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31 空華

 この世の流れは、もはや私の手を離れつつある。


 その思いが長いあいだ言葉にならぬまま、荀彧の心を占めていた。几の上には開かれぬままの書簡がひとつ、筆硯とともに置かれている。病の身となってからというもの、書簡を手に取る気力も日に日に薄れていた。


 曹操の魏公推挙、九錫の準備。それらの報せは遠い寿春にも届いている。董昭らが奔走し、曹操の府と朝廷のあいだで書簡が行き交っているのだという。


 かつてなら、その一巻ごとに目を通し、鍾繇や荀攸と論を重ね、時勢の綾を読み解いていたはずだ。だが今は、それを遠くで聞くだけの存在となってしまった。


 若き日、曹操と志を同じくし、乱世を正そうと力を尽くした。筆を執れば政を動かし、言を発すれば道が拓ける。そんな時期が確かにあった。けれども今は、筆は重く、声は遠い。自らの才が衰えたというより、この大きな流れが、己の手の届かぬところまで進んでしまったのだと、荀彧は悟っていた。


 魏公の件で意見を違えたとて、曹操を責める心はない。誰よりも近くで彼の歩みを見つめてきた。重責を担い、難き決断を繰り返してきたその背を、共に支えてきた年月がある。功も過も、志も変化も、すべてを知っているからこそ、軽々しくは語れない。


 悔やむのは、己の力の及ばなさだった。いま、この国の舟楫しゅうしゅうを執り、規律のもとに正しく導くための働きを、自分はもう為せぬ。


 ふと、視線が書簡に向かった。ためらいのような間があったが、やがて荀彧は手を伸ばした。


 巻き止めの紐はしっかりと封泥で固められ、その表面には目に馴染んだ印が押されている。荀彧は封泥にそっと指を添えてひびを入れ、割ったあと、巻かれた書簡を丁寧に開いた。力強さと緻密さを兼ね備えた文字は、長年読み慣れた友の手によるものだった。


 『先日の書簡を拝見し、あなたの憂慮がいっそう深まっていることを知りました。ついには、その思いが積もり、病苦にまで及んでいるとのこと。なぜ、そのようなことになってしまったのでしょうか。』


 書き出しを目にした瞬間、胸に風が通り抜けるような感覚があった。この筆致は長年の付き合いの中で幾度となく目にしてきたものであり、書き手の姿がありありと脳裏に浮かんだ。声高に慰めることなく、相手の心を正確に読み取り、必要な言葉を置いていく筆である。


 『思うに、張楽が洞庭の原野に響けば、鳥はそれを聞いて高く翔け、魚はその音を聞いて深く潜る。それは、絃や管の音色や笙の美しい調べが悪いからではありません。ただ、それぞれの好むところ、楽しむところが異なっているだけなのです。』


 長年の友が、膿んだ心をそっと持ち上げようとしてくれている。鍾繇の筆はいつも正確だが、その奥には変わらぬ友情と温かな眼差しがある。文字を目で追いながら、荀彧の心には洛陽で共に議論を交わした日々が甦っていた。酒肆の卓を囲み、筆を走らせながら語り合った情景が、懐かしさとともに胸に広がっていく。


 『あなたがもし、自らの性質をよく見極めたうえで、外の物事になど心を乱さずにいれば、心に滞るものはなくなるでしょう。』


 結びの一文を読み終えると、胸の重苦しさが、少しずつほどけていくのを感じた。


 外では蝉が鳴き始め、室の内も、いつしか眩い陽差しに照らされている。


 荀彧は書簡を膝の上に置いたまま目を閉じ、遠くにいる友が今も変わらぬ眼で自分を見ていることを感じ取っていた。思いは流れに姿を変え、心を満たしていく。


 荀彧は書簡を丁寧に巻き、几の上に戻した。筆跡の一文字一文字が、心に刻まれる印のように、いつまでも目に残っていた。


 陽は高く昇り、やがて傾いていく。書簡を読み終えたあと、荀彧は几の前に坐っていた。胸の澱はいつしか消え、心は穏やかな水面のように凪いでいる。外では、庭の樹々が黄昏に染まっていた。季節の移ろいとともに、日もまたゆるやかに過ぎていく。思いは言葉にならず、ただ穏やかに時間が流れていった。


 夜が来て、室に灯がともされる。昼の暑気は去り、風は爽やかであった。


 荀彧は身を起こし、几の前に筆硯を揃える。病身のため筆を執るにも時間がかかるが、その動作は確かである。書簡を認めるのは、これが最後になるだろうと心のどこかで感じていた。


 筆先を墨に浸すと、束の間宙を見つめた。書くべき言葉はすでに胸の内に定まっている。迷いはない。札の上に筆を落とし、書き進めていった。


 葬儀は質素にし、墓碑も立てる必要はない、名を後世に残そうとも思わぬ、派手な儀式や飾り立てた弔いは、士の本意にそぐわぬと、見るものの背を正すような筆致で綴っていく。


 言葉を記すごとに、歩んできた年月と人々の顔が胸に浮かんだ。それは激しい感情ではなく、長い歳月の果てに残った余韻であった。


 鍾繇と荀攸の名を筆に執ったとき、心に確信が広がる。自分の死後、この国の行く末を委ねるべき相手は、他にいない。筆をもって国を導く鍾繇と、情勢を読み策をめぐらす荀攸。二人の才と眼を信じてきた年月は、決して短くはなかった。


 書簡にはこう記す。


 『私が去った後の政と軍については、元常殿と公達殿に委ねるのがよいでしょう。二人が力を合わせれば、乱世の潮流を見誤ることはなく、これに勝る備えはありません。』


 筆先が札の上を滑る音が、室にかすかに響いた。言葉を記すごとに心は澄み、心には不思議な安らぎが広がっていく。


 荀彧は最期にひとつ、ゆるりと息を吸った。未来は自分の手を離れるが、その先を託す相手がいる。若き日から共に歩んできた二人の友の姿が、暗がりの中にありありと浮かんで見える。彼らがこの乱世を執り、先へと進んでいく。


 その思いとともに、荀彧はそっと目を閉じた。






※『鍾繇・還示表』より


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