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36 落暉

 曹操の病が重い。


 その声は、最初は書吏や近臣のあいだで囁かれ、やがて士人たちの議論の端々にも現れ始めた。洛陽に滞在している曹操は、近年たびたび病に伏すようになっていたが、この冬はことに容態が優れぬのだという。


 許の吏舎でも、その話題は人々の口を避けながら、それでいて確実に広まっていった。誰も公には語らぬが、廊を行き交う官人たちの視線や声の抑え方には、はっきりとした動揺があった。後継のことが、まだ誰の口にも出ぬまま、都にじわりと染みていく。


 曹丕と曹植。王の坐を継ぐ可能性があるのは、この二人しかいない。すでに曹丕が太子として立てられてはいるが、いまだ曹植を望む声も多い。朝廷の士人たちはみな、それを理解している。そして、いずれは自らの立ち位置を決めねばならぬことも。


 曹丕は長子として政務にも通じ、近年は朝議でも落ち着いた応対で名を高めつつある。一方の曹植は詩文の才に優れ、若い士人たちのあいだでは英雄視する声も少なくない。どちらが立っても不思議ではない。だからこそ、人々の胸には緊張が芽生えていた。


 鍾繇は廊の柱間に立ち、行き交う人々の声を黙って聞いていた。祝い事の後とは思えぬほど、都の空気には張りがあった。勝報がもたらす熱狂の陰で、目には見えぬ水脈のように政が動き始めている。


 「子桓殿は、先日の朝議で見事な応対をなされたそうだ」

 「いや、それを言うなら子建殿の才は誰にも及ばぬ。文も声望も併せ持っておられる」


 鍾繇の視線の先を、若い官僚の一団が小声で話しながら廊を通り過ぎた。声は押し殺していたが、その目には競う二人の姿を思い描く好奇と不安が混ざっている。


 鍾繇はその背を見送りながら、若い官僚たちがまだ己の立ち位置を決めあぐねていることを感じ取った。迷いが渦巻くその最中こそ、時代が変わる前触れにほかならぬ。


 その少しあと、賈詡がいつものように袖を揺らしながら現れた。


 「元常殿、あの朗読は見事でしたな。いや、文そのものが、ですかな」


 軽やかな声音だったが、相手の腹を測る様子がある。鍾繇は眉をわずかに動かしただけで答えぬ。賈詡は近づき、声を落とした。


 「勝ち戦のあとは、得てして水面の下が動き、熱が冷めぬうちに次の形が決まる。そういうものでしょうな」


 鍾繇は視線を朝堂の奥へと向けた。勝報の朗読が終わったその場所は、今はただの壇にすぎぬ。だが、いずれあの壇は政治の舞台ともなる。そのとき、事を見通す者がどれほど残っているだろうか。


 熱と影。その二つが、許のなかでゆっくりと混ざり合っていく。


 季節は進み、寒気が濃くなるころ、鍾繇のもとに一巻の書簡が届いた。封には洛陽の印がある。曹操の滞在する地から送られてきたものであった。伝令は長旅の疲れを帯びた顔で、府の門前に立ち、恭しく書簡を差し出す。


 鍾繇は几の上で封泥を割り、慎重に書簡を広げた。曹操の筆であり、墨の色は濃く、筆勢にはいつもの力がある。しかし、行の端々にわずかな震えがあった。長く政と戦を掌に収めてきた人の、隠しきれぬ疲れが墨跡ににじんでいる。


 文はまず、南方戦の勝利を喜ぶものであった。関羽が討たれた報はすでに曹操の耳にも届いており、江東と結んで南を制したことを天の機と讃える筆致がある。だが続く段では、筆の調子がわずかに変わっていた。


 『国のかたちは成り、世の勢いは移ろう。許の政は日々正され、士人の声は都に満ちていると聞く。我、道をつけるにとどめ、行く末を託すべきは人なり。』


 鍾繇は文面をゆっくりと読み進めた。そこに明言はされていないが、戦乱を収めつつある今、自らの病と歳を意識していることは明らかであった。曹操の筆は、鍾繇に次を見据えることを促している。


 末尾には、都の政の動きを逐一知らせるよう記されていた。とりわけ士人や官僚たちの言動、空気の変化を注視せよとの一節がある。曹操は、洛陽にあってもなお、都の情勢を読むことを怠っていないのであった。


 鍾繇は筆を取り、返書を書き始めた。まずは戦勝の報を奉祝し、都の情勢を簡潔に記す。筆は粛々と進んだ。


 書き終えた書簡を丁重に巻き、封泥を施す。鍾繇は目を閉じ、束の間思索に浸った。洛陽と許の間には距離がある。だが、曹操と自分のあいだには、筆一本で結ばれた信頼があった。


 都の様相は変わりつつある。それを筆で記し、主君に伝えるのが、いまの自分の役目であった。


 冬が過ぎ、春の陽射しが大地を覆うころ、洛陽からの報は許へ届いた。


 魏王、こうず。


 その報せは凱旋の声とは異なり、慎ましい響きをもって都に広がった。朝堂に白布が掲げられ、群臣は粗麻の白衣に身を改める。髪を束ねず、冠を脱ぎ、飾りを外した士人たちが列をなした。許の街路にも白が満ち、人々は哭した。


 壇上には、かつて威容を放った男の姿はない。幾多の戦を指揮し、中原を平定し、国の形を築き上げたその人、曹孟徳。その名を耳にするだけで人々を震えさせた覇者が、いまは歴史の彼方へと去った。


 鍾繇は列の端に立ち、壇を見上げる。その胸には、長く続いたひとつの時代が、音もなく幕を下ろしたことへの実感があった。


 あの日、賀捷の表が朗々と読み上げられた壇も、今日と同じ場所にある。ただ壇に立つ者が変わるだけだ。人は去り、形は残る。その形をどう扱い、どう保ち、どう変えていくかが、次の世を定める。


 やがて朝堂では、曹丕を王位に推す議が揃い、繫陽の地で儀式の支度が進められた。人は立ち止まってはいられぬ。歴史は、誰の手を離れても進んでいく。


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