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23 反乱

 官渡の戦いから、二年が過ぎていた。大陸の盤面は一見すると落ち着きを取り戻したかに見えたが、その実、各地で不穏な火種が燻っていた。曹操は河北の制圧を進め、袁氏の勢力は大きく削がれたものの、辺境にはまだ旧勢力が根を残していたのである。


 この年、南匈奴の単于ぜんう呼廚泉こちゅうせんが平陽で反乱を起こした。曹操は鍾繇に討伐を命じ、司隷校尉として諸将を率いさせる。鍾繇は討伐軍を率いて速やかにこれを包囲した。


 当初、包囲戦は鍾繇の思惑どおりに進んでいた。呼廚泉は匈奴の兵を率いて平陽の城に籠もったが、鍾繇は三方から包囲し、補給路を断って着実に締めつける。城外には援軍の影もなく、敵の士気は目に見えて落ちていた。


 鍾繇は兵を無理に動かさず、地の利と兵站を活かして敵をじわじわと追い詰める。匈奴の機動力は野戦では脅威だが、籠城となれば持ち味を発揮できぬ。長引くほどに形勢は優位に傾くことを、もはや誰もが理解していた。


 陣中には落ち着いた緊張が漂っていた。将兵は規律を保ち、各所の包囲線も崩れはない。伝令が次々と戦況を報告に訪れ、鍾繇は指示を返す。情勢は安定しており、このまま包囲を続ければ勝利は時間の問題と見られていた。


 しかしその日の午後、許からの急報で事態は急転した。馬が泡を吹き、伝令は鞍から転げ落ちそうな勢いで幕舎へ駆け込んでくる。封を解いた書簡には、高幹こうかん郭援かくえんが并州から大軍を率いて進発したとの一文があった。


 報せを受けた幕舎の内が、一瞬で張りつめた。これまで安定していた戦局が、突如として揺らぎ始めたのである。


 鍾繇は書簡を読み下し、眉をわずかにひそめた。郭援。鍾繇の甥にあたるその名は、戦場の均衡を大きく崩しかねない重みを持っている。呼廚泉の籠城は、我らを誘い出す囮にすぎなかったのではないか。袁氏残党は匈奴を焚き付け、こちらを平陽に引き寄せてから、高幹・郭援の軍で挟撃する。そう考えれば全てが一本の線で繋がる。


 もしこのまま郭援らが到着すれば、包囲陣は逆に敵の挟撃を受ける格好となる。野戦での大軍との戦いは不利、退路を断たれれば全軍壊滅すらあり得る。鍾繇はその全貌を瞬時に読み取り、報せを持ってきた伝令に次々と追加の確認を指示した。


 幕舎の中はぴんと張り詰めた空気に包まれていた。郭援・高幹の出兵の報は、呼廚泉を包囲する鍾繇軍にとって、まさに戦局を一変させるものだった。昼なお薄曇りの空が布陣に影を落とし、兵たちの間にも不安が広がっている。幕舎に集められた将たちの顔には、緊張の色が濃く刻まれていた。


 最年長の将が口火を切る。


 「いったん関中へ退いて兵を立て直すべきかと存じます」


 抑えられた声には、重苦しい現実がにじんでいた。別の将が続く。


 「敵は郭援と高幹、それに匈奴。数は我らの数倍に上ります。袁尚は背後に控え、郭援は并州の兵を糾合している。このまま正面から戦えば分が悪い」


 三人目の将は声を潜めながらも、深刻な顔つきで言った。


 「包囲が長引き、兵糧も潤沢ではありません。このままでは平陽の戦いに拘泥し、挟撃される危険が高いかと」


 それぞれの言葉は率直な危惧であり、無闇な動揺ではなかった。しかし場の空気は重く、将たちの間に退却論が広がっていく。その中心で、鍾繇は几の前に坐したまま、一言も発さずに耳を傾けていた。発言する者がいなくなると、彼はようやく口を開く。


 「意見は出揃ったな」


 落ち着いた声が幕舎を一瞬で引き締めた。ざわめきはぴたりと止み、諸将の視線が一斉に鍾繇へと集まる。


 「袁氏はいまだ強勢だ。郭援が来ると聞いて、関中では密かに彼と通じる者もいるやもしれぬ。しかし、いまなお全てが背かぬのは、我らの威を恐れているからだ」


 鍾繇は一拍置き、集まった顔ぶれを見渡した。


 「郭援は我が甥。奴のことはよく知っている。あれは剛情で、人を打ち負かすのを好む。勢いに乗れば、必ずこちらを侮るだろう」


 言葉の一つひとつが明晰に響いた。甥という言葉を鍾繇自らが口にしたことで、場に漂っていた微かな遠慮や言い淀みが消える。誰もが彼の発言に耳を傾けていた。


 「もしここで兵を退けば、民も大姓も一斉に背き、関中は逆賊の手に落ちる。退こうとしても道は閉ざされ、国へ戻ることさえ叶わぬだろう。それは戦わずして自らを敗北に追い込むものだ」


 鍾繇は視線を張既ちょうきに向けた。幕下にあって折衝と調整を担う幕僚であり、この種の任を託すに足る男である。


 「徳容」


 名を呼ばれた張既は、一歩進み出て拱手した。


 「寿成殿を説得し、援軍を取りつけよ。貴殿に任せる」


 張既はうなずき、黙したまま一礼して幕舎をあとにする。鍾繇の言葉によって迷いは一掃され、幕舎の中には炎のような決意が満ちた。


 会議が終わり、諸将は次々と幕舎を辞していった。外はすでに陽が落ち、陣営には影が落ち始めている。人の声が遠ざかるにつれて、軍中の喧噪も次第に遠のいていった。


 軍営を囲む大地には、風の音ひとつもない。陣のあちこちで松明の火が揺れ、見張りの兵が無言で立ち並ぶ。幕舎の外には、遠い城壁の影が黒々と浮かんでいた。包囲は続き、戦はまだ動いていない。だが、明日が今日と同じとは限らなかった。


 鍾繇は灯を落とした幕舎にひとり残っていた。几の上には郭援・高幹の進軍報が広げられ、月明かりが札の端をわずかに照らしている。軍議は終わり、諸将の動揺は収まり、陣営全体に覚悟が戻っていた。それでも、決して容易な戦ではない。


 郭援。その名を目で追いながら、鍾繇は深く息を吐いた。血を分けた甥であり、若い頃からその気性をよく知る相手である。その甥が、いま敵として自分の包囲陣を破ろうとしている。情が胸をよぎらぬわけではない。だが、それは一瞬のことであった。鍾繇はすぐに思考を戦へと引き戻す。


 郭援を討つ。


 心の中で言葉を置くように、鍾繇は決意を固めた。闇の中で、ひとつの覚悟が揺るぎなく形を成している。


 そのころ、張既は無言のまま鞍を締め、従者とともに馬を曳いていた。鍾繇から託されたのは、馬騰の説得という重責である。関中の情勢を一変させる鍵を握る任務であり、成功も失敗も、この先の戦を大きく左右する。彼の横顔に迷いはなかった。若きがゆえの血気ではなく、確かな意志がその瞳に宿っている。張既は軽く手綱を引き、薄闇の中に馬を進めた。


 夜明けを待たず、陣営を後にする一団の影が平陽の大地を駆けていく。まだ戦は始まってはいない。だが、盤面は動き始めていた。


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