20 烏巣
伝令が駆け込んだのは、曇天の昼であった。袁紹軍の輜重隊がまもなく黄河を越え、本陣に至るとの急報である。旗を掲げて進むのは袁紹配下の韓猛。手勢は精鋭と伝わるが、敵を軽んじており、行軍は堂々として隙があると伝令は息を荒らせた。幕内に一瞬、ざわめきが走った。
荀攸は筆を置き、几の上の地図に目を落とした。韓猛の進路、渡河の時機、手勢の性質。数刻先の景色が像を結ぶ。戦況の逼迫、敵の補給線、渡し場の地形。それらがひとつの答えへと収束していく。曹操が視線を向けた。荀攸は姿勢を正し、簡潔に述べる。
「この運糧を絶てば、敵の勢いは鈍りましょう。韓猛は鋭き兵を率いてはおりますが、驕りがあり、警戒も浅い。先を打てば破ること叶いましょう」
言葉は淡々としているが、推論の筋は明快であった。曹操はうなずき、次の策を問う眼を向ける。荀攸は一歩進み、間を置かずに答えた。
「徐公明殿をお用いください」
その名が告げられると、幕内が静まり返った。荀攸の進言は的を射ていた。徐晃はこれまで幾度も戦場で機略と勇を示し、諸将の信を得ている。伏兵と急襲において彼に勝る者はいない。曹操は深くうなずき、ためらいなく命を下した。徐晃と史渙に兵を与え、黄河の渡しでこれを討つべしと。
夜が来た。徐晃の隊は闇の中に身を潜め、火矢と油壺を支度する。対岸では袁紹軍の列が鬨の声を上げながら軍を進めていた。韓猛は勝ち戦の如く、列を乱さずに渡しへと向かう。その刹那、伏兵が一斉に飛び出した。火矢が放たれ、油を浴びた車列が爆ぜるように燃え上がる。
渡し場は一瞬にして地獄と化した。驕慢は油断を生み、油断は敗走を招いた。韓猛の隊は崩れ、積まれた穀は黒煙を上げて燃え落ちた。
韓猛の輜重隊を討ち破り、兵糧を焼いたとの報が砦へ届くと、兵たちの顔に久しくなかった光が宿った。疲弊しきった陣内に、小さな勝利の熱が走る。荀攸はその報を聞きながらうなずいた。声を上げることも、喜びを表すこともない。この勝利は盤面の一角を崩したに過ぎぬ。だが、その一角が全体を動かす引き金になることを、誰よりも早く読み取っていたのは荀攸であった。
小さな勝利の余韻が砦を包むなか、戦の行方を決する新たな一石が投じられようとしていた。
夜は更け、砦の外は月に淡く照らされていた。その空気を裂くように、一騎の影が黄河の岸を駆け抜け、官渡の砦へと迫る。許攸である。袁紹の幕下にあって謀臣の一人と数えられた男が、曹操の陣へと走り込んできたのだ。
許攸は、もとより袁紹に軽装兵をもって許都を急襲する策を進言していたが、退けられていた。さらに家族が罪に問われ、審配に捕らえられるに及んで、主家への怨みは決定的となった。行き場を失った彼は、夜陰に乗じて曹操のもとへ走ったのである。
その報はただちに本陣へ届けられた。幕内にざわめきが走る。許攸の名を知らぬ者はいない。曹操は入幕を許し、使者を迎え入れる。許攸は長旅の疲れをにじませながらも、その眼には冴えがあった。幕の中に進み出ると、ためらいなく口を開く。
「袁紹は兵糧を烏巣に集め、淳于瓊に守らせております。兵は多いが弛んでおり、守備も粗雑です。夜襲をかければ、一挙に破ることができましょう」
その言葉に、幕内が揺れた。烏巣は袁紹軍の兵站の要である。その急襲は、戦の根幹を突く策であった。しかし同時に、あまりに唐突でもあった。諸将の間からすぐに疑念の声が上がる。
「降将の舌を、どう信ずる」
「敵の謀であれば、我らは深手を負うことになる」
「たとえ真実であっても、寡兵で敵の糧道を突くは危うい」
慎重論が重なり、油灯の揺らめきが沈んだ顔を照らした。誰もが状況の切迫を理解していたが、踏み出す一歩に迷いがあった。曹操は几の上に地図を広げ、黙したまま視線を落とす。黄河、官渡、烏巣の位置が灯火に浮かび上がっている。沈黙を破って、荀攸が進み出た。
「袁紹は兵糧を烏巣に集め、前線を厚く、後を薄くしています。ここを衝けば、戦の根が断たれます。守りは粗く、淳于瓊に機敏さはありません。袁紹はいかに大軍を擁しても、兵糧を失えば崩れます」
荀攸は黄河から官渡、烏巣へと続く戦局の要を簡潔に示した。
「籠って耐えれば兵は尽き、士気も絶えましょう。退けば敗を呼びます。打つべきはここです」
声に揺るぎはない。その言葉に、賈詡が口の端を上げて続く。
「いやはや、袁紹殿も随分と大胆な采配ですな。兵糧を一処に積み上げて、守りは薄いまま。あれでは、どうぞ突いてくださいと言っているようなものです。裏を衝けば、一撃で盤はひっくり返りましょうぞ」
二人の見立ては明快であり、戦局の流れを見通していた。幕内の様相が変わる。慎重論を唱えていた将たちも、次第に顔つきを引き締めていった。
曹操の目に鋭さが宿る。
「ここで決する」
その一言で、幕内が一気に引き締まった。諸将は一斉に姿勢を正し、決戦の気配がその場に満ちる。曹操はただちに采配を下した。守備は曹洪と荀攸に任せ、自ら歩騎を率いて出撃する。標的は烏巣。
軍議が終わると、砦の内はただちに慌ただしさを帯びた。命を受けた各隊が動き出し、兵の列が夜陰に紛れる。声を荒げる者は誰ひとりいない。鬨も鼓もなく、ただ命令の伝達と装備の確認が小声で交わされるのみである。矢筒を背負い、鎧の留め具を確かめる音がひそやかに重なった。馬は鼻を鳴らし、野を震わせる。松明は掲げず、わずかな灯のもとで隊列が組まれていく。
荀攸は砦の一角に立ち、出撃の準備を見届けていた。彼は戦場に赴くのではなく、曹洪らと共に官渡の守備を担う。出撃する曹操に対し、荀攸は短く頭を下げただけで、余計な言葉はなかった。曹操もまた視線を返すのみである。互いにその役割を理解していた。
やがて、夜の中を出撃の列が動き始めた。先頭には軽騎兵が立ち、歩兵がそれに続く。馬の蹄が土を踏みしめ、わずかな振動が地を伝う。人と馬とが一体となって進むその影は、闇に溶け込むようであった。
夜気は張りつめ、兵たちの呼吸も浅くなる。誰も声を発せず、ただ前方の闇を見据えて歩を進める。彼らの先には、戦の趨勢を決する一撃が待っている。砦の灯は次第に遠ざかり、行軍の列は黄河沿いをたどり、闇の野へと消えていった。




