NO.3 信じたい心
屋敷に戻る頃には、太陽は西の方角に沈みかけていた。
昼間の熱気はまだ石畳の上に残っているのに、風だけが先に夜の気配を運んでくる。
街のざわめきも、昼すぎとは少し違っていた。
人はまだ多い。
車の往来も絶えない。
笑い声すら聞こえる。
それなのに、この世界を取り巻く嫌な予感だけが消えない。
酒場で拾った拳銃を、握りしめる。
屋敷の空気は張りつめている。
玄関に入った途端、控えていた使用人の一人が深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
いつも通りの口調。
けれど、その目がリヴィアではなく、ルカの方を一瞬だけ見た。
すでに報告は通っているのだろう。
「ボスは」
「執務室に」
傘下のファミリーからの襲撃。
その背後にいる別の存在。
執務室の前で足を止める。
ルカが一歩、前に出る。
「失礼します」
声をかけると、中から間を置かずに返事があった。
「入れ」
低い声。
ルカが扉が開く。
部屋の中は、いつも通り整っていた。
大きな机。
積み上げられた書類。
壁に掛けられた地図。
その中央に、アルドがいた。
椅子に腰かけたまま、こちらを見ている。
リヴィアは数歩進み、静かに立つ。
ルカもその少し後ろで足を止めた。
「ロッサが裏切ったか」
短い一言だった。
問いかけというより、確認に近い。
リヴィアは頷く。
「ヴァレンティーノの酒場が襲撃されました」
「そうか」
その表情から、感情を読み取ることは出来ない。
リヴィアは懐から、刻印の入った銃を取り出す。
そしてゆっくりとアルドの机に置いた。
アルドの視線が落ちる。
その瞬間だった。
ほんのわずかに。
彼の目が止まる。
ほんの一瞬だけ。
――なにか、知っている?
アルドはすぐにいつもの顔へ戻った。
手を伸ばし、銃を取り上げる。
指先で刻印をゆっくりとなぞる。
それから、小さく息を吐いた。
「……わがファミリーを敵に回すとは」
部屋の空気が、もう一段だけ張る。
リヴィアはアルドを見つめたまま、ゆっくりと息を吸う。
やはり、この人は何か知っている。
少なくとも、これが“ただの裏切り”ではないことを。
アルドは椅子に深く背を預ける。
視線がわずかに横へ流れ、壁に掛けられた地図へ向いた。
「ここ数日、妙な報告が上がっている」
「今までおとなしかった小規模ファミリーに、怪しい動きがあるようだな」
そしてリヴィアと真っ直ぐ視線を合わせる。
「クロウは何と」
ノア・クロウ。
彼の所で得た情報を端的に説明する。
ロッサが大量の武器を仕入れていること。
その供給元は、国中の小規模ファミリーにも同じように物品を流していること。
貧民街にばらまかれている薬のこと。
アルドは納得したように頷いた。
「なるほど」
「ベルティーニも同じようにやられているらしいな」
ほんのわずかに、口元が歪む。
「ベルティーニに接触する」
「あのレストランを押さえておけ」
リヴィアはアルドが何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
長い間敵対している相手。
その名を、あまりにも自然に口にした。
部屋の端で控えていた部下の一人が、わずかに動く。
声には出さないが、その反応は隠せていない。
アルドはそれを一瞥もしない。
裏の取引に使われる、あの店。
そこでベルティーニと話し合いをしようというのだ。
同時に。
一歩間違えれば、その場で終わる。
アルドが視線を上げ、まっすぐにリヴィアを見る。
「お前も来い」
拒否権はない。
リヴィアは一瞬だけ言葉を失う。
逃げ場はない。
ダンテ・ベルティーニ。
その名前が、頭の中で響く。
――夜の海。
手足は拘束され、逃げることは叶わない。
身体が空へ浮き、暗く深い水面に落ちていく。
冷たい恐怖。
そして。
見下ろす影。
――残念だ。
一瞬の、断片。
すぐに消える。
リヴィアは目を閉じかけて、踏みとどまった。
そして必死で答える。
「……分かりました」
ダンテに会うのだ。
彼の攻略も何度か試みたが、敵のボスなだけあって死亡率が高すぎた。
あの海の冷たさが、本物の恐怖としてやってくる。
アルドはそれ以上何も言わず、ただ銃の刻印を見つめていた。
リヴィアは小さく息を吐く。
これはもうゲームじゃない。
選択肢も表示されない。
正解も分からない。
自分での生きる道を、自分で探さなくてはいけない。
執務室を出ると、廊下はひどく静かだった。
さっきまであの部屋に満ちていた緊張が、扉一枚を隔てただけで薄れている。
だが、胸の奥の重さは消えなかった。
ベルティーニとの接触。
窓の外の空は深い青に沈みかけ、屋敷の中にも少しずつ灯りがともり始めていた。
「お嬢様」
斜め上から声が落ちた。
「なに?」
リヴィアはルカを見つめる。
ルカは執務室に視線を向けて答える。
「少し話したいことが」
声音にはかすかな緊張が混じっていた。
おそらくここで話す内容では無いのだろう。
リヴィアは小さく頷いた。
「私の部屋でしましょう」
部屋に戻ると、リヴィアは窓際の椅子に腰掛けた。
ルカは丁寧に扉を閉めてから、リヴィアの側まで来る。
「それで?」
ルカは一瞬だけ視線を伏せ、それからまっすぐに言った。
「ボスの命令ということは分かっています」
「ですが……、ダンテ・ベルティーニは危険です」
その名前が、静かな部屋の中に落ちる。
一瞬だけ、体がこわばる。
――リヴィアを海に突き落とした男。
「分かってるわ」
できるだけ冷静を装って返す。
だが、ルカは首を横に振った。
「分かっていません」
少しだけ、声が強い。
それが意外で、リヴィアは瞬きをした。
ルカはあくまで、護衛という立場だから側にいる。
好感度イベントもやっていない。
それなのに今は、それを超えてきているように感じた。
「……理解しているとは思えません」
視線を逸らせない。
瞳には本物の心配がある。
「ベルティーニは、交渉の席に着いたからといって簡単に協力するような奴らではありません」
「特に、ダンテは」
リヴィアは黙って聞いていた。
ルカの口から、そこまで否定的な言葉が出るとは思わなかった。
「あなたを、あんな奴に近づけさせたくない」
ルカの指先が、かすかに揺れる。
一歩、距離を詰めかけて――止まる。
そのまま、何もなかったように視線を落とした。
その一言で、胸の奥が不意に揺れた。
リヴィアはとっさに呼吸を止める。
ルカは護衛として言っているだけだ。
そう分かっているのに、心臓が少しだけ速くなる。
「……そう」
それだけ言うのがやっとだった。
ルカは眉を寄せたまま、少しだけ様子を窺うように沈黙する。
リヴィアは視線を外し、窓の方へ向いた。
暗くなり始めたガラスに、自分の顔がぼんやり映っている。
その向こうに、別の言葉が浮かぶ。
あなたにも、殺される未来があるかもしれないのに。
ルカは何も知らない。
知るはずもない。
知っているのは、自分だけだ。
「……お嬢様?」
少しだけ低くなった声が、リヴィアを現実へ引き戻す。
振り返ると、ルカはさっきよりもわずかに近い場所に立っていた。
リヴィアは小さく首を振る。
「なんでもない」
口元に、かすかな笑みを作る。
無理にでも、いつもの調子へ戻すように。
「……お父様の指示である以上、会談には参加します」
「ただ」
一呼吸おいてルカをみつめる。
「私にはあなたが必要」
「……守ってね」
ルカは少しだけ動揺したように見えたが、すぐにいつもの無表情へ戻る。
「当然です」
迷いのない返答。
リヴィアは目を細めた。
「……ありがとう」
小さく礼を言う。
部屋に沈黙が落ちる。
窓の外では、風が庭木を揺らしている。
夜の気配が、少しずつ屋敷を包み始めていた。
リヴィアは窓の外へ視線を戻す。
ダンテ・ベルティーニに会う。
そこに、どんな未来が待っているのかは分からない。
それでも、今、背後にいるこの男は迷わず「守る」と言った。
そのことが、少しだけ胸を温かくする。
リヴィアはもう一度ルカを見た。
「会談にむけて準備をします」
「あなたも、今日はもう休んで」
ルカは、静かに頭を下げる。
「はい」
「おやすみなさいませ」
ルカはもう一度扉の前で深く頭をさげ、部屋を出ていった。
リヴィアはその場から動かなかった。
さっきまでの会話が、頭の中でゆっくりと反芻される。
ルカは味方になってくれるだろうか。
ふと、あの夢を思い出す。
雨の中逃げる自分。
ルカに突きつけられた銃口。
誰かが叫んだ“裏切り者”の声。
あの時彼は、何を思っていたのだろう。
自分は、どんな選択肢を選んだのだろう。
これはゲームじゃない。
やり直しは無い。
正解もわからない。
それでも。
選ぶしかない。
窓の外に視線を向けると、夜の街に明かりが灯り始めていた。
リヴィアはゆっくりと目を閉じる。
迷いを振り切るように。
「……大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
夜は静かに深まっていく。
その奥で。
まだ見えない“何か”が、確かに動いていた。




