38 推挙
風が、再び都となった洛陽の街路を渡っていた。喪の白が街から消え始め、人々の装いにも次第に色が戻りつつある。吏舎では、新体制に向けた人事と制度の整備が進んでいた。詔勅や奏文が絶え間なく行き交い、印を押す音が廊に響く。見た目には規律が通っているが、その下では官吏たちの思惑が複雑に絡み合っていた。九品官人法が公布されて以来、名声や清議が幅を利かせ、制度が先に立ち、人々はその枠組みの中で身の振り方を決めようとしている。
鍾繇は、そのさまを黙って見つめていた。士人の数は変わらぬように見えても、国を支える力は確実に薄れていた。声を張って先を示す者も、情勢を読み切って動く者もいない。残っているのは形と、それに寄り添う群れである。
新しい律は、音もなく形を変えつつあった。だが、その形を支える柱が、このままで足りるのか。鍾繇は廊の先に目をやり、思索を深める。
鍾繇の胸に魏諷の名が浮かんだ。あの一件は、忘れられるものではない。魏諷は若くして名声を博し、弁舌と人望に優れ、士人の間でも将来を嘱望されていた男であった。鍾繇がその器を見込み推挙したのは軽率からではなかったのだが、彼は乱を企て、多くの士を巻き込んで処刑された。推挙した責を問われ、鍾繇自身も一時位を退いている。ほどなく曹操の信任により政に復したとはいえ、あの日の記憶は胸にある。あの筆は、国を乱す刃にもなった。その傷は、いまも消えぬ。
朝堂では、新しい制度と人事が急速に進められており、詔勅が矢のように飛び交い、奏文は山のように積まれ、人々は書簡と印で政を動かしていた。
廊の一角で、若い士人たちが小声で話しているのが耳に入る。
「今回の人事も、清議の評が先に立ったそうだ」
「力のある者は、もう多くは残っていないな」
互いに言葉を探るような声音で、誰も名を挙げようとはしない。それでも胸の内にある不安は、声の端々に浮かんでいる。彼らの多くは、評判を積むことに熱心であっても、政の責務に耐える覚悟と力には欠けていた。若い才俊もいるにはいるが、経験は浅く、やがて制度の枠に収まっていくのが目に見えている。
かつて、曹操のもとには才と胆力を兼ね備えた者たちが集い、戦乱の中から国の形を築き上げた。その顔ぶれの多くはいまや世を去り、あるいは老い、あるいは退いている。制度は成り、見かけは保たれているが、それを支える根の力は明らかに弱っていた。
鍾繇は歩みを止め、廊の柱にもたれた。形式と評判が国を動かすようになれば、やがて国は空洞を抱える。
束の間の休息を終え、鍾繇は執務の室に戻った。几の上には各地からの書簡が積まれ、人事に関する記録も少なくない。新体制を支える人材の選定は、すでに幾日も前から続いている作業である。
魏諷の件を経て、推挙の筆はかつて以上に重い。候補には地方で政務に通じた者や、学識と名声を備えた士も挙がっていたが、いずれも胆力や経験に欠け、決め手を欠いた。
鍾繇は筆を取り、候補者の名と短評を記しては眺める。長所と短所が交錯し、容易に答えは出ぬ。いま必要なのは、名声や制度に頼る人材ではなく、実務と統率の力を備えた人物である。
考えを巡らせるうちに、心は次第に一つの名に収束していった。董遇、字を季直である。建安のころから功績を重ね、清廉にして実務に明るいその人物は、いまも許に在りながら国政の外に置かれている。このまま埋もれさせるのは惜しい。鍾繇は札を見つめ、うなずいた。
鍾繇は執務の間に灯明をひとつ残し、几に向かう。昼間の喧騒が遠のき、筆の先が墨を含む音だけが室に響く。
書の冒頭には、曹操に仕えた日の記憶を記す。建安初年、戦乱と飢饉のなかで国家を立て直したあの時代を振り返り、董遇の功績を引き合いに出した。
『臣、鍾繇が申し上げます。
私は先帝にお仕えして以来、腹心の臣として列せられました。建安年間の初め、王師が関東の賊を討ったころ、世は飢饉と荒廃に苦しみ、諸郡・県は荒れ果て、軍の補給も一刻を争う状況でした。その中で先帝は神のごとき戦略と奇策をもって適材を任用し、深山や谷間にまで命令を徹底させました。すると民は米や豆を運び出し、道路には絶えることなく輸送が続き、強敵はついに士気を失い恐れをなしました。私はその折、上奏文を奉じる役目を担い、わずか数十日のうちに穀物の倉庫が蟻の群れのように満ちるのを目の当たりにしました。
関内侯、季直は、期日を守り事を成すことに長け、髪の毛一本違わぬほど正確な働きをしました。その功績により、先帝は彼に爵位を授け、難しい郡の統治を任せました。現在、季直は許で俸禄を受けていますが、もとより清廉な吏であり、衣食も十分ではないほどです。かつての功績をお認めになり、老境にある彼をもう一度奮い立たせ、一州を任じて、国家への報恩の機会をお与えください。彼はなお壮健で、きっと昼夜を惜しまず民を守り養うことができましょう。
臣鍾繇、恐れ多くもひれ伏し、この身を縮めて申し上げます。』
一巻の書簡が人を動かし、人が国を支える。推挙とは筆の先に国家の行方を託す行為にほかならぬ。鍾繇は書簡を几の上に置き、長く息をついた。
※『鍾繇・薦季直表』より




