03 【天が墜ちる日】
剣が、炎を斬った。
あり得ない光景に、十万の観衆が息を呑む。
灼熱の奔流は、闘技場の石床を融かしながら一直線に走っていた。人ひとりを呑み込むどころか、城門さえ灰に変える火炎魔法。その中心を、一本の銀光が縦に裂く。
炎が左右に割れた。
その狭間を、少年が駆ける。
「――っ!」
アンリは杖を振り抜いた。白い外套が熱風にはためき、淡い金髪が舞い上がる。
火の次は水。
空中に生まれた十二の水槍が、少年――バルカへ降り注いだ。
一歩目で三本。
二歩目で四本。
三歩目で、残る五本。
バルカの剣は速いのではない。
正確なのだ。
水槍の穂先が形を得る、その一瞬前。魔力の流れが最も脆くなる箇所へ刃を差し込み、完成する前に術式そのものを断ち切っている。
魔法を剣で斬る。
そんな馬鹿げた技を、彼は呼吸でもするように繰り返していた。
「化け物……」
誰かが呟いた。
それがどちらを指した言葉なのか、誰にも分からなかった。
大陸中央、灰色の荒野に築かれた円形闘技場。
三年に一度、ここで二つの国の未来が決まる。
東の魔法国家アルディアス。
西の武闘都市バルザース。
魔法の神アルスティナスを戴く国と、武術の神バルドレカスを奉じる都市。魔力こそ人を人たらしめると信じる者たちと、強き者こそ上に立つべきだと叫ぶ者たち。
かつて両国は、何十年にもわたって兵をぶつけ合った。
田畑は焼け、川は死体で埋まり、勝者のいない戦争だけが続いた。
やがて両国は、一つの取り決めを結んだ。
戦争の代わりに、三人ずつの代表者を選ぶ。
闘技場で殺し合わせる。
先に三人を失った国は敗者となり、以後三年間、勝者の要求を受け入れる。
税も。
交易路も。
鉱山も。
民の命も。
六人の戦士に、二つの国のすべてを預けるのだ。
そして今、アルディアスとバルザースは二人ずつを失っていた。
残るは、大将同士。
稀代の天才魔法士、アンリ。
剣技の天才、バルカ。
二人のどちらかが死んだ瞬間、次の三年間が決まる。
「距離を取れ、アンリ!」
アルディアス側の貴賓席から、甲高い声が飛んだ。
「近づかせるな! 奴はただの剣士だ!」
アンリは返事をしなかった。
返事をする余裕がないのではない。
その言葉が、あまりにも現実から遠かったからだ。
ただの剣士。
確かに、バルカの勁力は弱い。
武闘都市の戦士が肉体や武器へ巡らせる生命の力。それを彼は、一般人と大差ないほどしか持っていない。
拳で岩を砕くこともできない。
城壁を飛び越えることもできない。
剣に勁力を纏わせ、巨大な斬撃を飛ばすことさえできない。
それでも彼は、バルザースの頂点まで勝ち上がった。
強大な勁力を持つ戦士たちを、ただ一振りの剣と、常軌を逸した戦闘感覚だけで倒して。
「聞こえてるぞ」
迫るバルカが、口の端を上げた。
黒髪は汗で額に張りつき、肩当ては半分砕けている。左脇腹から流れた血が、灰色の戦装束を暗く染めていた。
「ただの剣士で悪かったな」
「十分よ。褒め言葉でしょう?」
アンリは杖を石床へ突き立てた。
大地が鳴動する。
バルカの足元から岩の柱が噴き上がった。
彼は横へ跳ぶ。そこへ風刃。身を沈めてかわした先に、雷光。剣の腹で逸らす。さらに背後から氷の鎖。
火、水、風、土、雷。
五属性。
本来なら、一つの属性を修めるだけでも十年を要する。
アンリはそのすべてを、十五歳で完全に操る。
一つの魔法を放ちながら、別の魔法を編み、さらにその裏で三つ目の術式を組み上げる。魔力の糸を何百本にも分け、その一本一本を指先のように動かす。
アルディアスの魔法士たちは、彼女を神の落とし子と呼んだ。
だが今、その五属性すべてが、たった一人の少年を止められない。
「そこ!」
氷鎖が、ついにバルカの右足を絡め取った。
アンリは杖を両手で握る。
頭上に、白い光が集まった。
火の熱。
水の流動。
風の加速。
土の質量。
雷の破壊。
五つの属性を、一つの魔法へ圧縮する。
観衆席から悲鳴が上がった。
アンリの代名詞。
触れたものを属性の区別なく消滅させる、無色の一撃。
「終わりよ、バルカ」
「まだだ」
バルカは自分の足を斬った。
正確には、革靴の表面ごと氷鎖だけを切り落とした。
刃が肌を薄く裂き、血が散る。
それでも止まらない。
白光が放たれる直前、バルカはアンリへ向かって走り出した。
正面から。
観衆が叫ぶ。
逃げろ、と。
無理だ、と。
だがアンリには分かった。
彼は、勝つつもりだ。
この一撃を越えて。
自分を斬るつもりでいる。
「――消し飛べ!」
白光が落ちた。
音が消えた。
世界から色が失われ、闘技場の中央を純白が埋め尽くす。
石床が消滅した。
熱も、煙も、爆風もない。
ただ、そこにあったものだけが存在を失う。
光は闘技場を横切り、反対側の防壁へ到達した。幾重にも魔法障壁を重ねた壁が、音もなく半円形に抉れる。
誰もが、勝負は決したと思った。
アンリを除いて。
「右……!」
白光の縁から、人影が飛び出した。
バルカ。
左腕が焼け、頬から血を流している。
けれど、生きている。
アンリの魔法が完成する直前。五属性の均衡がわずかに揺らいだ瞬間を見抜き、剣で術式の端を削ったのだ。
完全には斬れない。
ならば、ほんのわずかに軌道を変える。
紙一枚ほどの生存圏を作り、そこへ身体を滑り込ませる。
人間業ではない。
だが、アンリもまた、人間業で戦ってはいなかった。
彼女は杖を捨てた。
右手に炎を。
左手に雷を。
迫る剣へ、二つの魔法を直接叩きつける。
赤と青の閃光が炸裂した。
剣が炎を裂き、雷が刃を伝ってバルカの腕を焼く。それでも彼は踏み込む。
アンリは土の盾を作る。
斬られる。
水の膜を張る。
斬られる。
風で身体を後方へ押し飛ばす。
バルカも石床を蹴り、追う。
二人の距離が、一歩まで縮まった。
剣先がアンリの喉へ伸びる。
同時に、アンリの指がバルカの胸へ触れた。
至近距離から放つ雷撃。
剣が先か。
雷が先か。
その一瞬。
二人の意識は、奇妙なほど澄み切っていた。
観衆の声が遠ざかる。
風が止まる。
舞い上がった砂粒の一つ一つさえ、空中で静止したように見えた。
アンリには、バルカの瞳が見えた。
獣のように鋭いのに、不思議なほど静かな目。
バルカには、アンリの指先が見えた。
雷光を纏いながら、かすかに震えている。
互いに分かった。
次の瞬間、どちらかが死ぬ。
あるいは、二人とも。
それでも退けない。
背後には国がある。
家族がいる。
名も知らない無数の民がいる。
敗北すれば、アルディアスでは魔力を持たない者から先に税の穴埋めへ売られるだろう。
バルザースでは弱者の食糧が削られ、強者のための武具へ変えられるだろう。
二人とも、自分たちの国が正しいとは思っていなかった。
だが、そこで生きる人々まで見捨てることはできなかった。
だから殺す。
目の前の、同じように何かを背負う者を。
そのはずだった。
――今から三年後、天が墜ちる。
声がした。
耳からではない。
頭の内側でもない。
骨の奥。
魂と呼ぶほかない場所へ、巨大な何かが言葉を刻みつけた。
アンリの雷が消えた。
バルカの剣が止まった。
切っ先は、アンリの喉へ触れる寸前。
指先は、バルカの胸へ触れたまま。
二人は動けなかった。
同じ光景を見ていた。
青い空に、一本の亀裂が走る。
亀裂は大陸を覆い、海の向こうまで広がっていく。
空が割れる。
その向こうから、黒い太陽のようなものが覗く。
星が落ちる。
山が崩れる。
海が逆巻き、白い波が国々を呑み込む。
神殿も、王城も、闘技場も。
アルディアスも。
バルザースも。
魔力を持つ者も、持たぬ者も。
勁力の強い者も、弱い者も。
何一つ区別されない。
すべてが、等しく滅びる。
幻は一瞬で消えた。
喧騒が戻る。
観衆席から罵声が飛んだ。
「何をしている、アンリ!」
「斬れ、バルカ!」
「殺せ!」
「国を救え!」
二人は動かなかった。
「……聞こえた?」
アンリが囁く。
「ああ」
バルカの声は、ひどく乾いていた。
「三年後」
「天が墜ちる」
その言葉を口にした途端、闘技場の空気が変わった。
低い音が響く。
地の底から、巨大な獣が唸ったような音。
石床に亀裂が走った。
最初は、バルカの足元に細い一本。
次いでアンリの背後。
闘技場の中央から放射状に、黒い亀裂が広がっていく。
「下がって!」
アンリが叫んだ。
直後、亀裂から黒い腕が突き出した。
人間の腕に似ている。
だが長すぎる。指が七本あり、関節が逆向きに曲がっていた。
石床を掴み、何かが這い上がってくる。
頭部には目がなく、縦に裂けた口だけがある。濡れた灰色の皮膚。四本の脚。背から突き出す骨の棘。
魔物。
だが、アンリもバルカも見たことのない種類だった。
一体ではない。
二体。
十体。
百体。
闘技場の床、壁、観衆席の階段。その至るところに黒い穴が開き、異形の群れが溢れ出す。
悲鳴が爆発した。
「逃げろ!」
「出口へ!」
「押すな!」
観衆が一斉に立ち上がり、狭い通路へ殺到する。
転んだ者が踏まれる。
子どもが泣き叫ぶ。
兵士たちは剣を抜いたが、どちらの国を守るべきか迷った。
アルディアスの騎士は東側の貴賓席へ。
バルザースの戦士は西側の代表団へ。
その隙間にいる一般観衆へ、魔物が飛びかかる。
「アンリ様!」
アルディアス側の控え門から、白衣の魔法士が叫んだ。
「こちらへ! 防壁を閉じます!」
同時に反対側から、武闘都市の将軍が怒鳴る。
「バルカ! 戻れ! 西門を封鎖する!」
二人は、それぞれの門を見た。
どちらも閉じ始めている。
自国の者だけを守るために。
境界に取り残された人々を、見捨てて。
一匹の魔物が、観衆席の最前列へ跳んだ。
そこには、首輪をつけた少年がいた。
十歳ほど。
アルディアスの貴族に付き従っていた無魔力者の奴隷だ。主人はすでに逃げ、鎖だけが席の鉄輪へ繋がれている。
少年は逃げられない。
魔物の口が開く。
バルカが走った。
剣が閃き、魔物の首を落とす。
ほぼ同時に、別の三体が彼へ飛びかかった。
炎がそれらを焼き払った。
アンリが杖を拾い、バルカの隣へ立つ。
「私の獲物を取らないで」
「助けた礼くらい言えないのか」
「あなたが勝手に飛び込んだんでしょう」
軽口を交わしながら、二人は背中を合わせた。
つい先ほどまで、互いの命を奪おうとしていた。
バルカの剣には、アンリの外套を裂いた跡がある。
アンリの雷撃は、バルカの右腕を痺れさせたままだ。
信頼などない。
友情もない。
国同士の憎しみは、何一つ消えていない。
それでも、今は互いの背を守るしかなかった。
「どうする?」
バルカが問う。
黒い穴から、さらに巨大な影が這い上がる。
闘技場の外でも鐘が鳴っていた。
一つではない。
東西南北、あらゆる方向から。
魔物の出現は、ここだけではない。
アンリは空を見上げた。
雲一つない青空。
だが、先ほどの幻を見たあとでは、それが薄い殻のように思えた。
三年後。
天が墜ちる。
意味は分からない。
誰が告げたのかも分からない。
神の声なのか。
悪魔の罠なのか。
だが、この魔物たちが偶然とは思えなかった。
「決まっているわ」
アンリは杖を構える。
炎、水、風、土、雷。
五色の光が、彼女の周囲に灯る。
「まずは、ここにいる全員を生かす」
「敵国の人間もか?」
「三年後に世界が滅びるなら、今日の勝敗なんて誤差でしょう」
バルカは一瞬目を見開き、それから笑った。
「魔法国家の大将が、ずいぶんなことを言う」
「武闘都市の大将にだけは言われたくないわ。あなた、さっき敵国の奴隷を助けたでしょう」
「目の前で食われるのが気に入らなかっただけだ」
「私も同じよ」
巨大な魔物が咆哮した。
牛ほどの体躯。
六本の腕。
頭部を覆う骨の兜。
周囲の小型種が道を空ける。
その姿を見て、逃げ惑う人々の声が絶望に変わった。
バルカは剣を正眼に構える。
残る勁力はわずか。
身体は傷だらけ。
けれど、その眼光だけは少しも衰えていない。
「アンリ」
「何?」
「さっきの勝負、俺が勝ってた」
「寝言は死んでから言いなさい。私の雷の方が先だったわ」
「確かめるか?」
「三年後まで生き残れたらね」
骨兜の魔物が突進する。
大地が揺れる。
二人は同時に駆け出した。
魔法と剣。
相容れぬ二つの力が、初めて同じ敵へ向けられる。
その日、三年戦争の勝者は決まらなかった。
代わりに始まったのは、二つの国だけでは到底勝てない戦いだった。
天が墜ちるまで、あと三年。
□■□
本文執筆にあたり追加した設定
アンリの年齢は十五歳。淡い金髪で、白い外套と杖を使用する。
バルカは黒髪で、灰色の戦装束と片手剣を使用する。
闘技場は大陸中央の「灰色の荒野」にあり、東にアルディアス、西にバルザースが位置する。
闘技場には約十万人の観衆が集まっている。
両国は過去に長期戦争を行い、その被害を止めるために現在の代表戦制度を制定した。
代表戦の勝者は、税だけでなく交易路や鉱山などについても優位な要求ができる。
アンリは五属性を融合させ、対象そのものを消滅させる「無色の一撃」を使用できる。
バルカは魔力の流れや術式の脆弱部分を感覚的に見抜き、魔法を剣で切断・妨害できる。
アンリとバルカは、自国の体制を全面的に正しいとは考えていない。
天啓の際、二人は空の亀裂、黒い太陽、星の落下、山や海による世界の崩壊を共通の幻として目撃した。
魔物は石床や壁に生じた黒い穴から出現する。
最初に出現した小型魔物は、七本指、逆向きの関節、目のない頭部、縦に裂けた口、四本脚、背中の骨棘を持つ。
上位個体と思われる魔物は、牛ほどの巨体、六本の腕、骨の兜を持つ。
闘技場外でも魔物が出現しており、異変は闘技場だけに限定されていない。
バルカが救出した無魔力者の奴隷少年が存在する。現時点では名前を設定していない。
代表戦制度またはその戦いを、本文内では便宜的に「三年戦争」と表現した。
本文文字数:約4,866字
空白、行頭字下げ、改行を除いた簡易集計。本文にルビは使用していません。




