01 稱疾
『臣、鍾繇は、病を理由に官を辞し、都を去ることを願い出ます。』
夜は更けて、洛陽の都を包む闇は深い。人々の眠りは深く、遠く外郭の方で犬の吠える声がひときわ鋭く響いた。鍾繇の室には、小さな油灯がひとつ、夜気に抗うように淡い光を放っている。几に広げられた書簡の上、墨の香が満ち、筆の先が札を撫でる音が静かに続いていた。
鍾繇、字を元常は、筆を持つ手を寸分も揺らさず、一字一字を刻むように表文をしたためていた。筆致は端正でありながら、どこか冷ややかで、長年の宮仕えで培われた几帳面さと、今夜に限っては深い決意とが、墨跡の中に共存しているようであった。
都に生きる者たちにとって、この季節はまだ穏やかな春先である。だが、この夜の鍾繇の胸中には、春の柔らかさよりも、嵐の前の冷たい空気が満ちていた。この一巻が、ただの辞職の願いではないことを、彼自身が最もよく知っている。ひとたび朝廷に差し出されれば、それは退官、すなわち宮中という渦から一歩身を引くことを意味した。それは官人にとって、昇進の道を自ら閉ざすも同然の行為である。
鍾繇は筆を止めた。静まり返った室に、油灯の火がかすかに揺れ、札の墨跡が黒々と浮かび上がる。
思えば、この数年で洛陽の空気は大きく変わった。宦官たちの勢力は宮廷を包み、三公の威光は日ごとにかすんでゆく。廷臣たちの顔にはいつの間にか笑みが消え、ささやき声ばかりが堂を満たしている。正義を語る言葉は、もはや賞賛ではなく、死への導きとなりつつあった。
洛陽の春は、かつて都人の誇りであった。百官の冠が朝日に光り、朱塗りの宮殿の甍は青空に映えて、皇都は栄華の相を湛えていた。だが、その面影は今や薄れ、街路に吹く風の中にさえ、どこか澱んだものが混じっている。
いまは退くべき時。
洛陽の空気はもはや限界に近い。やがてこの都は、声を上げた者から順に崩れていくだろう。ならば、嵐が吹き荒れる前に一歩退き、次の時を待つべきだ。それが彼の冷徹な判断である。
鍾繇は目を開けた。宮廷の格子窓の外には、春の空が広がっている。だが、その青さの奥に、乱世の影が確かに潜んでいた。そして彼は、その影にいち早く気づいた数少ない人間の一人であった。
翌朝。宮門の前には、朝議を待つ百官が続々と集まり、広い石床の上に列をなしていた。冠の飾りが風に揺れ、衣の裾が擦れる音が重なって、静かなざわめきが一帯を満たしている。その中に立つ鍾繇の姿も、いつもと変わらず整っていた。顔色に陰りはなく、歩みも落ち着いている。だが、胸の内ではすでに、一つの決断が定まっていた。
やがて、銅鑼の音が鳴り響いた。厚い宮門が軋みを上げて開かれ、廷臣たちは次々と中へ入っていく。
鍾繇もその列に加わり、淡々と宮廷の奥へと進んだ。高殿の軒には朝日が差し込み、朱塗りの柱を黄金色に染めている。かつては威厳と清廉を象徴したその光景も、今ではどこか薄い膜に覆われたように感じられた。朝議の場に集う人々の表情は硬く、言葉少なである。
三公の坐の脇には、宦官たちが並び立っていた。彼らは一見、何気なく控えているようで、実際には廷臣たちの一挙手一投足を鋭く見ている。まるで蜘蛛が巣の振動を感知するように、わずかな異変も見逃さぬ目であった。廷臣たちはその視線を避けるように、互いに目を合わせず、ただ儀礼的に進み出ては拝礼を行う。その空気は重く、朝の冷気にも似て肌にしみた。
鍾繇は、定められた作法に従い、静かに進み出る。廷中の視線が一斉に彼に集まった。宦官の一人がわずかに眉をひそめ、三公の席からは沈黙が流れる。鍾繇は一礼し、懐から表文を取り出して差し出した。その動作は、まるで書を奉ずるかのように端正で、淀みがない。封を施された巻が宦官の手に渡り、さらに上へと送られる。その一連の動きの間、鍾繇の顔には一切の感情が浮かばなかった。
廷臣たちの間に、さざ波のようなざわめきが広がる。声を上げる者はいないが、それぞれの胸中に去来する思いは一様ではない。ある者は惜しみ、ある者は羨み、またある者は疑いの目を向ける。だが、誰一人として、それを公にすることはなかった。この宮廷では、感情を声に出すこと自体が危うい時代だったのだ。
三公の一人が、静かに表文を開き、目を通した。やがて視線を鍾繇に戻すと、短くうなずき、すべてを宦官に託した。形式上の手続きは、それで終わる。鍾繇は深く一礼すると、何事もなかったかのように廷中を去った。その背を見送る人々の眼差しには、さまざまな色が交錯していたが、彼は一度も振り返らなかった。
洛陽の街を朝日が照らしていた。朱塗りの城門は陽光を受けて輝いている。だが、その光景にはどこか寂しさがあった。人々の往来こそいつも通りだが、かつて栄華を誇った都の息吹は、今や薄い霧の向こうに遠ざかってしまったかのようだった。
鍾繇の車が、静かに南の街門を抜けていく。車輪が敷石を踏みしめる音が、規則正しく響いた。従者は少なく、荷も最小限にとどめている。見送る者の姿はない。それは、鍾繇が自ら選んだ静かな退き方であった。
車上から見える洛陽の街並みは、まだ靄の中に沈んでいる。しかしその奥底には、確かに変わり始めた時代の波が潜んでいた。宦官と清流派の対立は深まり、地方では群雄が蜂起し、天子の威光は日に日に薄れていく。都は今、崩れゆく大河の中洲のようなものだ。表面は静かでも、その下では土砂が音もなく流れ去っている。それを見抜ける者は、決して多くはない。
鍾繇は黙して景色を眺めた。彼の眼差しには哀惜も昂ぶりもない。ただ冷ややかに、しかし確かに、都という舞台の行く末を見据える光があった。
馬車はやがて、城壁を遠く背にした。洛陽を囲む丘陵の稜線がかすみ、鳥の声が谷を渡って響く。春は確かに訪れている。しかしこの春が、どれほど短いものであるかを、鍾繇は誰よりもよく知っている。
彼は胸の内で、ひとつの思いを深く刻んだ。乱世の扉は、すでに静かに開かれている。都を去るこの一歩は、その渦のただ中へと自らを投じるための、最初の歩みにほかならない。
時代はすでに動き始めていた。それは風のように静かで、されど大河の流れにも似て抗いがたく、すべての者を飲み込んでいく。鍾繇は、その流れをいち早く読み取り、自らの立つべき岸辺を見極めたのである。




