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02 春霞

 洛陽の春は、いつになく静かだった。都を囲む山々は淡い霞に包まれ、木々の若芽が柔らかに陽を透かしている。長く続いた冬の冷気は薄れ、街路の敷石に差す光もどこか頼りない。だが、その穏やかさの裏に、都を覆う重い空気は確かに存在していた。誰もがそれを感じながら、あえて言葉にはせぬまま、日々を送っている。


 洛水のほとりに建つ小さな酒肆しゅし。その二階の室で、鍾繇は旧知の士を迎えていた。格子窓の向こうには、柔らかな光を宿した春の景色が広がっている。洛水は緩やかに流れ、街にはまだ冬の名残を残した風が吹いていた。


 卓の向こうで盃を傾けているのは、荀攸じゅんゆう、字を公達。痩身で小柄な姿に、柔らかな眼差しをたたえている。だが、その穏やかな外見に反して、胸中には冷徹な計算と深い知略を秘めていた。幼少の頃から聡明と評判の高かった男だ。


 その隣に坐すのは、荀彧じゅんいく、字を文若。端正な容貌と澄んだ声を備え、語る言葉には人を惹きつける不思議な力がある。年若いながらも、その才はすでに洛陽の士人の間で名が通っていた。


 卓上には筆筒が置かれ、鍾繇の手によって揃えられた筆先が春光を受けて光っている。整然としたその姿は、彼の性格そのものを映していた。


 荀攸が盃を指先で転がしながら、ふと懐かしむような声音で言った。


 「陰脩いんしゅう殿のおかげで、俺たちはこうして都で杯を交わせているんだな」

 「懐かしいですね」


 荀彧が遠い記憶をたぐるように微笑む。


 「頴川の春は、もう少し風が強かったけれど」


 頴川太守・陰脩は、かつて彼らを見いだした人物だった。宦官の勢いが増す中、地方にありながら都の情勢を鋭く読み、才ある若者たちを次々と推挙していった。鍾繇、荀彧、荀攸。この三人が洛陽に集ったのも、彼の慧眼あってこそである。


 「陰脩殿の推挙がなければ、今ごろ俺たちは別々の土地で春を迎えていたかもしれんな」


 鍾繇が筆を取り、宙をなぞるように言った。三人の間に、しばし穏やかな空気が流れ、洛陽の春風が室の奥まで吹き込み、筆先の毛をかすかに揺らす。荀彧は盃を手に取り、格子窓の外を見やった。


 「この都は、静かすぎますね」


 鍾繇が筆を指先で転がしながら、静かに応じた。


 「静けさとは、往々にして嵐の前触れというものだ」


 荀攸が軽く眉を上げ、盃を掲げる。


 「まったくだ。何が潜んでいるか分からん」


 荀彧は小さく息を吐き、鍾繇に視線を向けた。


 「元常殿は、やはり見通しておられる」


 鍾繇は筆先で卓を軽く叩いた。


 「見通すというより、いやでも目に入るだけだ。朝廷の空は、いまや風が籠り、雲が低く垂れたままだ」


 三人の間に、一瞬の沈黙が落ちた。春の風が格子窓を揺らし、洛水の方から淡い花の香が漂ってくる。この都の静けさは、もはや安らぎではなく、嵐の前の空白に過ぎない。そのことを、三人とも心の奥で理解していた。


 やがて鍾繇が筆を置いた。


 「文若、公達。ひとつ言っておかねばならぬことがある」


 荀彧が姿勢を正し、荀攸も静かにうなずいた。


 「今朝、稱疾のしょうしつのひょうを奉った。官を辞し、しばし宮を離れる」


 その言葉に、室の空気がわずかに沈んだ。格子窓の外では、風が柳を揺らし、枝先の芽が淡く光っている。


退官の表は、見た目こそ一枚の札にすぎぬ。だが、その意味するところは、士の運命をも左右するほどに重い。


 鍾繇は盃を見下ろし、指先で軽く縁をなぞった。その仕草の奥には、決断に至るまでに見極めてきた数々の情景が沈んでいた。宮中の回廊で交わされる囁き、詔勅の重みを変える宦官の一言、廷臣たちの伏し目がちな顔。そのすべてが、風向きの変化を告げていたのである。


 荀彧は静かに盃を持ち上げ、鍾繇を見つめた。


 「元常殿のご決断、きっと後々、人々は深く意味を知ることになるでしょう」


 その声音には尊敬と、少しの寂しさが滲んでいる。

荀攸は盃を置き、静かに言った。


 「決断は早いが、良い時機だと思う。いまの都は、泡の数じゃなく、流れの向きを見なければ動けない」


 鍾繇は筆を立て、卓に影を落とした。


 「宮中は言を嫌い、理を遠ざける。三公の奏は軽く、詔は宦官の指を経て重くなる。風向きはすでに変わった。だが、まだ誰も耳を澄まそうとしない」


 三人の間に沈黙が流れた。春の光が格子窓越しに室を照らし、卓の上に淡い影を落とす。

 

しばらくして、荀彧が口を開いた。


 「私も、もうしばらくは都に留まります。文を糾し、人と交わり、変化の兆しを見極めたいと思います」


 その声には、年若きながらも確かな意志がこもっている。都の空気を知り、知を広める場を保とうとする彼の姿勢は、若き荀彧らしい理想と責任感の表れであった。


 荀攸がうなずく。


 「俺も都に残る」


 彼は少し盃を傾け、穏やかな口調で続けた。


 「この都は、まだかすかに息をしている。人の往来や書簡の出入り、宴の顔ぶれ。そうした些細な兆しを拾っていけば、次の動きも見えてくるはずだ。剣を抜くには及ばない。鞘の鳴る音にこそ、先の気配はある」


 その言葉には、洛陽という都を熟知した者だけが持つ静かな眼差しがあった。彼は声を荒らげることも、理想を掲げることもない。ただ、風の中に混じるかすかな変化を逃さず掬い取ろうとしている。まるで、霞の奥でまだ形を成さぬ流れを読むかのようだった。


 鍾繇は二人を見渡した。


 「道は違えたが、志は同じだ。それぞれの立場で備えよう」


 三人は盃を取り、静かに掲げ合う。


 「才は争わず、志は競わず、時だけと競う。いまは退くべき時。やがて進むべき時が来る」


 鍾繇の声に、荀彧と荀攸がうなずいた。


 格子窓が風にかすかに鳴り、春の白さが室に差し込む。三人はしばし無言のまま、残された盃を見つめていた。先ほどまで交わしていた言葉が、春の光とともに静かに室の空気に溶けていく。


 やがて誰からともなく腰を上げ、並んで階を下り、洛水の堤へと出た。橋の袂で足を止めると、それぞれが短く会釈を交わす。言葉は尽くさぬ。尽くさずに残したところにこそ、約は深く沈む。荀彧は都の一角へと歩み去り、荀攸は雑踏の方へと姿を消した。


 鍾繇はひとり橋の上に立ち、流れの面に映る陽を見た。水は表で光り、底で動く。時もまた、そうである。三人の立つ場所は同じでも、見ている先はそれぞれに異なっていた。しかし、この日交わされた沈黙には、後の歳月を支える絆の萌芽が、確かに息づいている。この先、乱世の波がいかに激しくとも、今日の光景は三人の胸に深く刻まれるだろう。


 「再び会う日が来る」


 胸の奥で、静かにそうつぶやいた。


 洛陽の空は高く、霞は薄い。だが、風の底には、言い知れぬ冷たさがまだ残っている。別れの予感は声を立てず、春の景のうちに溶けていた。



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