26 私情
鍾繇は諸将の前に立ち、わずかに息を吸う。そして周囲がざわめくなか、口を開く。
「時が来たな」
その一言で陣の様相が一変した。鍾繇は振り返り、的確な調子で号令を発する。
「弓隊、前へ。距離を取って構えよ。孟起殿、令明殿は騎を備え、時を待たれよ」
鼓が鳴り、旗が鳴る。馬超が先陣に立ち、鞍上から声を放った。
「敵は川の中だ!一撃で崩すぞ!」
兵たちの鬨の声が応じ、冬の空気を震わせた。弓兵が先頭に展開し、矢筒を背にした兵たちが弓弦を張る。張既は伝令をまとめ、旗と合図を確認してまわった。鍾繇の指揮は一糸乱れず、全軍が整然と動き出す。
やがて河辺に出ると、対岸から郭援軍が列を伸ばして渡河しているのが見えた。冬の川は灰色に濁り、兵馬がもがきながら進んでいる。列は細長く、中腹で隊列が波打ち、形は崩れ始めていた。
「構え!……放て!」
鍾繇の声とともに、号角が鳴り響いた。次の瞬間、弓兵が一斉に矢を放つ。空を切り裂いて無数の矢が川面を越え、敵の中腹に降り注いだ。甲を貫く音、馬の嘶き、兵の叫びが一斉に混じる。川中で矢を受けた馬が暴れ、兵が流れに足を取られて水へ落ちた。隊列はたちまち乱れ、列の間に間隙が生まれる。
「続け、放て!」
二の矢、三の矢と次々に放たれ、敵の渡河部隊はたちまち蜂の巣のようになった。河を渡り切る前に矢を浴びた先頭は崩れ、後方は進退を失って川中で押し合いへし合いとなる。陣形も統制もあったものではない。
鍾繇はわずかにうなずいた。目の前の光景は、まさに彼の読み通りのものである。
「孟起殿、令明殿。出陣を」
「承知!」
馬超が馬首を返し、外套をひるがえして鬨の声を上げた。
「鼓三、角二!」
鼓が三度打たれ、角笛が二度鳴る。待機していた騎兵が一斉に動いた。蹄が地を蹴り、地鳴りが戦場を揺らす。先陣の旗が風をはらんで翻り、灰色の空に高く舞い上がった。
馬超の騎は矢の雨で混乱した敵先頭に突っ込んだ。渡河を終えたばかりの敵兵は体勢が整わず、防ぐ間もなく弾き飛ばされる。馬超の槍が一閃し、騎兵を薙ぎ倒した。続く騎列が次々と押し寄せ、敵の先頭は粉砕された。
「押せ!押し切れ!」
馬超の檄が響き、関中の騎が怒涛の勢いで敵陣を呑み込んでいく。水しぶきが白く上がり、泥が飛び、槍戟の音と怒号が重なった。冬の川風のなか、戦場は一瞬で修羅の渦と化す。
その背後から龐徳の騎が斜めに敵中へ突入した。彼は弓射で乱れた敵列の中腹を的確に狙い、渡河中の中隊を切り裂いていく。槍が閃き、敵兵を次々と貫いた。騎列はまるで布を裂くように敵の中心を割り、渡河中の隊列を完全に分断する。
郭援軍は前後の連携を断たれ、先頭は潰され、後方は川中で押し合いに陥った。逃げ場を失った兵が次々と水に落ちる。
「敵陣、総崩れです!」
伝令が鍾繇のもとへ戻るころには、戦況はすでに決していた。関中軍は包囲の輪を狭め、敵は潰走するしかない。川辺の泥は赤黒く染まり、鉄と血脂の匂いが立ちこめた。鬨の声は止まず、戦場の地鳴りが遠くまで響いていく。
郭援は後方から戦況を睨みつけ、叫んでいた。
「踏みとどまれ!隊を組め、退くな!」
だが、その声はもはや誰にも届かぬ。川中の兵は進退を失い、退路も塞がれた。高幹は一時踏みとどまろうとしたが、戦況の崩壊を見て早々に退却へと舵を切る。呼廚泉もまた匈奴勢をまとめきれず、後方で態勢を立て直すこともなく退き始めた。
郭援は唇を噛みしめた。功を焦っての渡河が、すべての破局を招いていた。焦燥と怒りが混ざった顔で馬を走らせ、戦場の中央に向かって突き進む。その目はまだ、勝ちを諦めていなかった。
だが、その行く手に龐徳の騎兵が現れた。敵軍の中腹を切り裂いて進んでいた龐徳の部隊が、ちょうど郭援の一団と鉢合わせたのである。
短い交錯だった。郭援が槍を構えるより早く、龐徳の騎が斜めから突き込み、一気に包囲した。槍が一閃し、郭援の従者が倒れる。龐徳自身が馬上から突きかかり、鋭い一撃を郭援の胸元に叩き込んだ。抵抗はほとんどなかった。混乱のさなか、郭援はその名を叫ぶ間もなく槍に貫かれて落馬した。
龐徳は戦場のただ中で、敵将を斬ったことに特別な感慨を抱く余裕もなかった。ただ従者に命じて首級を弓袋に収めると、そのまま次の敵群へと駆け出していく。彼にとっては無数の敵兵のひとりにすぎなかったのだ。
戦が終わったのは、陽が傾きはじめた頃であった。呼廚泉・高幹は戦の趨勢が決するとあっさりと降伏を申し出、残兵も次々と武器を捨てた。関中軍の旗が汾河の川辺に翻り、勝利は揺るぎないものとなる。
本陣へと運び込まれた首級の中に、一つの顔があった。血に濡れた髪、半ば開いたままの眼。鍾繇はそれを見た瞬間、瞼を震わせた。
「郭援」
甥である。幼き頃、ともに家の庭で弓を引いた日の記憶が、一瞬のうちに胸裏に蘇る。風が陣を抜けた。人々の声も、馬のいななきも、その一瞬だけ遠ざかったように感じられる。
龐徳が進み出て拱手した。
「将軍。討ち取ったのは、某にございます。知らずとはいえ、将軍の甥を……」
鍾繇はしばらく言葉を発せなかった。やがて、ゆっくりと首を振る。
「よい」
短い一言に決意がにじんでいた。鍾繇は郭援の顔を見つめながら、はっきりと告げる。
「郭援は甥といえども、国賊である。令明殿が何を謝ることがあるのか」
龐徳は深く頭を垂れた。その背を見ながら、鍾繇は目を伏せた。勝利の声が遠くで沸き起こる。呼廚泉と高幹の降伏は、平陽を脅かした叛乱の終わりを意味していた。




