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01 稱疾

 夜は更けて、洛陽の都を包む闇は深い。人々は寝静まり、遠く外郭の方で犬の吠える声がひときわ鋭く響いた。室には小さな油灯がひとつ、夜気に抗っている。


『臣、鍾繇(しょうよう)は、病を理由に官を辞し、都を去ることを願い出ます。』


 鍾繇、字を元常は、筆を持つ手を寸分も揺らさず、一字一字を刻むように表文をしたためていた。筆致は端正でありながらどこか冷ややかで、長年の宮仕えで培われた几帳面さと、今夜に限っては固い決意とが、墨跡の中に共存しているようである。


 都に生きる者たちにとって、この季節はまだ穏やかな春先であった。されど鍾繇の胸中は、春を愛でる心よりも不穏の予感で満ちている。この一巻が、単なる辞職の願いではないことを、彼自身が最もよく理解していた。ひとたび朝廷に差し出されれば、それは退官、すなわち宮中という渦から一歩身を引くことを意味する。それは官人にとって、昇進の道を自ら閉ざすも同然の行為であった。


 鍾繇が筆を止め、札の墨跡が黒々と浮かび上がる。


 この数年で洛陽は大きく変わった。宦官たちの勢力は宮廷を包み、廷臣たちの顔からは笑みが消え、ささやき声ばかりが堂を満たす。正義を語る言葉は、もはや賞賛ではなく、死への導きとなりつつある。


 洛陽の春は、かつて都人の誇りであった。百官の冠が輝き、朱塗りの宮殿の甍(いらか)は青空に映えて、皇都は栄華の相を湛えていたが、その面影は今や薄れ、街路に吹く風の中にさえ、どこか澱んだものが混じっている。


 いまは退くべき時。


 洛陽はもはや限界に近い。やがてこの都は、声を上げた者から順に崩れていくだろう。ならば、その前に一歩退き、次の時を待つべきだ。それが彼の判断である。



  ×  ×  ×  



 翌る日。宮門の前には、朝議を待つ百官が続々と集まり、広い石床の上に列をなしていた。その中に立つ鍾繇の姿も、普段と変わらぬ様相で顔色に陰りはなく、歩みも落ち着いている。しかし、心の内ではすでに、一つの決断が定まっていた。


 やがて、金鼓が鳴り響く。厚い宮門が音を立てて開かれ、廷臣たちは次々と中へ入っていった。


 鍾繇もその列に加わり、粛々と宮廷の奥へと進む。高殿の軒に朝陽が差し、朱塗りの柱を黄金色に染めていた。かつては威厳と清廉を象徴したその景色も、今ではどこか薄い膜に覆われたように感じられる。朝議の場に集う人々の表情は硬く、言葉少なであった。


 三公の坐の脇には、宦官たちが並び立っている。彼らは一見、何気なく控えているようで、実際には廷臣たちの一挙手一投足を射るような眼差しで見ていた。まるで蜘蛛が巣の振動を感知するように、わずかな異変も見逃さぬ目である。廷臣たちはその視線を避けるように、互いに目を合わせず、儀礼的に進み出ては拝礼を行った。


 鍾繇が定められた作法に従い、おごそかに進み出る。廷中の視線が一斉に彼に集まった。宦官の一人がわずかに眉をひそめ、三公の席からは沈黙が流れる。鍾繇は一礼し、懐から表文を取り出して差し出した。その動作は、まるで詔を奉ずるかのように端正である。封泥を施された巻が宦官の手に渡り、さらに上へと送られる。その一連の動きの間、鍾繇の顔には一切の感情が浮かばなかった。


 廷臣たちの間に、さざ波のように動揺が広がる。声を上げる者はいないが、それぞれの胸中に去来する思いは一様ではない。ある者は惜しみ、ある者は羨み、またある者は疑いの目を向ける。しかしながら、誰一人として、それを公にすることはなかった。この宮廷では、感情を声に出すこと自体が危うい時代だったのだ。


 三公の一人が表文を開き、目を通した。やがて視線を鍾繇に戻すとうなずき、すべてを宦官に託す。形式上の手続きは、それで終わった。鍾繇は一礼すると、何事もなかったかのように廷中を去る。その背を見送る人々の眼差しにはさまざまな色が交錯していたが、彼は一度も振り返らなかった。


 洛陽の街を陽が照らしていたが、その景色にはどこか寂しさがあった。人々の往来こそいつも通りであったが、かつて栄華を誇った都の息吹は、今や霧の向こうに遠ざかってしまっている。


 昼の内に、鍾繇の車が南の街門を抜けた。車輪が敷石を踏みしめる音が、規則正しく響く。従僕は少なく、荷も最小限にとどめていた。見送る者の姿はない。それは、鍾繇が自ら選んだ退き方である。


 車上から見える洛陽の街並みは、まだ靄の中にあった。しかしその根底には、確かに変わり始めた時代の波が潜んでいる。宦官と清流派の対立は深まり、地方では群雄が蜂起し、天子の威は日に日に薄れていく。都は今、崩れゆく大河の中洲のようなものだ。表面は穏やかに見えても、その下では土砂が音もなく流れ去っている。


 鍾繇は黙して景色を眺めた。彼の眼差しには哀惜も昂ぶりもなく、都という舞台の行く末を見据えていた。


 乱世の扉はすでに開かれている。都を去るこの一歩は、その渦のただ中へと自らを投じるための、最初の歩みにほかならぬ。


 時代はすでに動き始めていた。それは風に似て、されど大河の流れにも似て抗いがたく、すべての者を飲み込んでいく。鍾繇は、その流れをいち早く読み取り、自らの立つべき岸辺を見極めたのである。


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