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28 復興

 歳月は粛々と過ぎていった。関中は鍾繇の手により安んじ、西方の憂いはひとまず鎮まる。曹操は許に政権の中枢を据え、河北へ兵を進めて袁氏の旧勢力を削ぎ落とし、北方の地を自らの掌中に収めた。


 一方で南方では孫権・劉備との対立が深まり、長江流域をめぐる覇権争いは次第に激しさを増していく。赤壁の戦いで大きく軍を損ねた曹操は、その後、政務の再編と国力の立て直しに力を注いだ。天下の情勢は一挙に定まるには至らず、各地に火種を抱えたまま、表向きの平穏が広がっていく。


 そのころ、洛陽は依然として荒廃の只中にあった。献帝が長安へ移されて以来、旧都は人の気配を失い、街路には草が伸び、瓦礫が陽に白んで積み重なっていた。中原を押さえ、北を平らげた曹操は、やがてこの地の再建に目を向ける。天下を治むるには、東西の要にあたる洛陽を甦らせねばならぬ。


 その大任を託されたのが鍾繇である。復興の槌音はやがて都に響きはじめ、荒れ果てた街に再び息吹が戻ろうとしていた。


 春の風が柔らかく街を包む。城門の前には荷車の列が伸び、材木や瓦を積んだ車輪が土を踏みしめて音を立てた。工人たちが声を掛け合い、荷を降ろしては担ぎ上げ、次の作業場へと急いでいく。


 長らく廃墟と化していた洛陽は、この年、復興の最終段階を迎えていた。南門は新たに組み直され、鉄の鉸が朝陽に照らされている。荒れ果てていた街路は掃き清められ、地面には新しい舗石が敷かれ、両脇の排水溝も修復が進んでいた。かつて瓦礫に埋もれていた大路が、いまはまっすぐ都の奥へと延びている。


 城下には市が立ち、人々の往来が絶えぬ。布や塩、穀物を売る商人たちの声が路地に響き、遠方からやって来た旅の一団も見えた。年を経て戻ってきた者、戦火を逃れて移ってきた者、洛陽に新たな暮らしを求める者。その姿はさまざまであったが、誰もがこの街に希望を抱いている。


 鍾繇は随行の吏とともに城門をくぐり、歩みを止めて往来を見渡した。工事の音と商いの声が交じり合い、活気と熱が満ちている。かつて廃墟だったこの地に、再び人の営みが宿りはじめていた。


 「西市の橋脚、補強は終わったか」


 鍾繇の問いに、傍らの吏が手早く簿を開く。


 「はい、本日中には通行できるとの報せが入っております」

 「よし。橋が開けば北からの荷も滞りはせぬ。材を西倉に回せ」


 鍾繇はそう言って再び歩を進めた。声を荒げることもなく、指示は的確である。人々は自然にその背を避け、工人たちは道を譲りながら作業を続けた。洛陽の再興は、土を固め瓦を積むのみにあらず。都を支える仕組みそのものを立て直す、天下を動かす礎である。


 復興の事業が街を動かす一方で、府内では政務の往来が絶えることはなかった。洛陽には関中から移住してきた民、逃亡を経て戻ってきた者、さらに赦免を受けた元反乱者までもが入り混じって暮らしている。荒廃した都を再び機能させるには、街の形を戻すだけでは足りず、人を束ね、枠を定めねばならなかった。


 鍾繇が吏舎に戻ると、几の前には吏たちが列を成して待っていた。几の上には報告書が積まれ、筆と印が整然と並べられている。


 「北倉の備蓄、先月より什三を加えました」


 最初の報告に鍾繇はうなずき、地図の北端に朱筆で印を加えた。


 「よし。橋が通った西市へ回せ。荷路を広げよ」

 「はっ」


 吏は素早く簿を抱え、次の報告者と入れ替わる。治安維持のための巡邏、水路整備、逃亡民の戸籍登録、商人への通行証発行。そのいずれもが洛陽を支える柱である。鍾繇はそのすべてに目を通す。洛陽の政務は着実に形を変えつつあった。巡邏は日に三度に改められ、市場の流れを保つ法も馴染みはじめている。


 鍾繇は几の上に並ぶ札を一通り捌き終えると、筆を置いて小さく息を吐いた。気づけば、窓の外には夜気が流れている。昼間の街は槌音と人声に満ちていたが、今はその喧騒もすっかり収まっていた。


 洛陽再建の営みがいよいよ終盤に差しかかると、鍾繇は進捗の報をまとめ、許昌へと送った。幾日かのち、吏が恭しくその返書を差し出し、鍾繇は封泥を割って広げる。最初に現れたのは、曹操の筆跡であった。力強く、無駄がない。


 『洛陽の事、よく聞き及んでいる。旧都が形を取り戻せば、天下の勢いもまた違ってこよう。元常の働き、まことに頼もしく思う。』


 文は短くとも、曹操は鍾繇の働きを信じている。細かな指示や詰問の言葉など一つもない。ただ、都の復興が国の力を確かに支えることを見通し、その功を率直に認めている。数行の中に、主と臣の信頼が刻まれていた。


 次に荀彧の書簡を広げる。端正な文字の奥に、旧友らしい温かさがにじんでいた。


 『洛陽再興の報を聞き、都においても喜びの声少なからず。戦と乱に荒れ果てた旧都が、新たに息を吹き返すとあっては、民の心もまた力づけられることでしょう。元常殿のご尽力、みなが頼もしく語っております。どうかご自愛のうえ、最後までお務めください。』


 情勢を見通す確かな目と、温かな筆致。荀彧の書はいつもながら、都の様子と人心の機微を自然に伝えてくる。読み終えると、鍾繇は灯火の揺らめきに視線を移した。


 北は平定され、南には孫劉の勢力が控え、西方にもまだ不穏な影は残る。天下は治まっているように見えて、その実、均衡の上に成り立っていた。洛陽の復興は、その均衡を支える一角を確かに形づくりつつある。


 鍾繇は筆を取り、返書をしたためた。事務的な進捗と今後の見通しを記し、荀彧には労をねぎらう数行を添える。


 書を封じ終えるころには、夜はすでに更けていた。城壁を巡る夜番の足音が響き、街の灯がところどころに点々と瞬いている。鍾繇は立ち上がり、窓の外に目を向けた。許昌と洛陽。二つの都を結ぶ筆の往来は、やがて国のかたちを定める力ともなる。だが彼は感傷に浸ることなく、ただ明日を見据えている。


 夜風を受けながら、鍾繇は櫓に上った。高台から見渡す街には、かつての荒れ果てた面影はもはやない。網の目のように延びた街路には新しい舗石が敷かれ、橋や市場もその姿を変えつつある。灯火がところどころにまたたき、夜の闇の中に再生した都の輪郭が浮かび上がっていた。


 遠くで夜番の兵が槍を携えて城壁を巡り、かすかな足音が風に運ばれてくる。市場の方角からは、作業を終えた工人たちの笑い声がわずかに響いていた。


 鍾繇は視線を巡らせる。洛陽はひとまず形を取り戻した。しかしそれは終着ではなく、これから訪れる政と戦の季節に向けて築かれた、新たな舞台である。城下にまたたく灯は、その序章を告げる火のようにも見えた。


 夜風が衣の裾を揺らす。洛陽は再び息づき、時代は次の局面へと歩みを進めようとしている。


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