NO.9 客人
リヴィアが車から降りると、冷たい夜気が頬に触れた。
目の前には広く美しいベルティーニ邸が静かに待ち構えていた。
門から玄関まで続く道も、刈り揃えられた植え込みも、窓から漏れる灯りも、すべてがよく手入れされている。
ヴァレンティーノの重厚な屋敷とはまた違う美しさに息を呑んだ。
ダンテはいつの間にか車を降り、少し前に立っている。
深い紺の瞳が、夜の中で妖しく光っていた。
「ついて来い」
リヴィアは黙って頷き、その背を追う。
足元の石畳は夜露を含んでわずかに滑りやすかった。
玄関扉が開くと、広いホールがあった。
磨かれた床。
落ち着いた照明。
控えている使用人たちの所作にも、ほとんど無駄がない。
ただ、ダンテが通る道を静かに開けていく。
リヴィアを見るものは誰もいなかった。
いや、正確には見ていた。
だが誰もその瞳に感情を写していないのだ。
その温度のなさが、自分が異物なのだと教えてくる。
ダンテはホールの中央で足を止めた。
振り返りもせず、近くに控えていた女の使用人へ言う。
「彼女を部屋へ案内しろ」
「客人として扱え」
少し置いて続ける。
「ただし、好きに歩き回らせるな」
「かしこまりました」
女は深く一礼する。
リヴィアはその横顔を見た。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
表情は柔らかいが、感情は読めない。
ダンテはようやくこちらに目を向ける。
「疲れているだろう」
「今夜は休め」
気遣われているようだが、彼の感情は見えなかった。
リヴィアは小さく頷く。
「……分かりました」
ダンテはそれ以上何も言わず、背を向ける。
そのまま別の廊下へ消えていった。
残されたリヴィアは、胸の奥に妙なざらつきを抱えたまま、女の使用人のあとをついていく。
廊下は長かった。
足音だけが静かに響く。
壁に掛けられた絵画や花器は、どれも美しく整えられてる。
だが、この屋敷は人が生きている気配が薄いように感じられた。
「こちらでございます」
案内された部屋は、二階の奥にあった。
使用人が扉を開く。
リヴィアは一歩、足を踏み入れる。
広い部屋だった。
大きな寝台。
柔らかな灯り。
窓際には小さなテーブルと椅子。
衣装棚もあり、洗面台まで整えられている。
必要なものは、ひと通り揃っていた。
使用人が後ろから静かに口を開く。
「今夜は、こちらでお休みください」
リヴィアは振り返る。
「何か必要なものがございましたら、お申しつけくださいませ」
「……着替えは?」
使用人は少しも困った様子を見せずに答えた。
「ひとまず簡単なものをご用意しております」
「お荷物は後日、ヴァレンティーノ様から届けられる手筈となっておりますので」
「そう」
短く返して、もう一度部屋を見渡した。
使用人はそれ以上何も言わず、一礼する。
「では、失礼いたします」
扉が閉まる。
部屋の中に、静けさだけが残った。
リヴィアはしばらくその場に立ったまま、動かなかった。
しばらくして、窓辺まで歩いていく。
カーテンを少しだけ引くと、暗い庭が見えた。
整えられた木々。
遠くに見える控えめな灯り。
静かすぎる夜。
ここにルカはいない。
そのことを、ようやくはっきりと実感する。
彼の過去を思うと胸が痛んだ。
あの無表情な仮面の下で、一体どれほどの感情を押し込めていたのか。
私に何ができるのか。
考えはまとまらない。
ただ、一刻もはやく亡霊を潰すことだけが、彼を救う道なのでは無いだろうか。
決意を胸に、静かに息を吐いた、その時だった。
扉の向こうで、控えめなノックの音がする。
「……どうぞ」
声をかけると、先ほどの女の使用人が静かに入ってきた。
「旦那様がお呼びです」
リヴィアはわずかに眉を寄せる。
「……今から?」
「はい」
それだけだった。
理由も、内容も言わない。
少し迷ったが、断るという選択肢は無いのだろう。
「分かりました」
リヴィアは窓辺から離れ、使用人のあとについて部屋を出た。
夜の廊下は、さっきよりも静かだった。
使用人は何も話さない。
ただ一定の速さで廊下を進み、途中で一つの扉の前に立った。
「こちらです」
ノックもなく扉が開かれる。
通されたのは、小さな食事部屋だった。
会談に使われた個室よりはずっと狭い。
丸いテーブルの上には、すでに食事が用意されていた。
温かいスープ。
薄く切られた肉料理。
パン。
それから、小さな皿がいくつか。
ダンテはテーブルの奥に座っていた。
さっきの会談の時よりわずかに力が抜けて見える。
リヴィアが入ると、彼は視線だけを上げた。
「座れよ」
リヴィアは一瞬だけ立ち止まる。
けれど、何も言わずに椅子を引いた。
向かい合って座る。
使用人が静かに下がり、扉が閉まった。
リヴィアは目の前の料理を見た。
会談の前後で何かを口にする余裕はなかった。
空腹を感じる余裕すらなかったが、こうして目の前に置かれると、胃が遅れてその事実を思い出したようだった。
ダンテが淡々と言う。
「さっきは何も食っていないだろう」
「客を空腹のまま部屋に押し込む趣味はない」
その言葉に、リヴィアはゆっくり顔を上げた。
会談の席では、まともに食事などしていない。
それを見ていたのか。
「……ありがとうございます」
少しだけ間を置いて、そう返す。
ダンテは肩をすくめ、ただ短く「気にするな」と言って、スープに口をつけた。
リヴィアも、それ以上考えるのをやめて、目の前の料理へ手を伸ばした。
温かい。
その当たり前のことに、少しだけ肩の力が抜ける。
一口、二口と運ぶうちに、ようやく自分がどれだけ張りつめていたのか分かった。
その様子を見ながら、ダンテがふと口を開く。
「疑わないのか」
リヴィアはスプーンを止めた。
「何をですか」
「食事だ」
深い紺の瞳が、静かにこちらを見る。
「敵の屋敷で出されたものを、ずいぶん素直に口に入れるな」
からかっているようにも聞こえるし、本気で測っているようにも聞こえる。
リヴィアはスプーンを置かず、そのまま答えた。
「さすがに、先ほど協力したばかりでそれはないでしょう」
「そんなにすぐ毒を盛るなら、私を担保にした意味がありませんし」
ほんの一瞬、ダンテの目が細くなる。
それから、わずかに口元だけで笑った。
「そうだな」
「なら、せいぜい食えるうちに食っておけ」
言い方は不穏だった。
けれど、それをわざわざ否定するのも違う気がして、リヴィアは小さく息をついただけで何も返さなかった。
しばらく、食器の触れ合う音だけが続く。
ダンテと向かい合って食事をしている。
その事実そのものが、まだどこか現実味を持たなかった。
やがて、ダンテが再び口を開く。
「帰りたいか?」
リヴィアは顔を上げる。
「泣いて帰りたいと言えば、返してもらえるんですか」
少しだけ挑むように聞く。
「まさか」
「泣くような女なら、最初から連れてこない」
「それに」
ダンテは測るようにこちらを見つめてから続ける。
「いくら担保だからといって、使えない奴はいらない」
「お前は役に立ちそうだから“交渉の対価”になれたんだ」
リヴィアは一瞬だけ言葉を失う。
物のような言い方に、少しムッとしたが、自分の振る舞い一つで、交渉が決裂する可能性もあったのだ。
そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
ダンテは何でもない顔でグラスを持ち上げた。
「客として扱えとは言ったが」
「甘やかすつもりはない」
リヴィアは小さく息を吐く。
「分かっています」
「そうか」
ダンテはまた短く返し、それ以上は何も言わなかった。
敵のボス。
危険な男。
放つ言葉は刺々しいし、怖いのは変わらない。
だが、こうして食事を用意してくれた事を思うと、ただ冷たい相手ではないのかもしれない。
食事が終わる頃には、張りつめていた肩の力も少しだけ落ちていた。
空腹だったのだと、今さらのように分かる。
温かいものが胃に落ちただけで、思考の輪郭が少しだけはっきりした。
ダンテは最後まで多くを語らなかった。
テーブルの上の皿が下げられる。
使用人が静かに出入りし、最後の一人が扉を閉めると、部屋の中にはまた二人だけが残った。
リヴィアは膝の上に置いていた手をそっと重ねる。
「……ごちそうさまでした」
ダンテは小さく顎を引いた。
「少しは顔色が戻ったな」
その言い方は相変わらずそっけない。
けれど、やはり気にかけてくれていたのだと思う。
リヴィアはほんの少しだけ口元を緩めた。
「ベルティーニの役に立たねばいけませんから」
言い返すと、ダンテはわずかに目を細める。
「よく分かっている」
「私も事件を早く解決したいですし」
そうしてダンテが席を立つ。
リヴィアも後に続こうとして立ち上がる。
瞬間、身体がわずかによろけた。
温かな食事をして、気が抜けたせいかもしれない。
そのすぐ側で、ダンテがすかさず腰に手を回す。
リヴィアは反射的に顔を上げた。
深い紺の瞳が、すぐ近くにあった。
「……失礼しました」
思わず目をそらして言うと、ダンテはすぐに手を離した。
「そんな軽い体では、体力がもたないぞ?」
からかうような声。
少しだけ恥ずかしくなってリヴィアは強めの口調で返す。
「貴方には関係ありません」
ダンテは鼻で笑う。
「そうかもな」
それ以上、何も言わなかった。
扉の外で控えていた使用人が呼ばれ、リヴィアの部屋までの案内を指示されている。
別れる前、ダンテは最後に一言だけ落とした。
「必要なものがあるなら言え」
「可能であれば用意する」
リヴィアは少しだけ口元を緩めて言った。
「ありがとうございます」
ダンテはもうこちらを見ていなかった。
***
部屋に戻り一人になった瞬間、今日の出来事が一斉に押し寄せてきた。
リヴィアはゆっくりと寝台の端に腰を下ろす。
そして、広い部屋に視線を巡らせた。
数時間前までは想像もしていなかった展開。
ゲームでもこんなルートは無い。
もはや、自分の記憶を頼りに生き延びることは不可能に近い。
こうしてダンテ・ベルティーニと関わることも、本来ならば避けたい展開だった。
……だが。
人々は、この世界で確実に生きている。
ルカも。
彼の話を聞いて、放っておけるほど薄情では無かった。
この抗争を止めることが生存率に直結するのは確かだ。
しかし、彼のことを救いたいとも本気で思っている。
そして、今夜レストランの外で交わした短い言葉を思い出す。
——大丈夫。
――必ず……。
リヴィアは小さく指先を握る。
あの時、ルカは何を思っていたのだろう。
自分が実質ベルティーニの人質になるとういことを、どういう気持ちで見ていたのか。
彼自身を責めたりしていないだろうか。
今日までずっと後ろにいた気配が、今はない。
それだけのことが、思っていたより胸に重くのしかかる。
ルカの事が心配だ。
彼を早く安心させてあげたい。
ふと、ノアにキスをした後の事を思い出した。
――俺は嫌です。
そうまっすぐ言って強く掴まれた腕。
リヴィアは同じ場所に手を重ねる。
ルカを好きになったら自分は死に近づく。
距離を見誤れば終わる。
それでも、彼のことを考えずには居られなかった。
一人の部屋が、どうしょうもなく寂しく感じた。




