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22 尺牘

 建安六年、初冬。許の都は澄んだ空に包まれていた。野はすでに刈り入れを終え、黄土の大地が広がっている。河岸には白い靄がかかり、街路には冬支度を急ぐ人々の往来が続いていた。戦の煙が消え、都の景色は変わりゆく。


 河北では袁氏の旗が倒れ、かつての大軍も今は影を潜めていた。曹操は許に帰還して政務の再編にあたっており、州郡の人々も、徐々に落ち着きを取り戻しつつある。その平穏の裏には、乱世の余韻が微かに残っていた。焼かれた穀倉の跡、戦を逃れた民の移動、統治の網の目からこぼれた土地。そうした痕跡が、表には見えぬところで、時をかけて少しずつ塞がれようとしている。


 鍾繇は司隷校尉として、都と地方を往復し、政務に追われる日々を送っていた。関中と并州をにらみ、地方官と議を交わす毎日は、戦場とは異なる緊張を孕んでいる。彼が坐す室の内は静謐で、几の上には墨と筆が並べられていた。長年の習い性か、それらはわずかな乱れもなく揃えられている。外からは、乾いた風が格子窓を鳴らす音が聞こえてきた。都の空は高く澄み、油灯の炎が揺れるたび、壁に淡い影が映る。戦乱を経て訪れた、ひとときの穏やかな季節を肌で感じられる夕であった。


 鍾繇は几の上の文箱から一巻の書簡を取り出した。都より届いたもので、封には端正な筆跡で、荀文若と記されている。封を割り、丁寧に書簡を広げると、目に馴染んだ筆致が浮かび上がった。


 曹操軍の戦後処理と都の再編が、簡潔に記されている。河北の再統治、諸将の再配置、都の整備。そのいずれも、戦勝の勢いに乗って着々と進められていることが伝わってくる。


 『劉表討伐の件、かつて公においては軍を南へ向けられる計画もありましたが、進言によりこれを見送られました。兵站と民心を軽んずれば、得るものは一時、失うものは長し。その判断、実に深慮と申すべきでしょう。


 劉備は荊州に入り、南陽・新野を根拠といたしました。これより南方は、いずれ新たな舞台となるやもしれませぬ。もっとも今は、兵を交えるほどのこともなく、国中の目はおおむね河北の再編と中原の安定に注がれております。


 朝廷は安んじ、政治は一歩ずつ進んでおります。風向きは明らかに変わりました。いまの曹公の勢いと人心を思えば、天下の趨勢はすでに定まりつつあると言えましょう。』


 文は整然としながら、どこか温かな筆致を宿していた。政の趨勢と人心の機微、その双方を曇りなく見通す荀彧の姿がそこにある。


 『元常殿のこと、都においてもみなが案じております。お身体を労わり、政に心を尽くされんことを。次に文を交わす折には、また近況をお聞かせ下されば幸いです。』


 鍾繇は筆跡を目でなぞりながら、僅かに表情を和らげた。荀彧の文は、いつもながら一字一句が行き届いている。都の気配と天下の情勢、その両方がにじみ出るようだった。


 荀彧の書簡を巻き直すと、鍾繇は文箱からもう一巻、細身の書簡を取り出した。封には、荀公達と記されている。荀攸の筆によるものである。封を割り、書簡を広げると、荀彧の文よりもさらに簡潔で、引き締まった筆致が目に入った。余白の使い方にも無駄がなく、几帳面な性格がよく表れている。


 『河北、汝南とも大方は治まっています。諸郡の再統治が進み、戦の創もようやく癒えつつあるようです。』


 書き出しは淡々としていた。戦後情勢を伝えるだけの簡潔な言葉だが、その背後には情勢を鋭く見通す視線があった。


 『南方も今のところ動きはありません。劉備は新野に入り、劉表のもとで勢力を立て直していますが、兵を動かす気配は見えません。とはいえ、今後はあの地が要となりましょう。いずれ情勢が動く時は来るはずです。


 袁氏残党はまだ各地に痕跡を残していますが、大きな動きはありません。今は剣を抜くよりも、風向きを読む時です。』


 その一文に、荀攸らしさが現れていた。情勢を騒ぎ立てるでもなく、また軽んじるでもない。沈着な観察と、長年の経験に裏打ちされた確かな感覚がある。


 『元常殿には、いつもながら感服しております。司隷の務め、容易ならぬことと存じます。どうかご自愛を。』


 鍾繇は読み終えると、しばし筆跡を見つめた。荀攸の文は飾り気がなく、短いながらも骨の通った内容だった。洛陽で若き日を共に過ごした友の姿が、淡い灯の下でふとよみがえる。荀彧の格調と、荀攸の簡潔さ。文には、それぞれの人柄がそのまま刻まれている。


 鍾繇は二巻の書簡を几上に並べ、しばし黙して見つめた。都と辺境は離れていても、筆を交わせば心は通う。戦と政の季節が移ろう中で、三人の絆は変わらずに在った。


 筆を取り、鍾繇は返書に取りかかった。まずは荀彧への書簡である。


 『河北の戦が鎮まり、中原が治まったこと、誠に慶ばしい限りです。こちらもようやく落ち着きを見せ、民は冬を迎える支度に励んでいます。地方の大姓や旧勢力との折衝は続いておりますが、今のところ大きな乱れはありません。


 都の政が落ち着きつつあるとの報、心強く拝読しました。曹公の御威徳と文若殿のご尽力によるところ大と存じます。お身体にご自愛を。許のみな々にもよろしくお伝え下さい。』


 筆を休め、次に荀攸への返書に移る。


 『南方の報、詳しく感謝します。こちらでも情報は入っておりますが、公達殿のご見立てはやはり確かです。今は剣を抜く時ではなく、時の流れを見定めるべき季節と私も思います。こちらも当面は静穏であり、年の瀬に向けて民の営みを守ることを第一としています。


 洛陽の日々を懐かしく思い出します。いずれまた杯を交わせる日を楽しみにしています。』


 書簡を巻き終えると、外はすっかり暮れていた。格子窓の外から、乾いた冬の風が吹き込む。油灯の火がかすかに揺れ、几の上に淡い影を落とした。戦が遠ざかり、筆と政が世を動かす季節が訪れている。



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