35 賀捷
この数年のあいだに、国のかたちは大きく変わった。曹操は魏王となり、漢中を攻め、南方には漢中王・劉備の将、関羽が勢威を張った。戦の舞台は幾度も移り、そのたびに都の政も民の暮らしも姿を変えていく。
閏月のある朝、南から駿馬が駆け込んだ。鞍に巻きつけられた書簡は砂と汗にまみれている。吏が門を開けるや否や、伝令は馬上から声を張った。
「荊州より勝報!」
朝堂に運び込まれた報は、瞬く間に都じゅうを駆け巡った。魏王領と江東の孫権軍が手を結び、関羽を討ち、樊城を奪還。荊州の地は魏の勢力も回復され、再び北の支配圏に近づいたという。長く南方に燻っていた不安が、一挙に払われたのであった。
許昌の街には、人々の歓声が上がった。市では商人が声を張り、門前では兵士たちが仲間の肩を叩き合う。士人は群れをなし、勝利の報を何度も口にしては笑い合った。茶肆の前では若い書生たちが口々に関羽の最期を推し量り、市場では商人が、これで南は安泰だと声を張り上げる。農民も吏も、仕事の手を止め、耳をそばだてている。
南の雄、関雲長。その名が戦場から消えたと聞いて、天下の勢いが揺らぐことを肌で感じぬ者はいない。
吏舎もまた、いつになく熱を帯びていた。吏たちは早馬から伝えられた書簡を抱えて駆け回り、群臣は廊を渡って次々に室の内へと集まっていく。人々の足音と声がその光と影のあいだを行き交い、いつもの朝とは違う熱が満ちている。
鍾繇は列の端に歩みを進め、その様子を見ていた。
かつて長江を北上し、曹仁を樊城に押し込めたあの男。その威名は魏にとって脅威であると同時に、乱世を象徴する旗でもある。その旗がいま地に伏した。鍾繇はその情景を、まるで目の前で旗が杭を失って倒れていくかのように思い描いた。
幾日かのち、いまだ勝報の余韻が街を包むなか、許の堂に人が満ちた。壇上には儀官が整列し、その脇に中書の官吏が立つ。
この日、朝議で関羽討伐の勝報に際して賀捷の表を奉ることが定められていた。起草は鍾繇である。奏上の役は礼に則って中書の官吏が担い、鍾繇は列の端に立ち、壇上を見上げていた。
群臣の顔には晴れやかな色が広がっている。長く続いた南方の懸念が払われ、国全体に久方ぶりの昂揚が漂っていた。曹操は洛陽にあり、この場にはいないが、許を中心とした統治の枠組みは、すでに確かな形を見せ始めていた。
鼓が一度鳴る。壇上に立った官吏が巻を広げ、おごそかに言葉を紡ぎ始めた。
「臣、鍾繇が申し上げます」
その声は堂内に響き、群臣の浮足立った心を鎮める。
「大軍は大道を併せ行き、峻険を越え、烈風の寒にも耐えつつ進みました。それというのに、臣は命を受けながらも赴任の地に従うことなく、ただ遠くにあって事の行く末を案じるばかり。思いは胸に満ち、恐懼と焦慮に耐えがたきものがありました」
書簡の文が一節ごとに読み上げられるたびに、堂内の様子は変わっていった。
「その日のうちに、遠征に赴いていた史吏が戻り、勅命を伝えてきました。いわく、征南将軍は田単の奇策にも比すべき妙策を用い、敵の怒濤の勢いをまともに受けながらも、機をとらえて見事な勝利を収め、反逆の徒をことごとく討ち滅ぼしたとのこと」
官吏の声は抑揚を抑え、格式を保ったまま響いている。それでも群臣の胸には、言葉が一つずつ刻まれていく。
「賊将関羽はすでに矢を受けて命絶え、その軍勢も四方で相次ぎ背きはじめたのです。胡修までもが恩義を翻し、かつての同志は離反の波に呑まれていきました。天道はついに邪を許さず。その命運も、ここに尽きたのです」
関羽の名が告げられたとき、列のあちこちでどよめきが起きた。それは歓声というより、歴史の一節を聴いたときに生まれる静寂に近い。
朗読はさらに続く。
「この吉報を奉じ拝し、喜び胸に満ちあふれました。道途に轟く美名を仰ぎ見れば、心はおのずと躍り立つばかり。喜悦と感激の念、抑えがたく。ここにその喜びを表し、謹んでご報告申し上げます。」
読み終えられた表は壇上で恭しく巻き直され、儀官の手に渡された。堂内に歓声と称賛が湧き起こる。
「天の助けだ!」
「王の威が南に届いたのだ」
「関羽とて、天命には逆らえぬということよ」
士人たちは互いに顔を見合わせ、口々に声を上げた。
鍾繇は列の端でその光景を見つめていた。歓声の中に身を置きながら、彼の眼差しは勝利そのものではなく、関羽の死という歴史の転換点に向けられている。
かつて一時の縁にて曹操と道を共にしたこともあるその名将。その名が朝堂の朗読で読み上げられる日が来るとは。時は移ろう。人の生もまた、それに従う。
群臣の声が天井に反響するなか、鍾繇はふと視線を壇の奥へとやった。勝利の熱は人々を束ねるが、しかしその熱の裏側には、次の時代への胎動もまた潜んでいる。
賀捷の朝議が終わったあとも、都にはしばらく熱が残った。噂は昼夜を問わず人々の口を渡り歩き、関中や荊州から届く報せと混じり合って、あちこちで形を変えながら広がっていく。
※『鍾繇・賀捷表』より




