ひとりの少女が立っていた。
歳のころは、十五、六。腰まで届く銀の髪が、風もないのに、ゆらりとそよぐ。それは彼女の身のうちで荒れくるう、膨大な魔力のせいだった。紺のローブの裾から、炎の鱗片が、氷の結晶が、ちりちりと生まれては、消えていく。
火、水、風、土、雷。
この世のすべての属性を、たったひとりで、欠けるところなく、完璧に操る。
名を、アンリ。
アルディアス建国以来の天才と謳われ、わずか十二の歳で代表者に選ばれ、以来ただの一度も、敗北というものを知らない少女。その細い指先から放たれる極大の一撃は、城壁を、岩山を、迫りくる軍勢を、文字どおり「無」へと帰してきた。
——けれど、彼女はいつも、退屈していた。
これまで対峙したどんな相手も、彼女に全力を使わせるには、ほど遠かったからだ。つい先刻倒したバルザースの次鋒とて、指を一本動かすほどの手間も、かからなかった。
この力を、真正面からぶつけてもなお壊れぬ、そんな相手がほしい。物心ついたころからずっと、アンリはただ、それだけを願いつづけていた。願いながら、半ばあきらめてもいた。この世界に、そんな相手など、いるはずもないと。
西の端に、ひとりの少年が立っていた。
歳のころは、アンリと、さして変わらない。煤けた革の服。手にあるのは、刃こぼれの目立つ、なんの変哲もない、一振りの剣。ただ、それだけ。彼の身のうちに渦巻く勁力は、街の門番ひとりぶんにも、満たない。
名を、バルカ。
武闘都市バルザースの、最底辺の生まれであった。
強き者が、弱き者のすべてを喰らう街。そこでは、力なき者は、人ではない。魔力も勁力もろくに持たぬ者は、家畜のように売り買いされ、奴隷として鎖につながれる。バルカもまた、本来であれば、そうして名もなく死んでいくはずの、一匹だった。
だが、彼にはたったひとつだけ、神に愛されたとしか思えぬ才が、あった。
剣である。
見る。読む。斬る。ただそれだけのことを、彼は世界の誰よりも、深く、深く突きつめた。勁力で肉体を強化できないぶん、彼は一切の無駄を削ぎ落とした。相手の呼吸を、視線の動きを、筋肉のかすかな張りまでも読みきって、最小の動作で、最速の太刀を振るう。
いつしか人は、その剣を、こう評するようになった。
斬れぬものなし、と。
奴隷の身から、ただ剣の腕、それひとつで、バルカは武闘都市の頂まで、這いのぼってきた。
——もし、今日ここで負ければ。
脳裏をよぎるのは、かつての自分と同じ最底辺で、いまも鎖につながれたまま、それでも空を見あげている者たちの顔だった。バルザースが敗れれば、勝者の課す重い税は、まっさきに、いちばん弱い者たちを押しつぶす。
だから——負けるわけには、いかなかった。
二人の視線が、闘技場の中央で、初めて交わった。
アンリは、ほんのわずかに、眉をひそめる。
目の前の少年から感じとれる勁力は、あまりに、薄い。これまで斬り伏せてきた歴戦の代表者たちとは、比べるのも馬鹿らしいほどに。なぜ、こんな子供が、武闘都市の大将などに——東の観客席からも、嘲りに似たどよめきが漏れていた。力なき者は、人ではない。その価値観の支配するこの世界で、バルカという少年は、ただ立っているだけで、奇妙な異物だった。
けれど、その瞳には、怯えも気負いも、なかった。
ただ静かに、まっすぐに、世界最強の魔法士を見据えている。
その目を見て、アンリは思いなおす。
——まあ、いい。一秒で、終わらせてあげる。
審判の銅鑼が、鳴った。
刹那、アンリの右手が、無造作にかかげられる。
詠唱は、ない。天才に、言葉はいらない。
次の瞬間には、バルカの頭上に、家屋ほどもある火球が出現していた。空気が灼け、白い砂が、一瞬で硝子に変わる。観客が悲鳴をあげる間さえ与えず、それは、墜ちた。
——斬った。
炎が、まっぷたつに、裂けた。
バルカは火球の落ちる軌道へ、みずから踏みこみ、振りあげた剣を、ただ一度、振りおろしていた。割れた炎は、彼の左右をかすめ、背後の砂をなめて、消える。当の本人は、髪の一筋すら、焦がしていない。
東の観客席が、大きくどよめいた。
炎を、斬った。魔力を。勁力ですらない、ただの鋼の刃で。——あり得ない。
だが、アンリの瞳だけは、ほかの誰ともちがう色に、染まっていた。
——おもしろい。
その唇が、生まれて初めて、わずかに吊りあがる。
左手をかざせば、今度は無数の氷の刃が宙に生まれ、雨のように降りそそぐ。同時に、バルカの足もとの砂が泥と化し、その足首を絡めとろうとする。火、水、土——属性を惜しみなく重ねて、逃げ場という逃げ場を、奪っていく。
バルカは、走った。
降りそそぐ氷を、剣で弾き、いなし、紙一重で躱す。一本たりとも、掠らせない。足もとがぬかるむより早く、彼の足は、もう次の一歩を踏みだしている。
読んでいる。すべてを、読みきっている。
二人の距離が、見るまに、詰まっていく。
——速い。
アンリの背すじを、未知の感覚が、ぞくりと駆けあがった。恐怖では、ない。武者震いだ。生まれて初めて、彼女の心臓が、戦いのさなかで、たしかに高鳴っていた。
間合いへ飛びこんできた、バルカの一閃。その切っ先が、彼女の頬をかすめ、銀の髪が一房、ふわりと宙に舞う。
——避けた。このわたしが。
無詠唱で、薄く張った魔力の障壁。それは、この十数年、ただの一度も使う必要のなかった、彼女の「防御」だった。誰も、彼女のもとへ剣を届かせたことなど、なかったのだから。
バルカもまた、内心で舌を巻いていた。
——手応えが、まるでない。
あの少女は、まだ全力の半分も出していない。こちらの剣を見て、測って、心のどこかで、楽しんでいる。
だが、それでいい。むしろ、好都合だ。
あの底知れぬ力を、その底の底まで、引きずり出す。すべてを出しきらせ、放たれるその一瞬に生まれる、たった一つの隙を斬る。それ以外に、この化け物に勝つ道は、ない。
風が、唸った。
アンリを中心に、刃のような風の渦が、幾重にも巻きおこる。近づく者をことごとく細切れにする、目に見えぬ檻。だが、バルカは止まらない。風の刃と、刃のあわい。その髪一本ぶんの隙間を、彼の目は、たしかに見つけだす。身をひねり、剣で風をいなし、渦の内側へと、ついに、踏みこんだ。
剣先が、アンリの喉もとへ——あと、三歩。
雷が、墜ちた。
バルカの、真上。ゼロ距離。回避は、不可能。
——のはずだった。
光が爆ける刹那、バルカの剣が、きらめいた。落雷の、その白紫の光条を、彼は斜めに、薙ぎ払っていた。雷が、流れる。剣の腹を伝い、地面へと、逃げていく。焦げたのは、柄を握る彼の右手の甲、ただ、それだけ。
——あと、二歩。
アンリの顔から、退屈の色は、完全に消えていた。
代わりにそこにあるのは、歓喜にも似た、極限まで研ぎ澄まされた、集中。
——そう。それでこそ。ずっと、あなたを待っていた。
彼女は、両手を胸の前で、そっと合わせた。
空気が、軋んだ。
火が、水が、風が、土が、雷が——五つの属性のすべてが、彼女の手のひらの上、たった一点へと、収束しはじめる。互いを喰らい、ねじれあい、白く、白く、灼けるように輝いていく。それは、なにかを生みだすための力ではない。すべてを、根こそぎ無へと帰すための、終わりの一撃。アルディアスの天才が、いまだ誰の前でも放ったことのない、彼女の、最果て。
名を——『終焉』。
それを見て、バルカもまた、悟った。
あれを躱す術は、ない。受ける術も、ない。あの一撃がひとたび放たれれば、この闘技場ごと、自分は塵も残さず消える。
ならば。
放たれる、その前に。斬る。
バルカの足が、最後の、最速の一歩を、刻んだ。あと、一歩。剣を引き、全身全霊を、ただ一筋の太刀へと、乗せていく。それは、彼の生涯で最高の、一刀になるはずだった。
少女の手のなかで、白い光が、満ちる。
少年の剣が、白い軌跡を曳いて、奔る。
交わる。
二人の、すべてが——
——時が、止まった。
いや。止まったように、感じられた。
極限まで研ぎ澄まされた、二つの意識。世界のすべてを置き去りにして、ただ互いだけを見据える、その一点。観衆の喧噪も、灼ける空気も、なにもかもが遠くへ溶けて消えた、そのまっただなかへ。
声が、降ってきた。
誰の声でも、ない。男でも、女でもない。アルスティナスのものでも、バルドレカスのものでもない。もっと高く、もっと遠い——この世界をすっぽりと覆う天蓋の、さらに向こう側から。
二人の頭のなかへ、直接。
その声は、こう、告げた。
『──今から三年後、天が、墜ちる』
アンリの白い光が、ぐらりと揺らいだ。
バルカの剣が、空を裂いたまま、ぴたりと、止まった。
二人は、ほとんど同時に、互いの顔を見ていた。
いま、聞こえたか。
聞こえた。
声に出さずとも、それだけが、不思議と通じあう。この極限の一瞬を、たしかに分かちあった二人にだけ——天啓は、降ってきたのだ。
三年後、天が墜ちる。
その言葉が、なにを意味するのか。二人は、まだ知らない。だが、限界まで研ぎ澄まされた直観だけが、けたたましい警鐘となって、胸の奥で鳴り響いていた。
——魔法国家だの、武闘都市だの。
——勝っただの、負けただの。
そんなことで、争っている場合では、ないのではないか、と。
その、瞬間だった。
空が、罅割れた。
白円の闘技場を覆う蒼穹に、墨を一滴落としたような亀裂が走り、ぐにゃり、と歪む。東の祈りも、西の咆哮も、すべての喧噪が、その一瞬で、ぴたりとやんだ。
そして、こぼれ落ちてきた。
黒い。無数の、黒い、なにか。
翼を持つもの。牙をむきだすもの。人の形をしていながら、けっして人ではない、ぬめる影のような、もの。
——魔物。
誰ひとり見たことのない異形の群れが、悲鳴の雨となって、観客席へ、闘技場へと、際限なく降りそそぐ。
地を埋めつくす、影。空をふさぐ、翼。神に祈っても、拳を振りあげても、その黒い奔流は、もう、止まらない。
白円が、見るまに、黒く塗りつぶされていく。
逃げまどう人々。崩れ落ちる秩序。東の祈りも、西の咆哮も、いまや等しく、断末魔の絶叫へと、変わりはてていた。
白い砂の中央に、二人だけが、立っていた。
収束したはずの五属性の光は、いつのまにか霧散し、振りおろされるはずだった刃は、宙で、止まったまま。
アンリと、バルカ。
魔法国家の大将と、武闘都市の大将。
ほんの一秒前まで、たしかに互いの命を狙いあっていた二人は——いま、背中合わせに立ち、襲いくる黒い群れを、まったく同じ目で、睨みつけていた。
天秤の儀は、終わらなかった。
勝者も、敗者も、決まらないまま。
代わりに——まったく別のなにかが、いま、静かに、幕を開けようとしていた。
「……あなた、名前は」
背中ごしに、アンリが問う。バルカが初めて聞く、少女の、声だった。
「バルカだ」
短く、少年が、答える。
「わたしはアンリ。——覚えておきなさい」
剣を構えなおしながら、バルカは、ほんの少しだけ、笑った。
「三年、だったな」
「ええ。それまでは——勝負は、おあずけよ」
黒い群れが、いっせいに、地を蹴った。
剣を持つ少年と、魔法を操る少女の——世界を救うための、長い長い物語は。
世界が終わると告げられた、まさにその日から、静かに、幕を開けたのだった。
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作品タイトル案:『天が墜ちるその三年前に』
第一話タイトル案:「プロローグ ── 天秤、墜つ」
指示文に含まれない、新規に創作した要素の一覧
地名・固有名詞
白円の闘技場 … 二国の中間にある『闘技場』の固有名称。継ぎ目のない白石造り。
中境 … どちらの領土でもない、闘技場が建つ中立の荒野。
『天秤の儀』 … 三年に一度の代表者戦(殺し合い)を指す儀式名。
設定・用語
先鋒/次鋒/大将 … 代表者三名の役割呼称(勝ち抜き戦の順序)。
『終焉』 … アンリの五属性を一点収束させる最強の一撃の技名(「無に帰す」一撃に命名したもの)。
闘技場戦は「倒れた/死んだ」時点で決着、という運用描写(⑥の「殺し合い」を前提に肉付け)。
キャラクター肉付け(メイン二名)
アンリ … 銀髪・15、6歳。12歳で代表者に選出。常勝で、対等な相手を渇望している、という心理。
バルカ … アンリと同年代。バルザース最底辺(本来は奴隷階級)の生まれ。刃こぼれた無銘の剣一本のみ。勁力は門番一人分にも満たない、という具体描写。
なお、両国の先鋒・次鋒など脇役キャラには個別の名前を与えず、本筋に集中させています。




