NO.5 壊れた男
貧民街は、昼だというのに薄暗かった。
道は狭く、両脇には外壁の崩れかけた建物が並んでいる。
人の数は多い。
けれど、活気はなかった。
声は低く、短く、どこか潜んでいる。
視線だけがこちらに向けられて、すぐに逸らされる。
リヴィアは無意識に、外套の裾を指で押さえた。
手の中には、ノアから渡された封筒がある。
隣ではルカが、半歩後ろを歩いている。
少しだけ彼に視線を向けて、先程の会話を思い出す。
ほんの少しの気まずさがあった。
二人は会話も無く貧民街を進んだ。
しばらく歩くと通りの先に、ひときわ古びた建物が見えた。
「……あそこみたいね」
看板はなく、中の様子は見えない。
リヴィアは足を止める。
胸の奥で、小さく脈が跳ねた。
今さら引き返すつもりはない。
躊躇っているリヴィアの代わりに、ルカが扉をノックする。
封筒を握る指に力を込めた。
――コンコン。
「失礼します」
いつもよりも、ほんのわずかに声が硬い気がした。
ゆっくりと扉を押し開ける。
鈴は鳴らない。
代わりに、蝶番が低く軋んだ。
隙間から、薬品の匂いが漏れ出る。
中は狭く、想像以上に暗かった。
壁際の棚には瓶と紙包みが詰め込まれている。
奥は布で仕切られていた。
その向こうから、わずかな物音。
机の向こうに、男が一人。
五十前後。
白衣は元の色が分からないほど使い込まれている。
視線がこちらに向く。
リヴィア。
ルカ。
「……本日の診察は終了しました」
リヴィアは何も言わず男の前まで進み、封筒を差し出す。
男は一瞬だけ眉を寄せた。
封筒を見た瞬間、表情がわずかに変わる。
面倒事を察した顔。
数秒見つめたあと、ゆっくり立ち上がる。
「……こちらへ」
それだけ言って奥へ向かった。
リヴィアは背筋に冷たいものを感じながら、後を追う。
布をくぐると、匂いが濃くなった。
薬草と消毒液の匂い。
淀んだ空気。
窓は閉ざされ、光は細く床に落ちていた。
寝台の上に若い男が横たわっている。
二十代半ば。
痩せこけて、肌の色はくすんでいる。
髪は額に張りつき、片腕は雑に固定されていた。
「大きな声は出さないでください」
「刺激すると、また手がつけられなくなる」
リヴィアは視線を男に向ける。
瞳は開いているのに焦点が合っていない。
生気はほとんど感じられなかった。
リヴィアは息を詰める。
普通ではない。
それだけははっきりしていた。
「……この人が?」
声が自然と低くなる。
町医者は肩をすくめた。
「そう聞いています」
リヴィアはルカに視線を向けた。
「……知っている人?」
何気なく問う。
ルカはすぐに答えない。
一拍。
「顔は、見覚えがあります」
リヴィアは男を見る。
男の唇が動く。
音にならない言葉。
リヴィアは身を屈める。
「聞こえる?」
「……私のこと、分かる?」
返事はない。
体は全く動かないのに、目だけがゆっくり動いた。
それが、かえって気味が悪かった。
男の喉がひくりと鳴る。
男はしばらく天井を見ていた。
やがて、言葉を探すように唇を動かす。
「……なにも」
「わから……ない、知ら……」
途切れ途切れに話す言葉に耳を傾ける。
怖い。
それでも、目を逸らしてはいけない。
「名前は?」
反応はない。
呼吸だけが速くなり、少しだけ目が合った。
「……誰」
かすれた声だった。
男の唇が震えながら、言葉を探す。
リヴィアは、ゆっくりと口を開く。
「リヴィアよ」
「あなたと同じ、ヴァレンティーノの——」
「……仲間よ」
男の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
だが、それ以上は何も起きない。
呼吸は荒いまま。
視線はまた、ゆっくりとずれていく。
リヴィアは、ほんの少しだけ焦りを感じた。
このままでは、何も聞き出せない。
何か、もう一歩。
「……どうして、こんな状態に?」
問いかける。
男の指先がぴくりと動く。
「……だめだ」
小さく、しかしはっきりとした言葉。
リヴィアは身を乗り出す。
「何が?」
男は首を振る。
ゆっくりと。
「……だめだ」
「だめ……」
繰り返すだけ。
その様子に、リヴィアは一瞬だけ迷った。
踏み込むべきか。
ここで止めるべきか。
だが——
このまま引き下がれば、何も得られない。
リヴィアは、ほんのわずかに声の調子を変えた。
「誰かに、止められてるの?」
男の呼吸が、わずかに乱れる。
「……誰かに、命令されたの?」
その瞬間だった。
時間が、止まった。
男の全身が、ぴたりと静止する。
呼吸すら、途切れたように見えた。
次の瞬間。
「——ちがう!!」
叫びが、狭い室内を裂いた。
男の体が大きく跳ねる。
固定されていた腕が無理に動き、包帯がずれる。
「ちがう、ちがう、ちがう……!」
声が崩れる。
同じ言葉を、噛み砕くように繰り返す。
男は頭を抱え、ベッドの上で身を捩った。
次の瞬間、そのまま体が傾き、床へ落ちる。
「——っ!」
リヴィアが思わず手を伸ばす。
だが、それより早く。
ルカの手がリヴィアの腕を制した。
男は床に転がったまま、爪で板を引っ掻く。
ぎり、ぎり、と嫌な音が響く。
「命令は……絶対だ……!」
喉を引き裂くような声。
「逆らうな……見られてる……見られてる……!」
目は見開かれている。
だが、そこに映っているのはこの部屋ではない。
何かに追い詰められている。
逃げ場のない場所で、ただ命令を刻み込まれた人間の目だった。
町医者が舌打ちし、慣れた手つきで男の肩を押さえつける。
「だから言ったでしょう」
「刺激するなと」
小さな瓶から液体を取り、布に染み込ませる。
それを男の口元へ押し当てると、数秒後、抵抗が少しずつ弱まっていった。
それでも、男の唇はまだ動いている。
「……見てる……」
「逃げられない……」
やがて声も途切れ、体から力が抜けた。
完全に沈黙するまで、数秒。
部屋の中に、重たい静寂が落ちる。
リヴィアは、その場から動けなかった。
胸の奥が、冷たく固まっている。
……人間はここまで壊れてしまうものなの?
自分の想像を超えるなにかが彼にあったに違いない。
ノアの話を思い出す。
――武器だけじゃない薬もばら撒かれている。
自体は思っているよりも深刻で、取り返しのつかないところまで来ているのかもしれない。
そう思いながら、ゆっくりと視線を下げる。
床に倒れた男の腕。
包帯がずれ、露わになった二の腕に、焼きついたような痕が見えた。
ただの傷ではない。
火傷のような……。
煤のように黒く沈んだそれは、皮膚に深く食い込んでいる。
リヴィアにはそれが何を意味しているのかは理解できなかった。
そのすぐ横で。
ルカは食い入るように傷跡を見つめていた。
彼の瞳が、はっきりと揺れる。
そしてほんの少しの……怯え。
だが、その揺らぎはすぐに消える。
何もなかったかのように、いつもの無表情へ戻った。
ルカの手が、肩に触れる。
そしてリヴィアを男から引き離した。
「下がってください」
「……もう十分です」
町医者が短く頷く。
「ええ。これ以上は無意味でしょう」
リヴィアは、ようやく息を吐いた。
肺に溜まっていた空気が、一気に抜ける。
頭の中が、まだ整理できていない。
こんな人が他にもたくさんいるっていうの??
手がかりはほとんど何も掴めなかった。
ただ、消えた人間がどうなっているのか、以外は。
***
外に出た瞬間、光が少しだけ強く感じられた。
空気が軽い。
リヴィアは足を止める。
胸の奥に残ったものが、うまく言葉にならない。
怖いわけではない。
嫌悪とも違う。
扉が背後で閉まる。
乾いた音が、やけに長く残った。
ルカはいつもの距離で立っている。
変わらないはずなのに、さっき見たもののせいで、その位置が少しだけ遠く感じた。
「……今の」
前を向いたまま、口を開く。
「どう思う?」
ルカはすぐには答えない。
通りの音が、二人の間を流れる。
しばらくして、低い声が落ちた。
「精神的な支配があったのかと……」
短い答え。
リヴィアは小さく頷く。
「……そうよね」
少し間を置いて続ける。
「命令って言葉に酷く怯えていたわ」
ルカの気配がわずかに固くなる。
リヴィアは気づかないふりをして言った。
「強制的に何かをさせられていたのかしら?」
少しの間。
「……可能性はあります」
曖昧な答えだった。
分かっている。
この男は何かを知っている。
さっきの部屋で、それはもう確信に近かった。
けれど。
今ここで聞いても、答えは返ってこない。
「……あなた」
思わず呼びかける。
ルカが視線だけでこちらを見る。
その目は、何も変わらない。
リヴィアは一瞬だけ迷って、言葉を飲み込んだ。
「……なんでもないわ」
そう言って歩き出す。
ルカも何も言わず、後ろについた。
沈黙が続く。
触れれば崩れそうな、薄い何かが間にある。
通りを抜けると空気が少しずつ変わっていった。
人の声も、建物の色も、わずかに明るくなる。
それでも。
頭の中には、あの男の声が残っていた。
命令は絶対だ。
見られている。
逃げられない。
無意識に、自分の腕に触れる。
何もない。
当然だ。
屋敷に戻り、アルドに報告をしなくてはならない。
会談も控えている。
リヴィアは前を向く。
私は何をすればいいのか。
今一度、考えなくてはならない。




