02 春霞
洛陽は、いつになくひっそりとしていた。都を囲む山々は春霞に包まれ、木々の若芽が陽を透かしている。されど、その穏やかさの裏に、都を覆う淀みは確かに存在していた。誰もがそれを感じながら、あえて言葉にはせぬまま、日々を送っている。
その日の夕暮れ、洛水のほとりに建つ小さな酒肆。その二階の室で、鍾繇は旧知の士を迎えていた。格子窓の向こうには、黄昏に染まる景色が広がっている。洛水は悠々と流れ、季節の変わり目を告げる鳥が鳴いていた。
魚と菜の並ぶ卓の向こうで盃を傾けているのは、荀攸、字を公達。痩身で小柄な姿に、柔らかな眼差しをたたえている。しかし、その穏やかな外見に反して、胸中には怜悧な算と知略を秘めていた。幼少の頃から聡明と評判の高かった男である。
その隣に坐すのは、荀彧、字を文若。端正な容貌と澄んだ声を備え、語る言葉には人を惹きつける不思議な力があった。年若いながらも、その才はすでに洛陽の士人の間で名が通っていた。
荀攸が盃を指先で転がしながら言う。
「こうして卓を囲むのはいつぶりだろうな。陰脩殿はお元気であろうか」
「懐かしいですね」
荀彧が遠い記憶をたぐるように微笑んだ。
「思えば、我らの縁を繋いでくださったのはあの方です。頴川の春を思い出しますね」
頴川太守・陰脩は、かつて彼らを見いだした人物である。宦官の勢いが増す中、地方にありながら都の情勢を読み、才ある若者たちを次々と推挙していった。鍾繇、荀彧、荀攸。この三人が洛陽に集ったのも、彼の慧眼あってこそである。
三人の間に、ひととき穏やかな時が流れた。温められた酒の香がほのかに立つ。荀彧は盃を手に取り、格子窓の外を見やった。
「この都は、静かすぎますね」
「嵐の前触れというものだ」
鍾繇の返答に、荀攸が軽く眉を上げ、盃を傾ける。
「まったくだ。何が潜んでいるか分からん」
荀彧は小さく息を吐き、鍾繇に視線を向けた。
「……それが、今日元常殿がここに我らを呼んだ理由なのでしょうか」
三人の間に沈黙が流れる。鍾繇は僅かに笑みを浮かべて、卓の上の汁焚物を銘々の器によそった。生姜と葱の香りに混じって、川魚特有の泥臭さがわずかに鼻を掠める。器に注がれた汁の中で、鮒の身はほろりとほどけ、白く柔らかな繊維を見せていた。
「文若、公達。ひとつ言っておかねばならぬことがある」
鍾繇が切り出すと、荀彧が姿勢を正し、荀攸もうなずいた。
「今朝、稱疾の表を奉った。官を辞し、しばし宮を離れる」
その言葉に、室の空気がわずかに重くなる。
鍾繇は視線を落とし、鮒に箸を入れた。抵抗はなく、骨に触れる感触がかすかに手に返る。その仕草の裏には、決断に至るまでに見極めてきた数々の情景が浮かんでいた。宮中の回廊で交わされる囁き、詔勅の可否を変える宦官の一言、廷臣たちの伏し目がちな顔。そのすべてが、風向きの変化を告げていた。
荀彧は碗を持ち上げ、鍾繇を見つめる。
「元常殿のご決断、きっと後々、人々はその意味を知ることになるでしょう」
その声音には尊敬と、少しの寂しさがにじんでいた。
「……退くには良い時機だ」
ぽつりと言って、荀攸が盃を置く。
三人の間にふたたび沈黙が流れた。陽が格子窓越しに室を照らし、卓の上に影を落とす。
「冷めぬうちに」
鍾繇が勧めて、ようやく荀彧が箸を取った。一口含み、わずかに眉を動かす。視線は向かいに座る鍾繇へと向けられていた。
しばらくして、荀彧が口を開く。
「私は、もうしばらくは都に留まります。書を糾し、人と交わり、変化の兆しを見極めたいのです」
その声には、確固たる意志がこもっていた。都の情勢を知り、知を広める場を保とうとする彼の姿勢は、若者らしい理想と責任感の表れであろう。
荀攸がうなずく。
「俺も都に残る」
彼は少し盃を傾け、穏やかな口調で続けた。
「この都は、まだかすかに息をしている。人の往来や書簡の出入り、宴の顔ぶれ。そうした些細な兆しを拾っていけば、次の動きも見えてくるはずだ」
その言葉には、洛陽という都を熟知した者が持つ眼差しがあった。彼は声高に理想を掲げることもせず、風の中に混じるかすかな変化を逃さず掬い取ろうとしている。まるで、霞の中でまだ形を成さぬ流れを読むかのようだった。
鍾繇は二人を見渡した。
「道は違えたが、志は同じだ。それぞれの立場で備え、また集おう」
三人は盃を取り、掲げ合う。
「才は争わず、志は競わず、時と競う。いまは待つ時。やがて進むべき時が来る」
鍾繇の声に、荀彧と荀攸がうなずいた。
格子窓が風に鳴る。三人は無言のまま、残された盃を見つめていた。




