NO.11 地図室
ダンテが去った後、リヴィアは一人荷物の中身を見ていた。
読みかけの本。
使い慣れた筆記具。
小さな香水瓶。
ルカが選んで持ってきたという事実だけで胸が温かくなる。
けれど同時に、こんな事をしていても意味がないと思った。
私は今、ベルティーニの屋敷にいる。
客人として。
そして、担保として。
窓の外へ視線を向ける。
朝の光はもう高く、整えられた庭を静かに照らしていた。
リヴィアはゆっくりと息を吐く。
——守られているだけでは、意味がない。
会談の席で、自分は確かに口にしたのだ。
亡霊とカタをつけてもらわなければ困る、と。
なら、自分が動かないわけにはいかなかった。
***
ベルティーニの屋敷の廊下は、昼になっても静かだった。
リヴィアは一人、長い廊下を歩いていた。
向かう先は、ダンテの書斎。
先ほど使用人に行き先を尋ねた時、相手はほんの少しだけ目を瞬かせた。
客人の娘が、自分から当主を訪ねるとは思っていなかったのだろう。
それでも止められはしなかった。
重たい扉の前で、足を止める。
呼吸を一つ、整えた。
リヴィアは扉をノックする。
「入れ」
低い声が、間を置かずに返ってきた。
扉を開ける。
中は広かった。
壁一面の書棚。
重厚な机。
窓辺に置かれた長椅子。
ベルティーニの屋敷らしく、必要なものだけを美しく揃えた部屋だった。
ダンテは机に向かったまま、書類に目を落としていた。
リヴィアが数歩中へ入ると、ようやく視線を上げる。
深い紺の瞳。
こちらを見ても驚いたような顔はしない。
ただ、ほんのわずかに目を細めた。
「どうした」
落ち着いた声。
そのまま続ける。
「客人は部屋で大人しくしているものかと思っていた」
皮肉とも取れる言い方だった。
けれど、露骨ではない。
リヴィアはまっすぐダンテを見る。
「私は置物になるつもりはありません」
彼の眉が、わずかに動く。
「ベルティーニ側で掴んでいる情報を見せてください」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
ダンテはすぐには答えない。
数秒の沈黙のあと、椅子の背にもたれ、口元をわずかに歪めた。
「昨日の今日で、ずいぶん働く気になったものだな」
「昨日まで何も知らなかっただけです」
リヴィアは返す。
「知ってしまった以上、何もしないままではいられません」
ダンテはその言葉を黙って聞いていた。
視線は逸れない。
値踏みするようでいて、ただ見下すだけの目でもない。
やがて、小さく息を吐く。
「……いいだろう」
机の上に積まれていた書類の束から、いくつかを抜き出す。
それを無造作に机の端へ置いた。
「働くと言うなら見てみろ」
リヴィアは一歩近づき、その書類に目を落とした。
失踪者のリストだった。
名前、年齢、顔写真、所属、最後の目撃情報。
簡単な家族構成。
そして、聞き込みの記録。
思っていたより、量が多い。
「……ここまで調べていたのね」
思わず零すと、ダンテは淡々と答えた。
「お前が思っているほど、ベルティーニはポンコツじゃないさ」
リヴィアは視線だけを静かに返し、資料を手に取る。
一枚、また一枚。
年齢も、失踪場所も、職業も違う。
だが、どの人間もノアの言っていたように目立たない者たちだった。
消えたところで騒ぎになりにくいような。
リヴィアは眉を寄せる。
身寄りのない者が多い。
だが、ある一枚で、手が止まった。
家族構成の欄。
そこには小さく「母あり」と書かれている。
さらに資料をめくると、兄や妹がある者もいた。
「……この人たち」
リヴィアは小さく呟く。
「家族がいるのね」
ダンテが机の端に寄りかかるようにして答えた。
「遠方に親族がいる者はいる」
「だが、こちらで当たったのは居住地周辺までだ」
その答えに、リヴィアはもう一度資料へ目を落とす。
遠くに家族がいる。
疎遠ではあるけれど、完全に切れているわけではない。
指先が、資料の文字をなぞる。
聞き取り記録。
仲間内や職場では「急に来なくなった」「連絡が取れなくなった」とある。
そこまでは、失踪の記録として自然だった。
けれど、資料の端で視線が止まる。
端に小さく追記された聞き取りの断片。
母は死亡したと認識。記憶曖昧。情報源不明。噂話の可能性。
リヴィアは目を細める。
死亡したと認識。
そこだけが、妙に引っかかった。
「……待って」
気づけば、声に出ていた。
ダンテの視線が上がる。
「どうした」
リヴィアはその一枚から目を離さないまま、ゆっくりと口を開いた。
「この母親……どうして息子が“死んだ”と思っているの?」
ダンテの視線が、リヴィアの手元へ落ちる。
「それか」
低い声だった。
彼は机の端に軽く寄りかかるようにして、淡々と続ける。
「失踪した男の母親だ。高齢でな。記憶が曖昧らしい」
「誰に聞いたのかもはっきりしない。ただ、息子は死んだと思い込んでいる」
リヴィアは顔を上げた。
「思い込み?」
「ああ」
ダンテは短く頷いた。
「男の死体は出ていない」
「こちらでは、風の噂でも拾ったんだろうと処理した」
「年を取れば、記憶なんていくらでも混ざる」
リヴィアはもう一度、その紙へ目を落とす。
何故かは分からないが、妙に引っかかる。
「遺体が無いのに何故死んだと簡単に信じたのかしら」
「母親だったら、信じられず捜索願でも出しそうなものだけど」
部屋が静かになる。
ダンテはすぐには答えなかった。
数秒、考えるように目を細める。
それから、低く言った。
「……確かに」
「他のご家族は??」
「家族に聞き取りを行なったのはその男だけだ」
まだ確信ではない。
けれど、この違和感を逃がしてはいけない気がした。
「では追加で調べられないかしら」
「それと、戸籍や死亡記録、転出記録も確認したいわ」
ダンテの目が、わずかに細くなる。
「戸籍?」
「消えた人達が、記録ではどうなっているのか知りたいの」
「なんだか……嫌な予感がするのよね」
リヴィアはダンテを見た。
しばらく沈黙が続く。
やがて、ダンテがゆっくりと身体を起こす。
「……わかった」
短く言うと、机の上の呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして部下が入ってくる。
「追加で当たれ」
ダンテが命じる。
「親族への聞き取りを広げろ」
「戸籍、死亡記録、転出記録も拾えるだけ拾え」
部下は一瞬だけリヴィアに目を向けた。
その視線に意味を感じる暇もなく、すぐに頭を下げる。
「かしこまりました」
扉が閉じる。
部屋の中に、また静けさが戻る。
リヴィアは小さく息を吐いた。
自分の違和感ひとつで、ベルティーニが動いた。
それが少しだけ現実味のないことのように思える。
「お前の勘は頼りになるか?」
不意に、ダンテが言った。
リヴィアは顔を上げる。
「当たるかどうかは分かりませんが、答えに近づく可能性があるのなら、どんなことでもやるべきです」
紺の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
もし彼らが助けを求めているのなら。
かつてのルカを想い指先を握りしめる。
ダンテは何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ目を細めた。
その視線が、さっきまでとは違っていた。
興味深い人間を見るような、静かな熱のある視線。
「……面倒なことを言う女だな」
呆れたような声音だった。
リヴィアは小さく息をつく。
「あなたに言われたくありません」
それに対して、ダンテはほんのわずかに口元を上げた。
空気が少しだけ緩む。
そして。
「来い」
短い一言。
リヴィアは瞬きをした。
「どこへ?」
ダンテはそれに答えない。
机の脇を抜け、部屋の奥へ向かった。
リヴィアの場所からは見えなかったが、書斎の奥には、もう一つ扉があった。
壁と一体化した重たい扉。
ダンテはその取っ手に手をかけ、振り返りもせずに言う。
「やってみろと言った以上、少しは見せてやる」
扉が開く。
リヴィアはその向こうを見て、息を呑んだ。
そこは、もう一つの書斎だった。
けれど、先ほどの整えられた部屋とはまるで違う。
壁一面に貼られた地図。
机の上に広げられた見取り図と書類。
無数の印、線、書き込み。
港湾地区、貧民街、ベルティーニの縄張り、運搬路、失踪地点。
街そのものが、この部屋の中に切り取られていた。
リヴィアは一歩、部屋の中へ足を踏み入れる。
その瞬間だった。
――見覚えがある。
胸がどきりと鳴る。
壁際の大きな地図。
窓の位置。
中央の長机。
灯りの落ち方まで、どこか覚えていた。
ゲームだ。
ダンテルートの中盤。
彼が限られた相手にだけ見せる、本当の仕事場。
警戒心の塊みたいな男が、ようやく主人公を“対等に近い位置”へ引き上げる時に起こるイベント。
――でも、早すぎない?
リヴィアは無意識に唇を引き結んだ。
本来なら、こんな状況で入れる部屋じゃない。
好感度なんて上がる要素も無かった。
自分が使える人間だと判断されたからなのだろうか?
「どうした」
ダンテの声で、意識が現実に引き戻される。
「……いえ」
リヴィアは首を振る。
「思ったより、ずっと……本格的だったので」
嘘ではない。
全部は言っていないだけだ。
ダンテはそれ以上追及せず、部屋の中央へ進んだ。
「ここに入れる人間は少ない」
その一言に、リヴィアの胸がわずかにざわつく。
ゲームの中でも、よく似た台詞があった。
ただしもっと誇らしさと、甘さを含んでいた気がする。
今の彼の声には、そんなものは欠片もない。
実務的な、淡々とした声音だった。
ダンテは長机の上に広げられた地図へ視線を落とす。
リヴィアも、その隣へ歩み寄った。
薄暗い室内のせいか、妙に距離が近く感じる。
ダンテが指先で一つの印を叩く。
「ここが、失踪者が最後に確認された地点の一つだ」
赤い印。
「こっちは港の荷の流れ」
「こっちは薬の流通が濃い場所」
彼は地図をなぞりながら、記号の意味を説明する。
リヴィアは地図の上へ身を乗り出した。
「この辺り……」
港湾地区の端。
貧民街へ抜ける細い道。
その周辺に印が重なっている。
「失踪地点が少し偏っていますね」
「そうだ」
ダンテの声が、すぐ近くで落ちる。
次の瞬間、彼の腕がリヴィアの肩越しに伸びた。
指先が、地図の一点を指す。
「こっちもだ」
息が止まりそうになる。
近すぎる。
けれど、ダンテはそんなことを気にも留めていない。
ただ地図だけを見ている。
リヴィアは一瞬だけ呼吸を浅くしたまま、彼の指先の先を追った。
――ここ、本当なら。
ゲームの記憶がよぎる。
本来なら、ここで選択肢が出たはずだ。
ダンテが背後から手を伸ばし、主人公が振り向くか、そのまま話を聞くか。
そんな、よくある接近イベント。
でも今は、そんなものは出ない。
選択肢も、効果音も、好感度表示もない。
リヴィアはわずかに指先を握り、机の上の地図から視線を逸らさずにいた。
必死で心を落ち着ける。
あの時の胸の高鳴りを、今持ち出してる場合ではない。
「聞いているか?」
ダンテの声でリヴィアははっとする。
「いいえ」
「少し、考えていただけです」
ダンテはそれを深く追わない。
指先を地図から離し、今度は別の資料を机の上に広げた。
「消えた人間の生活圏と、荷の流れを重ねたものだ」
リヴィアは資料へ目を落とす。
たしかに、完全に一致はしない。
けれど、いくつかの線が妙に重なる場所がある。
気を取り直してリヴィアは言う。
「……攫われた地点、生活圏からすこしはずれています」
「目撃証言では、特に変わった様子もなく歩いていたというものがほとんどですが」
ダンテはちらりとこちらを見る。
「続けろ」
「つまり、攫われた人々は、自分自身で“その地点”まで向かっていた可能性はありませんか?」
彼は地図を真っ直ぐ見つめていた。
「なるほど」
「人気のない所で襲ったのではなく、人気のない所まで誘導したということか」
リヴィアは小さく頷く。
「ええ」
「何らかの方法で」
ダンテはしばらく黙っていた。
それから、低く言う。
「確かにあり得る」
「思ったよりも役に立つな」
紺色の瞳がリヴィアに向く。
「褒め言葉として受け取っておきます」
その瞳があまりにも鋭くて、思わず視線を逸らした。
ダンテは気にせず続ける。
「明日、例の男の母親の元に行く」
「お前も来い」
静かな声だった。
「……私も?」
思わず聞き返す。
ダンテは当然のように答えた。
「お前の目は案外使える」
相変わらず物のような言い草に腹が立ったが、気になるのも事実だ。
「行きます」
ダンテはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
まるで、その答えを最初から知っていたように。
地図室の中は静かだった。
壁一面に広がる街の輪郭。
そこに刻まれた印の数々。
まだ、分からないことだらけだ。
それでも。
確実に、答えに近づいている。




