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19 苦境

 砦の上から見渡せば、地平の果てまで袁紹軍の旗が揺れていた。数において曹操軍は劣勢である。されど、工夫と将兵の奮戦によって砦は崩れず、幾たびの攻めをしのいだ。戦は日に日に苛烈さを増し、両軍の間に疲労と焦燥が募る。


 そのさなか、曹操軍の背後にも新たな火種が燃え広がった。豫州・汝南郡で劉辟りゅうへきが旗を翻し、曹操に背いて挙兵する。袁紹はこの機を逃さず、劉備を遣わしてこれを助け、許昌周辺を荒らさせた。曹操はただちに曹仁を討伐に向け、劉辟を破って諸県を奪い返す。だが劉備は再び汝南へ侵入し、賊徒と結んで抵抗を続けた。官渡の前線では膠着が続き、背後では離反の兆しが強まった。戦局はじわりと曹操を圧しはじめた。


 ある夜、曹操は本陣の幕を閉ざし、諸将を集めて軍議を開いた。幾人もの影が壁に揺れる。几の上には官渡周辺と黄河の流れ、袁紹軍の布陣が細かく描かれていた。


 曹操はしばらく地図を見つめたのち、言った。


 「戦は膠着して久しい。兵は疲れ、兵糧も細る。袁紹は大軍をもってじりじりと攻め寄せ、背後では劉備が火を放っておる。いま我が軍は、二方から押される格好だ」


 言葉は幕内に重く落ちる。沈黙を破ったのは荀攸であった。彼は一歩進み、指先で地図をなぞりながら口を開く。


 「補給の道は細く、敵の圧迫も強まっています。砦の守りを固めるだけでは長く持ちません。兵糧は月余りが限度でしょう。このままではこちらが先に力尽きます」


 荀攸の言葉には淡々とした響きがあったが、その一言一言が現実の厳しさを突きつけた。


 幕僚の一角には、賈詡の姿もある。賈詡はもと涼州の策士であり、献帝の長安脱出の折には李傕・郭汜と手を組み、鍾繇と対立して朝廷を翻弄した男であった。その後、招きを受けて張繡に仕え、宛城で曹操軍を迎え撃ち、大敗を喫させている。だが賈詡は情勢を見極め、袁紹と曹操を比較した末に張繡を説得して降伏させ、曹操軍に加わった。その知略と判断力は今や幕僚の中でも一目置かれ、戦場にあっても重きをなす存在である。


 賈詡は薄く笑い、口を開いた。


 「袁紹殿の軍勢は、数こそ見事ですがね、どうにも腰が重い。将も兵も、勝ち戦の夢に酔っておるのでしょう。あの大軍を長く養うのは骨が折れる。じわじわと苦しくなるのは、向こうも同じというわけです。策を弄す余地、まだまだありますなあ」


 老獪な口ぶりには、戦の趨勢を見抜く冷静さがあった。賈詡の言葉に郭嘉が続く。


 「戦が長引けば民心は離れます。背後はすでに揺らぎはじめている。汝南を治めきれぬとあらば、許昌そのものが危うい。袁紹はそのことを承知で兵を二手に分け、前と後ろから曹公を挟んでおります」


 その声には冷ややかな響きがあり、幕内をさらに引き締めた。程昱が言う。


 「数では及ばぬが、奴の軍にも隙はある。正面からぶつかる必要はない。守って時を計り、敵の心が揺らいだところを突けばよい」


 その一言は短くとも重く、場に腹の据わった判断を残した。


 曹洪、徐晃、于禁らも次々と意見を述べた。誰もが現状の厳しさを承知しており、議論は策よりも持久と備えに傾いていく。砦を守り抜くことこそ第一というのが、諸将の一致するところであった。


 曹操はみなの言葉を聞きながら、黙して地図を見つめ続けた。黄河は冷たく曲がり、袁紹の大軍がその南に広がっている。砦は、その奔流にただ一つ浮かぶ小舟のようでもあった。勝利の機は遠く、戦の終わりは見えぬ。曹操の胸に去来するものは重い。


 戦は長引き、官渡の砦にも少しずつ綻びが見えはじめた。兵糧は日に日に減り、配給の量は目に見えて細っていく。初めは三度の食が保たれていたが、やがて二度となり、今では一椀の粥で一日をしのぐ有様である。


 兵たちの顔には疲労が刻まれ、目の光は鈍っていった。昼は矢戦と修繕に追われ、夜は地下道の音に怯えながら番に立つ。張り詰めた日々の中で士気は少しずつ削られ、矢傷を負った者の治療もままならぬ。傷口を押さえたまま持ち場に立つ兵も少なくなかった。


 砦を巡る情勢は、表の戦と裏の不安が交錯し、目に見えぬ形で曹操の陣営を締めつけていた。兵糧が尽きれば戦は立たず、士気が崩れれば守りも保てぬ。砦の中では、いずれ訪れるであろうその時を、誰もが心の奥で恐れていた。


 軍議から幾日かが過ぎた夜更け、曹操は本陣に灯をともして一人几の前に坐していた。幕外では秋の風が砦の板壁を鳴らし、遠い空に冷たい星がにじんでいる。油灯の炎がかすかに揺れ、黄河の流れと袁紹軍の布陣が地図の上に浮かび上がった。


 砦に籠もったままでは、いずれ力尽きる。曹操はその現実を正面から見据えていた。


 筆を取ると、札を押さえた指に力がこもる。官渡をいったん引き払い、袁紹を誘って決戦に持ち込む策が胸に重く去来した。砦に籠もれば兵糧が尽き、退けば民心が揺らぐ。どちらを選んでも危うい綱渡りである。それでも曹操は、ためらいを断ち切るように筆を走らせた。


 『官渡に留まれば、兵は尽き、民も揺らぐ。いったん退き、敵を誘って決すべき時を得たい。』


 書き上げた文は、許にいる荀彧のもとへ密かに送られた。この難局において、曹操が心底頼みとするのは、政と戦の両面で長く支えてきた荀彧ただ一人であった。


 数日後、返書が届いた。封を割り書簡を広げると、端正な筆跡が整然と並んでいた。その筆には荀彧の透徹した眼差しと揺るぎない意志が宿っている。


 『ただいま、わが兵糧は乏しいとは申しましても、楚と漢が滎陽けいよう成皋せいこうのあたりで睨み合っていた頃に比べれば、なお余裕がございます。』


 楚漢戦争の滎陽・成皋。それは、かつて劉邦と項羽が中原をめぐって対峙した地である。双方とも退くに退けず、睨み合いは長期に及んだ。先に退いたほうが敗れる、それが楚漢の戦いの教訓であった。


 『そのとき、劉邦と項羽はいずれも先に退こうとはいたしませんでした。退いた側は屈服を余儀なくされるからです。』


 筆致は次第に力を帯び、文面からは烈々たる気迫がにじみ出ている。


 『公はいま、敵の十分の一の兵力をもって境を守り、その喉元を締めつけています。袁紹は半年に及ぶ対陣の間、進むことも退くこともできずにおります。いま退けば、楚漢の戦で劉邦が先に滎陽を退くようなもの。敗れはせずとも、勝機は永遠に失われましょう。』


 曹操は書簡を読み進めながら、夜に筆を執ったときの心の揺らぎを思い返した。撤退は敗北ではないと自らに言い聞かせていた。しかし荀彧のこの一文は、その迷いを鋭く貫く。


 『いま、敵の内情はすでに明らかとなり、勢いは尽きかけています。必ず変事が起こります。その時を逃さず、策をもって臨めば、勝ちは曹公のものとなりましょう。いまは退く時ではなく、奇策を用いる時機です。敵を逃がしてはなりません。』


 書簡には荀彧の姿がありありと浮かび上がるようだった。筆致は整然としており、一歩も退かぬ強い意志が文面から立ちのぼっている。


 曹操は書を几の上に置き、しばらく黙した。油灯の炎がゆらめき、幕内を淡く照らしている。荀彧の言葉は理屈だけではない。過去の戦を読み解き、いまの戦局を見通した確信の筆である。


 この荀彧という稀なる参謀を得たからこそ、自分はここまで戦い抜いてこられた。曹操はその事実を胸の底に深く噛みしめ、ゆっくりと目を閉じた。撤退の策は胸中から消えていく。いま必要なのは退くことではなく、敵の変事を待ち、その一機を逃さぬ目と胆であると、心の内で明確に結論づけた。


 やがて曹操は立ち上がった。幕を押し開けると、夜風がひやりと頬を撫でた。砦の向こう、闇の地平には無数の袁紹軍の火が点々と並んでいる。その光景を見つめながら、曹操は胸の内に再び戦の炎を燃やした。


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