NO.10 届けられたもの
目を開けた瞬間、見慣れない天井があった。
リヴィアの寝室でもない。
一瞬、ここがどこなのか分からなくなる。
けれど、数秒もしないうちに思い出した。
ベルティーニの屋敷。
昨日の会談のこと。
リヴィアはゆっくりと息を吐き、上体を起こした。
寝台は広く、柔らかい。
部屋は静かだった。
リヴィアはベットから足を下ろす。
ひやりとした床の感触が、少しだけ頭をはっきりさせた。
窓辺に立と外には、昨日の夜とは違う景色広がっていた。
整えられた木々。
濡れた芝。
朝の光を受けて淡く光る石畳。
美しい。
それなのに、やはり落ち着かない。
ふと、昨夜の食事の席を思い出す。
温かいスープ。
ダンテの深い紺の瞳。
そして、そっけない言葉の端々に残っていた優しさ。
控えめなノックの音が響く。
リヴィアは振り返った。
「……どうぞ」
扉が開き、昨日と同じ女の使用人が入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
短く返すと、女は静かに一礼した。
「朝食のご用意が整っております」
そのまま淡々と続ける。
「本日、お荷物が届く予定でございます」
リヴィアはわずかに目を瞬かせた。
「荷物……」
「はい。ヴァレンティーノ様より」
色々あって忘れていた。
真っ先にルカの顔が浮かぶ。
「誰が?」
思わず聞いていた。
女の使用人は、少しだけ間を置いて答える。
「護衛の方が直接お持ちになると伺っております」
護衛。
それだけで、誰のことか分かった。
リヴィアはすぐには返事ができなかった。
ルカに会える。
そう思っただけで、昨夜から胸の奥に沈んでいたものが、ほんの少しだけ浮き上がる。
「……そう」
ようやく、それだけ返す。
女は感情を見せないまま、続けた。
「朝食は小食堂にご用意しております」
「お支度が整いましたらご案内いたします」
「分かったわ」
女は再び一礼し、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
リヴィアはその場に立ったまま、小さく息を吐いた。
たった十数時間。
彼が側にいないだけで、自分の気持ちが落ちるなんて。
何を話せばいいのか。
どんな顔をすればいいのか。
リヴィアはそっと指先を握る。
昨日の話を知ったあとで、ルカを前と同じように見ることなどできるはずがなかった。
彼もまた、亡霊の中にいた。
どんな扱いを受けていたのか。
今の無表情の奥に、どれだけのものを押し込めているのか。
考えても答えは出ない。
けれど、会えば少しは分かる気がした。
いや、分かりたいと思ってしまっていた。
着替えを済ませ、小食堂へ向かう。
部屋に入ると、すでにダンテがいた。
Tシャツにジャケットと、昨夜よりも少し軽い装い。
リヴィアが入ると、ダンテはカップを置いてこちらを見た。
「眠れたか」
何気ない問いだった。
リヴィアは少しだけ迷ってから答える。
「……それなりに」
「そうか」
それ以上は追及しない。
リヴィアが席につくと、使用人が朝食を運んできた。
温かいパンと卵料理、果物、それに香りのいい紅茶。
しばらくは食器の音だけが続く。
やがて、ダンテが何でもないように言った。
「今日、お前の荷物が届く」
リヴィアはカップに伸ばしかけた手を止めた。
「伺いました」
「例の護衛が来るらしい」
その声音は平坦だった。
けれど、どこかこちらの反応を見ている。
リヴィアは努めて自然に答えた。
「……そうですか」
ダンテはわずかに目を細める。
「そんな顔もするんだな」
リヴィアは顔を上げた。
「どんな顔ですか」
「少し安心したように見えた」
その言葉に、胸の奥が小さくざわつく。
そんなつもりはなかった。
少なくとも、表には出していないと思っていた。
「気のせいでは?」
「そうかもな」
ダンテはあっさりと受け流す。
だが、すぐに続けた。
「会わせはする」
「だが、長話はさせん」
リヴィアは眉を寄せ、無言でダンテを見る。
彼はパンをちぎりながら、当然のことのように言った。
「俺はそいつを信用していなし、お前と親しく話させる理由もない」
深い紺の瞳が、静かにこちらを捉える。
リヴィアは何も言い返せなかった。
亡霊の生き残り。
かつてベルティーニとヴァレンティーノが割れた原因。
ダンテにとって、ルカは今も“警戒すべき相手”なのだ。
分かっている。
理屈では。
けれど、胸の奥に生まれた小さな反発までは消せなかった。
リヴィアはカップを持ち上げ、ぬるくなりかけた紅茶を口に含む。
「……彼は、私の護衛です」
なるべく平静を装って言う。
ダンテは小さく肩をすくめた。
「それは知っている」
「だが、それだけじゃないんだろう」
リヴィアは顔を上げる。
ダンテはそれ以上追及するでもなく、ただ淡々と食事を続けていた。
からかっているのか、本気なのか分からない。
「余計な詮索はしないでください」
少しだけ硬い声になる。
ダンテはナイフを置き、ようやくこちらを見た。
「詮索しているつもりはない」
「見れば分かることを言っただけだ」
それが余計に腹立たしい。
分かったような口をきかれるのも、それを否定しきれない自分も。
リヴィアは返す言葉を探しかけて、やめた。
ここで言い争う意味はない。
会話はそこで途切れた。
食事が終わる頃には、朝の光はすっかり高くなっていた。
使用人が食器を下げる。
ダンテは立ち上がり、袖口を整えた。
「応接室を使わせる」
「さっさと済ませろ」
それだけ言って部屋を出ていく。
リヴィアはその背を見送り、小さく息を吐いた。
彼はあくまで、ベルティーニのボスだった。
客人として丁重には扱う。
だが、ヴァレンティーノの護衛と親しく言葉を交わす時間までは与えない。
それが当たり前だと、分かっている。
分かっているのに、胸の奥が少しだけ重くなった。
***
応接室は昨日の会談に使われたレストランより、ずっと小ぢんまりとしていた。
深い色のソファに、低いテーブル。
窓からは朝の庭が見える。
リヴィアはソファに腰掛けたまま、無意識に指先を重ねる。
待っている時間がやけに長く感じられた。
廊下の向こうで、足音が止まる。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、ベルティーニ側の部下だった。
その後ろに、ルカ。
黒い上着。
整った姿勢。
いつも通り、抑揚のない表情。
けれど、その姿を目にした瞬間、リヴィアの胸の奥で何かがふっと緩んだ。
ルカは部屋に入ると、まずベルティーニの部下へ軽く一礼し、それからリヴィアへ向き直る。
「お荷物をお持ちしました」
いつも通りの声。
「ありがとう」
リヴィアも、それ以上の言葉がすぐには出てこなかった。
ルカの後ろには、使用人が荷物を運んでいる。
箱が二つと、小ぶりの鞄が一つ。
見覚えのあるものばかりだった。
「不足がないか、ご確認ください」
ルカはそう言って、テーブルの上に小さな箱を置いた。
リヴィアはそれを見下ろす。
普段使っている筆記具。
小さな香水瓶。
読みかけの本。
いつも寝る前に髪を留めるための細いゴムまで入っていた。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
自分が困らないように、必要なものを考えて詰めたのだと分かった。
リヴィアはそっと本を手に取る。
「……ちゃんと選んでくれたのね」
思わず零れた声は、思っていたより柔らかかった。
ルカの視線が一瞬だけ揺れる。
「必要だと思うものを入れました」
それだけ。
けれど、その短さがかえって彼らしかった。
リヴィアは小さく頷く。
「助かるわ」
そこで、ほんの少しだけ沈黙が落ちる。
本当は、聞きたいことがあった。
大丈夫だったのか。
昨夜、ちゃんと眠れたのか。
アルドとは何を話したのか。
貴方の過去にどんな悲しみがあったのか。
けれど、どれも口にはできない。
ここはベルティーニの屋敷で、二人きりではない。
「そちらは……」
先に口を開いたのはルカだった。
短い言葉にたくさんの意味が込められている気がする。
「問題ないわ」
リヴィアは答える。
「客人として、丁重に扱われているわ」
その言葉に、ルカの眉がほんのわずかに動いた。
「……そうですか」
もっと何か言いたそうだった。
けれど、やはり続かない。
視線だけが、リヴィアの顔を確かめるように動く。
その時だった。
「荷物は届けたんだろう」
低い声が、扉の方から落ちた。
空気が変わる。
ダンテだった。
いつからそこにいたのか分からない。
リヴィアが振り向くより早く、ルカが一礼する。
「はい」
短い返答。
ダンテは部屋の中へ数歩入り、その視線をルカに向けたまま言う。
「用が済んだなら戻れ」
そっけない。
明らかな敵意。
ルカは表情を変えない。
「まだ確認が」
「必要ない」
ダンテは静かに言い切る。
「ここはお前の持ち場じゃない」
正論だった。
ここはベルティーニの屋敷だ。
ヴァレンティーノの護衛が長く居座る理由など、どこにもない。
「随分と丁寧な護衛だな」
ダンテがわずかに口元を歪め、品定めするようにルカに視線を向けた。
「荷物を届けに来ただけにしては、名残惜しそうに見える」
リヴィアは思わず顔を上げた。
ルカの表情は崩れない。
「あなたには関係ありません」
先に口を開いたのはリヴィアだった。
ダンテがこちらを見る。
深い紺の瞳。
そこにあるのは怒りではなく、むしろ面白がるような色だった。
「そういうことにしておいてやる」
軽く受け流すように言う。
それが余計に腹立たしい。
ルカは静かに視線を伏せた。
「失礼しました」
ここで長く話すべきではない。
それを一番よく分かっているのがルカなのだ。
リヴィアは小さく息を吸う。
「……ありがとう」
短く言う。
ルカは顔を上げた。
目が合う。
ほんの一瞬だけだった。
けれど、その中に昨日から言えなかったものが全部詰まっているように思えた。
「では」
ルカが一礼する。
それが終わりの合図みたいで、リヴィアの胸がきゅっと狭くなる。
それでも、引き止めるわけにはいかなかった。
「ええ」
それしか言えない。
ルカはそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その音が、やけに大きく響いた。
リヴィアはしばらく、その扉を見つめたまま動けなかった。
たった今までそこにいた気配が、一瞬で消えてしまう。
部屋の中には、荷物と、静けさと、ダンテだけが残っていた。
「忠犬だな」
不意に、ダンテが言った。
リヴィアはゆっくりと振り返る。
彼は窓際に寄り、軽く壁にもたれていた。
「……そういう言い方はやめてください」
リヴィアは小さく眉を寄せる。
ダンテは肩をすくめた。
「事実だろう」
「違います」
思ったより早く、言葉が出た。
ダンテがわずかに目を細める。
リヴィアは自分でも少しだけ驚きながら、言葉を継いだ。
「彼は、ただ命令されて動いているわけじゃありません」
「……そんなふうに言わないで」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わる。
ダンテはすぐには何も言わなかった。
リヴィアはそこで、はっとする。
感情的になりすぎたかもしれない。
ここはベルティーニの屋敷で、目の前の男は敵のボスだ。
けれど、今さら言い直す気にもなれなかった。
ダンテはしばらく黙っていたあと、低く言った。
「随分と信じているんだな」
責めるような口調ではない。
「私の見た彼は、誰よりも誠実です」
それが答えだった。
亡霊の過去も。
会談で知ったことも。
何もかも、まだ曖昧なままだ。
それでも、自分がここまで生きて来られたのは、ルカが後ろにいたからだ。
それだけは確かだった。
ダンテは鼻で笑うでもなく、ただ小さく息を吐いた。
「甘いな」
短い一言。
だが、そこに露骨な嘲りはなかった。
「そうかもしれません」
リヴィアも淡々と返す。
「疑ってばかりいたら、何も残りませんから」
ダンテの紺の瞳が、静かにこちらを捉える。
「……面倒な娘だ」
そう言って、わずかに口元を歪めた。
面白がっているようにも、呆れているようにも見える。
「あなたに言われたくありません」
リヴィアが返すと、ダンテはようやく小さく笑った。
「だろうな」
「まあいい」
壁から身体を離し、扉の方へ向かう。
「荷物の確認でもしておけ」
「足りないものがあれば言え」
ダンテは振り返らない。
そのまま片手を軽く上げて、部屋を出ていった。




