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24 説得

 関中の空は曇り、黄土の大地には冬の気が満ちている。張既の一行が馬騰の根拠地に近づいたころ、砦の上ではすでに松明の炎が風に揺れ、夜営にも似た張り詰めた空気が漂っていた。郭援からの使者が先に到着し、馬騰の幕下では去就をめぐって激しい議論が続いていたのである。


 馬騰の陣営には、いま二つの声が対立していた。一方は郭援・高幹の勢いに乗じて挙兵し、袁氏と手を結ぶべしと唱える強硬派。もう一方は、軽々に動くべきではないと慎重を求める者たちである。


 強硬派の将が声を張り上げた。


 「郭援らの軍は数万、匈奴も味方している。曹操は黎陽にあって袁尚と戦い、手が回らぬ。いま郭援に呼応すれば、関中の地位は一挙に高まろう!」


 別の将も応じる。


 「鍾繇は平陽に釘付けだ。いま挙兵すれば奴らを挟撃できる。好機を逃せば、二度と巡ってはこぬぞ!」


 これに対し、慎重派は郭援の剛情を警戒し、袁氏の先行きの不確かさを訴えた。


 「袁氏は河北を失い、勢いは昔日のごとからず。郭援とて軽はずみな男、勢いに乗れば味方も見境なく巻き込む」

 「天下は未だ定まらず。今は静観し、情勢の行方を見極めるべき時ではないか」


 議論は夜を徹して続き、砦の広間には重い熱気がこもっていた。主である馬騰は几の前に坐し、沈痛な面持ちで言葉を交わす将たちを見渡している。武勇に鳴る男ではあるが、天下の大勢を見定めることには迷いがあった。袁氏と曹操、いずれにつくかの選択は、関中の存亡と一族の運命をも左右する。その重みが彼の肩にのしかかっている。


 ちょうどその時、張既一行が砦に入ったとの報せが入った。門を守る兵が道を開け、寒風のなかを駆けてきた馬上の影が松明に照らし出される。長旅の疲れを隠さずとも、その表情には揺るぎがない。張既は馬を降りると、従者とともに砦内へ進み、やがて評議の場へと通される。


 陣営の気が微かに変わった。外部からの使者が現れたことで、議論に流れていた熱が一瞬収まり、視線が一斉に張既へと集まる。馬騰もまた顔を上げ、到着した張既を見据えた。その瞳には、決断を迫られる者特有の、深い迷いの色が宿っていた。


 やがて評議はいったん散じた。砦の中には冷たい風が吹き込み、先ほどの熱気が嘘のように鎮まる。張既は従者を控えさせ、馬騰の幕舎へと案内された。


 馬騰は中央の坐に腰を据え、張既を迎えた。


 「遠路ご苦労であった」


 声には疲労と苛立ちが入り混じっている。郭援の使者と将たちの議論に心身をすり減らしていたのだろう。


 「情勢は見てのとおりだ。郭援と高幹は勢いを得て、匈奴も従えている。関中の者たちの心は揺れておる。わしもまた、進むべき道を決めかねておるのだ」


 張既は一歩進み出て、恭しく拱手した。


 「将軍のご苦慮、まことに察するに余りあります。ですが、いまこそ決断の時。もし将軍が援軍を差し伸べられれば、戦の趨勢は大きく変わりましょう」


 馬騰は眉をひそめ、深く息を吐く。


 「だが郭援は元常殿の甥御であろう。あやつは剛情な男だが、勢いは侮れぬ。こちらが敵に回れば、容赦はすまい。それに、関中の諸豪族の目もある。下手をすれば一挙に背かれかねん」


 場の空気が重くなった。


 その時、場に控えていた一人の士人が前へ出た。傅幹ふかんである。馬騰の幕下にあって筆を執る人物で、若くして学識に通じ、時勢を見通す眼に優れていた。馬騰もその才を認め、政戦の折にはしばしば意見を求めている。


 傅幹は几の脇に進み出ると、はっきりとした声で言った。


 「将軍、迷われるのも無理はございません。しかし、このまま曖昧にしておくことは、かえって禍を招くもととなりましょう」


 張既が目を向ける。傅幹の表情には一切のためらいがなかった。


 「徳に順じる者は盛え、徳に逆らう者は滅ぶ。これは古来より変わらぬ道理でございます。曹公は天子を奉じ、法令を明らかにし、乱を討っています。これは順徳の証です。対して袁氏は家柄を恃み、朝廷に背き、胡虜を使って中原を侵しております。これは逆徳の行いです」


 幕舎が一段と重くなる。傅幹はさらに言葉を重ねた。


 「将軍はいま朝廷に仕えながら、袁氏にも通じようとしておられる。このままでは、いずれ勝敗が定まったとき、真っ先に朝廷の糾弾を受ける立場となりましょう」


 その言葉は迷いを突く鋭さを帯びている。馬騰は几に置いた手をわずかに握りしめ、深く考え込む。傅幹の声は、彼の胸の奥に染み込んでいった。


 傅幹は一呼吸置き、言葉の調子をわずかに改めた。先ほどまでの諫める声音から、戦局を見通す士人の眼差しへと変わっている。


 「もっとも、これまでのことを悔やむ必要はございません。智者は禍をもって福に転ずるものです」


 馬騰の目が傅幹に向けられた。沈んだ表情の奥に、わずかながら関心の色が宿る。傅幹はその変化を見逃さなかった。


 「いま、曹公は袁氏と黎陽で対峙しております。郭援と高幹は河東に軍を進め、鍾校尉は平陽を押さえてその来寇を受け止めている。もし将軍がこの機に兵を挙げ、郭援を討てばどうなるか。袁氏の片腕は折れ、曹公の背後は安んじます。将軍の功名は、比類なきものとなるでしょう」


 その言葉は、先ほどまでの諫言とは異なり、戦略としての明快さを帯びている。張既も傅幹の言葉に呼応し、口を開いた。


 「鍾校尉は敵の補給路を断ち、郭援を引きつける構えです。援軍があれば、勝敗は明らかです。郭援は剛情な男、戦えば必ず隙を見せます。いまこそ決断の時です」


 幕舎の中に、張既と傅幹の言葉が染み渡っていく。外の寒気とは対照的に、室にはじわりと熱がこもり始めていた。


 馬騰は拳を握り、再び開いた。視線が几の上をさまよい、やがて張既と傅幹へと向けられる。


 「郭援を討てば、袁氏は弱る。曹公もわしを重んじよう」


 その声には、先ほどまでの迷いに代わって、かすかな決意の響きが宿っていた。傅幹が深くうなずく。


 「将軍のご決断があれば、関中の諸勢もそれに従いましょう。迷う理由はもはやございません」


 馬騰は背筋を伸ばし、両手を几に置いた。思索に沈んでいた面差しから、武人としての精気が少しずつ戻ってくる。この瞬間、長らく揺れていた彼の心は、はっきりとひとつの方向に傾いた。


 その夜は星が砦の屋根を薄く照らした。冷たい風が戦の前触れを告げるように吹き抜ける。やがて夜明けが近づくころ、馬騰はついに諸将を召集し、軍議を開くことを決めた。評議の席には張既の姿もあり、その表情には緊張が宿っている。傅幹は主君の傍らに控え、諸将の面々を見渡していた。


 馬騰は中央に坐し、全員の顔を順に見回した。前夜まで続いた議論の余韻はまだ残っており、将たちの眼差しには一抹の不安と、決断を待つ気配が入り混じっている。


 しばしの沈黙のあと、馬騰ははっきりとした声で口を開いた。


 「わしは鍾校尉に与することを決めた。郭援・高幹を討ち、関中の去就を明らかにする」


 その一言が響いた瞬間、場が一変した。強硬派の中には戸惑いの表情を見せる者もいたが、傅幹が一歩進み出て視線を巡らせると、異論は次第にしぼんでいく。慎重派の将たちは顔を見合わせ、やがてうなずいた。迷いの雲が晴れ、陣営全体に新たな方向性が定まりつつある。


 馬騰は長子の馬超を呼び寄せた。若き将はすぐさま前に進み出る。鋭い眼差しの奥には、戦いを前にした高揚と自負がにじんでいた。


 「孟起よ、鍾校尉のもとへ赴き、郭援・高幹を討て」


 馬騰の声は揺るがぬ。馬超は一礼し、力強く応える。


 「御意」


 その声は将兵たちの胸に熱を灯した。傅幹はその様子を見つめながら、心の奥で密かに息をつく。昨夜の迷いはすでにない。馬騰は一度決めた道を、もう揺るがすことはないだろう。


 軍議が終わると、馬超はただちに出立の支度に取りかかった。甲冑を身にまとい、手勢を率いて砦を出る準備を進める。従う兵は一万余、いずれも関中で鍛えられた精鋭である。張既もまた鍾繇への返書を懐に収め、共に東へ向かう手筈を整えた。


 砦の門が開かれたとき、冬の朝の冷気が押し寄せ、馬の鼻息が白く立ち上った。空はいまだ薄闇に包まれていたが、地平の向こうから陽がようやく顔を覗かせている。


 馬超は鞍上に身を乗せ、軍勢の先頭に立った。その背には若き将としての自負と、父の決断を受け継いだ重責がある。蹄の音が一斉に鳴り響き、軍勢は東へと進み出した。黄土の大地を蹴り上げながら、隊列は遠ざかっていく。



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