37 宣示
曹操の崩御より日は浅く、喪の白は街のあちこちに残り、人々の声には慎みが宿っている。朝堂の儀が終わり、禅譲によって曹丕が帝の位に進んだものの、都はどこか薄らいでいた。
吏舎では詔勅と奏文が行き交い、印を押す音が絶え間なく響いている。見た目には規律を保っているが、臣下の胸にはまだ定まらぬ思いがある。曹操の威が消えた都は、表面の整然さの裏で、各人の思惑がゆるやかに動き始めていた。士人たちは互いの顔色をうかがい、言葉を選び、慎重に立ち位置を探っている。曹丕の政権は立ったばかりであり、その威信はまだ人々の心に刻まれてはいない。都のどこかに、目に見えぬ潮の流れが生まれている。
ある日の午後、鍾繇が朝務を終えるころになって、宮中からの使者が府に姿を現した。礼装の若い宦官である。几の上に恭しく置かれた書簡には、玉璽の印が押されていた。
鍾繇は席に戻り、書簡を手に取った。新帝の筆による最初の書状である。封泥を割って書簡を広げると、墨の色はまだ新しく、筆跡には若さと力が混じっていた。文は礼節を踏まえた書き出しから始まる。
『朕は微力の身ながら、万国の上に立つ地位を託されました。日夜心を引き締め、戦々恐々とし、職責を果たせぬことをただ恐れております。賢者を思うことは飢えるように切実であり、賢者を求めることは渇くように強いものです。君はもとより徳と名望が高く、見識は深く広く、朕にとってはまさに国家の腕となり脚となる重臣です。』
曹丕の言葉の端々には、抑えきれぬ焦燥が現れている。
『今、天下はまだ草創の途上にあり、遠近は未だ完全に統一されず、江東はなお僭逆の姿勢を示し、朝廷の徳化に従ってはいません。』
鍾繇は読み進めながら、筆跡にこもる帝の苦悩を読み取っていた。
『君は長く関中にあって戎狄と漢人を安撫し、遠近の民を帰心させてきました。それは朕が頼みとするところです。現在、臣下の心もまだ一つにはなっていません。』
最後の一行には、若い筆ながらはっきりとした信頼と依頼の色がある。
『朕は、君とともに始まりから終わりまでの大計を共にしたいと願っています。どうか、胸中に抱く考えをすべて率直に述べ、少しも包み隠さず進言してほしい。朕は自ら目を通し、心を込めて拝読するつもりです。』
鍾繇は書簡を読み終えると、束の間黙した。
この国は、いま大きな岐路に立っている。
鍾繇の胸に、その思いが広がった。曹操と共に歩んだ建安の年月、国家の基を築いたあの時代が脳裏に甦る。戦乱と飢饉の中で、筆一本を武器として政を立て、人を動かし、国を導いてきた。
曹丕は聡明であり、文にも武にも才を備えている。だが、父のような実戦の歳月はまだ経ていない。彼の政は始まったばかりで、臣下の信服も、国の形も、まだ定まらぬ。
江東の孫権は曹操の死を聞いてもなお、明確な態度を示していない。彼は魏を恐れつつも、機をうかがい、戦と和のあいだで迷っている。南の情勢がひとたび乱れれば、新帝の政は大きく揺らぐことになる。
朝堂の士人たちもまた、心を決めかねていた。清議を重んじる者、旧臣として曹操の遺業を守らんとする者、新体制に素早く与しようとする者。それぞれの思惑が潮流となって都を流れている。
鍾繇は几の上の書簡を見つめた。いまこそ筆を執り、道を示さねばならぬ。老臣の責は、まさにこのときにあると、覚悟が胸に芽生えた。
空に月が浮かぶころ、鍾繇は執務の室に残り、几の上に筆と札を揃える。この一文が、国の行方を定めるのだ。
鍾繇は札の端に筆を置いた。墨を含んだ筆先が走り出す。
『尚書よりお示しいただいた、孫権からの要求と、それに対する詔勅の返信について拝見しました。この度の朝廷からの返答は、形式としては高い立場から羈縻政策をとりながらも、実質的には阿諛追従のように受け取られかねないものでした。
その結果、応じた当初から孫権側の策謀は始まっており、以前のご恩に乗じて睢眙方面で勢力を広げております。公の場と私的な場とで意見の相違がありながらも、孫権とは同胞のように深い関係を重ね、厚遇を受け続け、今に至っています。彼は代々名声を保ち、国家の吉凶をともにしてきた人物でもあります。
私の愚考ながら、連日憲章を繙き、夜を徹して熟考しておりますが、もしここで聖意に背くことになれば、私には申し上げることもできません。』
筆は迷いなく進む。外交と内政、その両面を見据え、国家の進むべき道を明らかにすること。それが、この書簡に託すべき要である。
『天が下を安んじる今、孫権は名目的に魏へ帰順しており、その威勢は外に向かってなお強大です。
彼の誠意を測るに、二心はないように見えます。それにもかかわらず、朝廷が猜疑心を抱いたままであれば、彼の誠意は裏切られ、結局のところ両者の関係は破綻してしまうでしょう。彼の要求は無視できるものではありません。これを許しておいて裏切れば、相手は離反する。許すと見せて与えなければ、それは朝廷側の落ち度となります。古い言葉にも、罰するのは、与えると見せて奪うこと。怒らせるのは、許すと見せて与えぬこと、とあります。
示された詔の返答文は、曲折を押さえつつ巧みに書かれており、聖意の深さが伺えます。今の臣下にこれ以上付け加えるべきものはありません。』
鍾繇は筆を止め、数息のあいだ目を閉じた。建安の戦乱の日々が脳裏によみがえる。荀彧と曹操と共に、幾度も国の命運を定める策を論じ合った記憶である。
『かつて私は文若とともに先帝に仕えた折、これと似た事例をいくつか経験しました。その中から三つほどを挙げ、今回の事態の参考になると思い、ご報告申し上げます。どうかよくご思案ください。もし本当に危惧があるのであれば、悠長に構えることはできません。』
文は確かな力をもって続いていった。
『最終的な判断と采配は陛下にあります。私としては恐れ多くも意見を強く主張することはできませんので、この件に関しては自ら表文を奉ることは控えさせていただきました。』
鍾繇は筆を置き、文面を見直す。荀彧も荀攸もいない今、国の道を示し得るのはもはや自らの筆しかない。
書簡を丁寧に巻き、封を施す。印を押す音が、静寂の中に響いた。それは、鍾繇が国の舵を筆で定める音でもある。
廊に出ると、風が頬を撫でた。曹操が去り、曹丕が立ち、新たな時代が始まっている。
※『鍾繇・宣示表』より




