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25 渡河

 見張り台に陣取る兵の槍が一斉に傾いた。地の底から鳴るような蹄の響きが近づき、陣にざわめきが走る。伝令が幕舎へ駆け込み、膝をついて声を張った。


 「援軍、到着しました!」


 鍾繇は筆を置き、帷を払って外に出た。闇の色がわずかに薄れ、地平の向こうに黒い波のような列が揺れている。先頭に立つ若武者の鞍上が、寒気を割って進んだ。馬超である。その背後に続く騎の列は乱れなく、槍の穂先は一線に並んで朝の微光を拾った。


 その列の脇には一人の将が控えている。龐徳ほうとく、字を令明。猛将にして、槍を執れば敵陣を貫くと謳われた男であった。


 陣門が開かれると、兵たちのどよめきは歓声に変わった。息も馬の鼻息も白い。並ぶ蹄が止まり、馬具の金具が微かに鳴る。馬超は馬首をわずかに巡らし、鍾繇の前に進み出る。


 「督軍従事、馬孟起。関中の兵、一万余。父の命を受け、ここに馳せ参じました」


 鍾繇はうなずいた。その眼は若武者の鋭さを測り、同時に背後の軍律を見る。槍の列、馬の間合い、旗の揺れ、鼓の打ち方。視は個ではなく群に及ぶ。盤面は駒の数よりも、駒の置き所に価値がある。


 その時、別の隊列が門をくぐった。先導の旗に、既の字が翻る。


 「鍾校尉の命、果たして参りました」


 鍾繇は報を告げる張既の肩に目を置いた。説得の成否は軍の勢いとなって現れる。旗の数は十分、顔色にも迷いがない。関中の気は定まった。


 「労であった。軍議にてつまびらかにせよ」


 間もなくして、幕舎に諸将が集まり、張既が関中の動きを短く報じる。馬騰は袁氏を離れ、兵と糧を差し出したこと。関中の有力者らもおおむね従うであろうこと。郭援は平陽に功を求め、汾河を境に動きを見せていること。言葉は簡にして要を得ていた。


 鍾繇は几の上に地図を広げると、指先で川筋をなぞり、諸営の距離を測る。


 「郭援は剛情にして功を急ぐ。必ず河を渡る。渡らねば功は立たぬと読む。だが軍は数におごり、連絡は粗い。渡河の最中は陣形が伸びる。そこが破れ目だ」


 将のひとりが眉を寄せた。


 「敵は数万。こちらは援軍を得たとはいえ、なお劣るやもしれません」

 「数は面を張るのみだ。面は流れに引かれ、流れは槍で裂ける。河は敵の味方ではない。われらが味方だ。渡りはじめ、渡りおわり、その二つの刻は軍の生死を分ける」


 馬超が歩を進める。


 「先陣、拝命したく存じます。敵が半ばを渡った時、鼓三、角二で突入いたしましょう」


 龐徳は言葉少なく槍の石突きを軽く打った。彼は戦の前に多くを語る男ではない。


 「孟起殿が先陣をつとめ、令明殿はこれを受けて斜に刺されよ。徳容、後備の指し回しにつき、連絡を断たせるな」


 鍾繇は軍律を改めて手短に示す。言葉を尽くさずとも、諸将はうなずく。


 軍議を解くと、陣に動きが生まれた。槍は布で拭われ、弦は張り直され、鼓は革を叩いて音を確かめる。騎の列は角度を変え、汾河へ向けて細長い影を引いた。兵の声が重なり、やがて一つの波となって広がる。


 鍾繇は幕舎の外に立った。空はまだ色を決めきれず、東がわずかに明るい。遠見の高みから河の筋を望むと、風が頬を撫でた。戦に要る温度である。


 盤面は成り、あとは駒を動かすのみであった。郭援が河に足を入れれば、こちらは槍を入れる。功を急ぐ者には、功の裂け目が口を開ける。そこへ指を差し入れて、そっとひねればよい。


 「備えを怠らず、合図に遅れなきように。敵が水に入ったら、風を見る前に動け」


 鍾繇は短く命じた。


 馬超はうなずき、鞍に身を置く。龐徳は黙って槍を立て直した。張既は伝令の配り方を改め、旗の色を一つ増やす。陣の端から端まで、ひそやかな緊張が糸のように張る。


 はるかに、鳥の声がひとつ。兵たちの肩がわずかに軽くなる。夜がほどけ、戦の刻がほどなく来る。鍾繇は目を細め、盤上の次の手を胸の内で確かめた。勝敗はまだ先にある。しかし勝ち筋は、もう見えている。


 一方、汾河の北岸には郭援の陣が張られていた。冬の風が幕舎の帷を鳴らし、馬のいななきと旗のはためく音が交じり合う。幕舎の内には火盆が据えられ、将たちが円坐に集まっていた。地図の上には汾河と平陽の地形が描かれ、敵陣の位置を示す木札が並べられている。


 「敵は河を挟んで守勢を取っている。いま攻め込めば、勝利は我らのものだ」


 郭援が声を張り上げた。鋭い眼差しと豪胆な物腰はそのままに、胸の奥には功名心が燃えている。彼にとってこの戦は、叔父である鍾繇に勝ちを見せつけ、袁氏の陣営で地歩を固める好機であった。


 「先に平陽を奪えば、曹軍は背を突かれて崩れる。名は天下に轟こうぞ!」


 諸将の中には顔を見合わせ、ためらう者もいた。一人が進み出て進言する。


 「渡河は危険にございます。敵は鍾繇、軽挙を許す相手ではありませぬ。川幅は広く、冬の流れは早い。隊列の乱れを突かれれば……」


 郭援はその言葉を遮るように手を振った。


 「怖じ気づくな!敵は我らの勢いに怯えて守りに入っているだけだ。功を立てるなら今をおいて他にない」


 高幹は郭援の顔を見つめた。彼に袁尚の威令と郭援の勢いの前で異論を押し切る気力はない。呼廚泉もまた匈奴の兵を率いて陣を控えていたが、軍議の主導権は郭援に握られており、静観を決め込んでいる。


 「先に河を渡って陣を敷けば、敵は慌てて出てくる。それを叩けばよい。大軍の威をもってすれば、敵など恐るるに足らぬ」


 郭援は地図の上に手を叩きつけるようにして言い切った。幕舎の中に沈黙が落ちる。ためらいはあっても、反対を貫く者はいない。功を焦る郭援の剛情が場を支配していた。


 やがて軍議は終わり、陣に動きが広がっていった。先鋒の兵が川辺に集められ、騎兵と歩兵が順に並ぶ。冬の汾河は灰色に濁り、流れは早い。馬がいななき、兵の声が飛び交い、川面に靄が立ちこめる。寒さで鉄の鎧は冷え、吐く息が白く空に昇った。


 「全軍、渡河の支度!」


 郭援の号令が響く。陣鼓が鳴り、先鋒の騎が川へと踏み込んだ。水しぶきが上がり、川を渡る馬の蹄が泥を跳ねる。兵たちは歯を鳴らしながらも先頭に続き、川を進んだ。列は次第に伸び、岸辺から対岸まで長く細い帯のように連なっていく。


 「郭将軍、渡河はお急ぎなされるな!敵の出方を見てからでも」


 背後から飛んだ慎重派の声を、郭援は一喝した。


 「口を閉じろ!敵が備える前に攻める、それが戦ぞ!」


 彼は馬首を巡らせ、自ら先頭近くに立った。冬の川風が髪を乱し、鎧に霜を散らす。功を焦る心は、もはや止められぬ奔流である。


 対岸では鍾繇の陣がそのさまを見つめていた。高台に立つ鍾繇の眼差しは冷たく澄んでいる。


 「さらばだ。郭援」


 その声は誰にともなく漏れ、風に消えた。


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