03 書簡
『宮中は、表向きは凪いでいるように見えて、その実、水面下では血の匂いが強まっている。』
その一文を読み終えると、鍾繇は書簡を几に置いた。竹に墨が染み、荀攸の筆跡が黒々と残っている。端正な文字の端々には、抑えきれぬ緊張がわずかに現れていた。
洛陽を離れてまだ幾月も経たぬ。されど、都から届く書簡は日ごとに増え、几の上には、ここ数日で届いた書簡が幾巻も積まれている。荀彧からのもの、荀攸からのもの、あるいは都に留まる知己のもの。筆跡も言葉遣いもそれぞれであったが、伝えてくる気配は一様に不穏だった。
荀攸からの書簡には、洛陽の廷中で日に日に強まる緊張が記されていた。表面上は政務も儀礼も平穏を装っているが、その裏では宦官と士大夫との対立が一層深まり、廷臣たちの間に疑心が広がっているのだという。
『三公の言葉は日に日に軽くなり、詔は宦官の筆を経ずして外に出ることがなくなった。義を語る声は、もはや誰が次に捕らえられるかという予兆に等しい。』
荀攸の言葉は決して誇張ではなかった。都にいたころからすでに兆しはあったが、わずか数か月のうちにここまで情勢が変わるとは。書簡から、都の淀みがじわりと溢れ出してくるようだった。
別の書簡を手に取る。送り主は荀彧である。
『火を絶やさぬことが、乱世を生き延びる道です。』
その一文には、年若き彼の気魄が宿っていた。都の空気が濁っていくなか、真っ直ぐに儒の教えを守る彼の姿勢は、鍾繇にとっても一条の光のように思われる。
さらに数巻、かつての同僚や友人たちからの報せも混じっていた。ある者は左遷され、ある者は郷里へ退き、またある者は消息を絶っている。廷臣たちは声を潜め、夜半の内に密かに家財をまとめる者も出てきたという。鍾繇は筆先で書簡を軽く叩きながら息を吐いた。書には、人々の焦燥と時流の乱れが刻まれている。
積み重ねた書簡を巻きながら、鍾繇は都の情勢を思い描いていった。札の端々に記されたわずかな言葉の綾を拾い上げ、脈を繋ぎ合わせるようにして、洛陽の変化の流れをたぐり寄せる。そこには、数か月前に見た景色とはまるで違う、濁った奔流が生まれつつあるのが感じ取れた。
これは一時の風ではない。
鍾繇は心の中でそうつぶやいた。嵐とは、突如として空から降ってくるものではない。地の底から湧き出した流れが、やがて形を成し、誰も逆らえぬ濁流となって押し寄せてくる。宦官と士人の対立は、もはや朝廷の枠を超えて、天下全体の歪みに広がり始めている。
竹林を抜ける風の音と、筆先に墨を含ませる音が室に響いた。潁川の空は晴れ渡り、木々の葉は穏やかに揺れていたが、その景色は、まだ誰の筆も触れていない一枚の札のように見える。やがてその空きに何が記されるのか、鍾繇にはおぼろげながら察せられていた。
行動を焦るべきではない。時機を読み、策を練る者にとって、いまは耳を澄ませ、目を凝らし、風の変化を見極める時である。人々が声を上げるとき、その声の先に何が潜んでいるかを知る者は少ない。しかし、声なきものにこそ、時代の本当のうねりは宿る。
陽が傾き、潁川の街は薄靄の帷に包まれていった。昼間は人々の往来で賑わっていた通りも、夕刻が近づくにつれて戸口を閉ざす家が増え、次第に寒気が混じり始めている。都はまるで一日の終わりとともに、胸に潜む不安を吐き出しているかのようであった。
鍾繇は几に肘をつき、私的なものとは別にして書簡の束を見下ろす。都の内外から寄せられる書簡は、表面上はいずれも些細な事件や地方の報せにすぎぬ。しかし、その行間には、政治の歪みが広がっていく様が刻まれていた。ひとつひとつは小さな波であっても、確かに同じ方向へと流れが集まり始めている。
鍾繇は封書の表に涼州の地名が刻まれている一巻の書簡を手に取った。北西の地から届く書簡は、いつの世でも風向きを変える予兆を孕む。鍾繇は封を割らず、指先にその感触を留めた。これまでの情勢判断が自然と結び合わさっていく。
涼州は辺境にあって中央から遠く離れているが、同時に軍事の要衝でもある。その地において兵権を握る者は、しばしば時代の転換点で名を刻む。過去にも、辺境の一将が都の権力争いに割って入り、情勢を一変させた例はいくつもあった。近ごろ、涼州では小規模ながら鎮撫の軍がしきりに動き、また中央からの命令に応じぬ将がいるとの噂も届いている。人々はまだそれを真に受けてはいないが、鍾繇は、その報せの裏に漂う不穏さを見逃さなかった。
都の政治は内に腐敗を抱え、外からは武の影が忍び寄る。二つが交わるとき、洛陽はどのような姿を見せるのか。鍾繇は目を眇めた。その視線の先には、時代のうねりが潜んでいる。




