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30 潼関

 軍議が終わると、重臣たちは三々五々に堂を辞していった。鍾繇は人気が薄れた堂内にひとり残り、几の前に立ったまま思索に耽っている。


 策は定まった。張魯征伐を名として関中に軍を進め、馬超・韓遂らの疑心を誘い、彼らが先に挙兵すれば、それを討つ。勝敗の趨勢は、すでにこの一手に懸かっているといってよい。あとは、人の心がどのように揺れ動くか。そこを読むのが肝要であった。


 「元常殿」


 背後から、柔らかくもどこか含みのある声が響いた。振り向けば、賈詡が回廊の影から姿を現していた。いつものように飄々とした笑みを浮かべ、その眼差しには、策の裏を嗅ぎ取った者特有の、どこか愉快げな色が宿っている。


 「ずいぶんと意地の悪い策をお立てになったものですな」


 賈詡は几の脇まで歩み寄ると、ひょいと地図を覗き込み、口の端を上げた。


 「張魯征伐と触れ回っておきながら、実のところは馬超・韓遂を揺さぶる。あの場で誰にも本心を明かさぬとは、いやはや、さすが元常殿」


 声には揶揄の色が混じっていたが、その奥には確かな賛意が見える。鍾繇は微笑を返した。


 「申さずとも、文和殿にはお見通しと存じておりました。秘策とは、知る者を限るほどに冴えるものです」


 賈詡は笑い、両手を袖に収める。


 「これはまた愉快な戦になりましょうな。関西の諸将が疑心に駆られ、やがて自ら火を放つ……まるで風に火を焚きつけるが如し。曹公も、あなたも、実に見事なお手並みです」


 鍾繇はその言葉に何も答えず、ただ堂の外を眺めた。遠くには長安の城門が見える。あの向こうに、今まさに大陸の西辺を揺るがす戦が始まろうとしている。


 賈詡は鍾繇の沈黙を楽しむように一礼すると、軽やかに廊の奥へと姿を消した。


 入れ替わるようにして、荀彧と荀攸が現れた。二人とも長旅の装いで、すでに出立の支度を終えている。荀彧は鍾繇の前に進み出て、いつもと変わらぬ声で言った。


 「それでは、我らは許昌に戻ります。元常殿、ご健闘をお祈りいたします」


 荀攸も小さくうなずき、言葉少なに続けた。


 「くれぐれもご自愛を」


 それ以上のやりとりはなかった。三人はこの乱世の長き歳月をともに歩み、互いの心を知り尽くしている。あえて言葉を重ねる必要もない。荀彧と荀攸は鍾繇に一礼すると、許昌への帰路へと歩を進めた。


 鍾繇は二人の背を、黙って見送った。遠ざかる二人の姿は、どこか遠くなる国の形を映しているようにも見える。時は移ろい、情勢もまた変わる。胸に、言葉にならぬ思いが浮かんだ。


 数日の後、長安の東門に、鍾繇と夏侯淵かこうえんとが並び立った。早朝の空は澄み渡り、冷気がまだ大地に残っている。渭水から渡る風が、旌旗せいきを高くはためかせていた。


 城下には三千の兵が整列している。馬は鼻息荒く地を蹴り、兵たちの鎧は朝陽を受けて鈍く輝いた。大軍とはいえぬ数だが、選び抜かれた精鋭である。


 夏侯淵は鞍の上から鍾繇を見下ろし、笑った。


 「張魯征伐にしては、ずいぶん軽やかな陣立てですな」


 その声音には武人らしい率直さがあった。夏侯淵は行軍の迅速さを得意とし、戦場ではしばしば一瞬で敵の虚を突いてきた男である。その眼差しは遠く西の山々を射抜くようであった。


 鍾繇が応じる。


 「重きを置くべきは、速やかに動き、速やかに退くことです。関中の地で膠着するのは得策ではありません」


 夏侯淵はその意図をすぐに察したようだった。


 「なるほど。まったく、文官殿にしては肚が据わっておられる」


 武人らしい率直な賛辞であった。鍾繇は軽く微笑み、視線を西に移した。霞にかすむ山の向こうに、馬超・韓遂らが割拠する涼州の地が広がっている。あの地が、この策の成否を握っていた。


 伝令の声が響き、行軍の支度が揃い、馬蹄の音が土を震わせる。鍾繇は鞍にまたがり、夏侯淵と並んで城門の外へと進み出た。


 「こういう仕事は、俺の性に合っている」


 夏侯淵が馬腹を蹴ると、先頭の騎兵が一斉に動き出した。列は素早く伸び、野を裂くようにして西へと向かう。鍾繇は振り返り、長安の城門を一度見やった。


 街道は雪解けの水を含み、馬蹄のたびに土が跳ねる。黄土の大地は柔らかく、道の両脇には早咲きの草が顔を覗かせていた。兵たちは軽装で進み、遠征というよりは、まるで忍び寄る影のようである。途中、各地の郡県を経るたび、鍾繇は文吏を呼び寄せ、詔書を掲げさせた。


 『漢中の張魯征伐のため、通過する。』


 旗にも軍勢にも、挑発の色はない。むしろ、この簡素さこそが人々の胸に波を立てる。


 さらに鍾繇は、郡県の長吏を通じて各地の有力者へ書簡を送った。張魯に与みせぬ証として、家中の者を許へ送り、忠節を示すよう求める内容である。表向きは詔命であったが、その実、関中諸将の心胆を揺さぶる挑発であった。


 関中の地は、いまや馬超・韓遂をはじめとする群雄の勢力が錯綜している。彼らはいずれも曹操政権から官職を授かってはいたが、その支配は表面的なもので、内実は半ば自立していた。涼州を背に、黄河を盾とし、いざとなれば西方の山間に退くこともできる。彼らにとって、この地は守りの地であり、独立を保つ拠り所でもあった。


 鍾繇軍の通過は、やがて関西諸将のもとにも報せられた。


 「曹公の軍が、張魯征伐を名として兵を進めている」


 伝令の声が、諸将の陣を駆け巡る。疑念は確実に陣営に広がっていった。


 「張魯を討つというのは口実だ。真の狙いは我らにあるのではないか」

 「三千の兵で討伐など、信じられるものか」

 「いずれ背を突かれるぞ」


 馬超は若き武勇の士として知られていたが、その心には激しさと猜疑が同居している。漢中の山々と関中の地勢を熟知する彼にとって、曹操の進軍は単なる征伐ではなく、自らの勢力圏に踏み込む行為に映った。


 韓遂もまた、長年にわたりこの地で勢力を保ってきた老将である。少数の兵で進みながら、こうした条件を突きつけてくる。それは征伐ではなく、支配の手を伸ばすものに他ならぬと感じた。


 「曹公が自ら兵を挙げたのではない。鍾繇と夏侯淵だ」

 「裏がある」


 諸将は互いに探り合い、やがて警戒は連帯へと変わっていった。西方の群雄はそれぞれ一枚岩ではなかったが、共通の敵を目前にしたとき、結束は早かった。楊秋ようしゅう李堪りかん成宜せいぎらが呼応し、侯選こうせん程銀ていぎん張横ちょうおう梁興りょうこう馬玩ばがんといった群雄も兵を挙げた。氐族の千万せんばん阿貴あきも馬超に従い、山間から続々と兵が集まる。


 その数、十万。黄河南岸、潼関の西側に広がる大地に、おびただしい数の旗と陣幕が立ち並んだ。関西諸将の疑念はやがて怒涛の反乱となり、地平を覆ったのである。


 やがて両軍は、潼関の西方において相対した。一方は曹操軍、他方は馬超・韓遂ら関西連合軍。旗は風に鳴り、十万の陣幕は大地を覆い尽くした。黄河はこのとき、まるで戦を見下ろす天の境界のごとく濁流をたぎらせていた。


 曹操は許を発し、自ら潼関に至った。大軍を擁してはいたが、正面から押し潰すには敵もまた地の利と兵数を備えていた。戦線は幾たびも膠着し、攻防は長期に及ぶかに見えたが、戦の趨勢を決めたのは、刀槍ではなく策である。


 賈詡による離間の計をはじめとした周到な策の連なりが、戦場を覆った。一方は血気盛んな若将、馬超。一方は老練なる群雄、韓遂。もとより両者の心は一枚岩ではなく、微かな猜疑の綻びは初めから内に潜んでいた。密書と使者が巧みに行き交い、両者の間に疑心が芽吹く。


 言葉は刃に勝る。互いに相手の裏切りを疑い始めたとき、十万の大軍はその力を一気に削がれた。陣中にさざ波のように広がる不信の連鎖は、やがて統率の糸を断ち切る。


 潼関における戦いは、こうして決した。馬超らは大敗を喫し、連合軍は潰走する。関中は曹操の手に帰し、涼州の地もまた震撼した。この戦の勝敗を分けたのは、仮道伐虢の計、離間の計をはじめとする、周到な策の連なりである。


 夏の陽が潼関の大地を照らすころ、戦の幕はひとまず下りた。だが、その余燼はなおも関中の地に燻り続けている。


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