29 誘策
城内の回廊を抜け、鍾繇は執務室へと歩みを進める。洛陽の復興事業を終えて戻ってからというもの、政務は山のごとく積み重なっていた。書簡の往来は絶えず、地方からの報告も日々長安に集まる。司隷校尉として、いまや鍾繇は中原西部の実務と軍事を預かる重鎮であった。
几の上には、すでに新たな書簡が一巻、丁重に置かれている。許昌からの早馬であった。鍾繇は筆を置き、書簡を手に取る。封泥には丞相府の官印が押されていた。指先で印影を確かめると、慎重に封を割る。紐を解いて広げると、力強く流麗な筆跡が目に映った。曹操の字である。関中情勢について協議したいゆえ、近く長安へ赴くつもりだという、実務的な内容である。鍾繇は一度、目を閉じた。
ついに来るか。
戦乱の火は北を経て、いまや西に移りつつある。韓遂、そして漢室から位を賜り、鄴に移り住んだ馬騰の代わりに涼州の守りに残った子の馬超。この地を押さえる者を誤れば、中原の背はたちまち乱れる。書簡の一文一文に、曹操の用意周到さが現れていた。許都を離れて長安まで出向くというだけでも、尋常のことではない。彼は、いよいよこの地で策を定めようとしているのだ。
窓の外で、伝吏の姿が遠ざかってゆく。鍾繇は書簡を几に戻して息を吐いた。この都は、政治と軍事が交錯する要の地である。ここでなされる一策が、やがて中原全図を動かすことになる。几上に広げられた地図の上で、黄河と渭水が揺らめいて見えた。
それからそう日を置かず、長安の東門から報が届いた。曹操と荀攸が到着したのである。
鍾繇は吏舎の前に立ち、迎えに出た。廊を抜け、荀攸が先に姿を現す。
「来たか、公達」
荀攸は短くうなずき、口元にかすかな笑みを浮かべた。余計な言葉はいらぬ間柄である。
少し遅れて曹操が現れた。従者を伴いながらも身軽な出立である。戦場で見せる豪胆さとは異なり、その歩には策をめぐらす者の気配があった。
三人は吏舎の最奥にある室に入った。几の上には書簡や地図が整然と並び、鍾繇の几帳面さがそのまま表れている。
曹操が席に着くと、地図に視線を落としたまま言った。
「関中は根が深い」
鍾繇は恭しく拱手する。
「馬超、韓遂はいずれも官を帯び、兵を握っております。外には恭順を装っておりますが、内実は容易には計れませぬ」
荀攸も地図を見ながら言葉を継いだ。
「彼らはいずれも朝廷より正式に官を授かっております。いまの段階で兵を向けますれば、謀反の嫌疑は立たず、逆に我らが逆賊の名を負いかねませぬ」
曹操は黙してそれを聞き、短く息を吐く。
「わかっている。だが、放っておけば、いずれ背を焼かれかねん」
室にしばし沈黙が落ちた。鍾繇は几の前に歩み寄り、地図の上に手を置く。
「……であれば、彼らに先に叛かせるのが得策かと存じます」
曹操と荀攸の目が鍾繇に向けられる。
「張魯征伐を名として軍を進めれば、関中の諸将は疑いを抱きましょう」
荀攸が小さくうなずいて言った。
「仮道伐虢の策だな」
鍾繇がわずかにうなずく。策は明快だった。張魯討伐を掲げて軍を動かし、関中諸将を疑心へと誘い、馬超・韓遂らが先に挙兵すれば、それを大義として討つ。曹操がゆっくりと姿勢を正し、地図から視線を上げた。
数日の後、長安の府には、朝早くから重臣たちが集まっていた。陽が几や書簡が整然と並べられた堂内を照らす。外では伝令や兵士たちが慌ただしく行き交い、城内の動きが次第に熱を帯び始めていた。
曹操は中央の坐に着き、その左右に荀彧、荀攸、鍾繇が並ぶ。堂内には衛覬、高柔、そして賈詡も列席し、関中をめぐる今後の方針を議するための軍議が始まろうとしていた。
列坐の合間、鍾繇はふと荀彧の顔に目をやった。その色がわずかに冴えぬ。荀彧はいつものように姿勢を正していたが、血の気の薄さが際立って見えた。沈着な彼の面差しに、かすかな疲労の影が差している。鍾繇は胸の奥に小さな不安を覚えたが、表には出さなかった。
進行役の荀彧が一歩進み出て一礼し、澄んだ声で告げる。
「諸君、本日の議は張魯征伐の件です。曹公がこれより関中の策をお定めになります。みなみな、心してご議論下さい」
その声音は柔らかくも明晰で、堂内を引き締めた。まず高柔が進み出て進言する。
「張魯の地は山深く、道は険しく、軍糧の運搬も難儀を極めましょう。そればかりか、兵を関中に入れれば、韓遂・馬超らは必ず疑心を抱きます。彼らは兵強く地を占め、もし一たび騒乱が起きれば、戦線は長くなるばかりです。軽々に軍を進めるは、得策とは申せませぬ」
言葉は実務の現場を踏まえたものであり、堂内には同調する気配が広がった。衛覬もこれに続く。
「まずは三輔を安定させるのが肝要かと存じます。地を固めぬまま兵を進めれば、関中の地は疑いを抱き、いずれ乱に及びましょう。先に内を抑え、後に漢中へと檄を飛ばすべきかと」
二人の意見は、慎重かつ理に適っていた。荀彧は二人の言を聞き、うなずく。
「高柔殿、衛覬殿のご進言、まことにもっともにございます。張魯は山中に拠り、その道は険しく、関中の諸将も未だ心服いたしてはおりません。軽挙は憂うべき禍根を残しましょう」
その声音には私情をまじえぬ厳しさがあった。荀彧は鍾繇に目を向ける。
「元常殿。この地を掌理されるお立場より、ご所見を賜りたく存じます」
鍾繇は一歩進み、曹操に向き直って言上した。
「は。張魯は漢中に拠り、勢いを養い続けております。いま彼を討ち、その地を押さえることができれば、巴蜀と涼州の両方に睨みを利かせ、辺境の備えともなりましょう。地利を得ることは、後日の戦略にもつながります。関中を経ることは道理に適い、戦略上も有利と存じます」
列の端に賈詡がいた。鍾繇の言に、わずかに目を細める。口の端に浮いた微笑は、底意を見抜いた者の色であった。荀攸もまた一歩進み、鍾繇の言を補う。
「漢中は山深く守り堅く、張魯は義舎を設け、民心を掌握しております。これを早く制すれば、関中の背を固めることとなり、敵の勢いを削ぐにも効果的です。いまのうちに動くことは、長き目で見れば得策と申せましょう」
荀彧は一歩進み出て、堂内を見渡した。
「諸将のご意見、いずれも理がございます。慎重を旨とすべきとのご進言もまた正しく、元常殿・公達殿の策も軽んずべきではございません。曹公、いかがお裁きになりますか」
堂内の視線が一斉に中央へと向いた。曹操は黙して地図を見つめていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
「元常の策によって事を起こす」
その一言が堂内の空気を変えた。荀彧が深く一礼し、おごそかに告げる。
「曹公の決定にございます」
重臣たちは拱手し、一斉に頭を垂れた。




