NO.13 追跡
翌朝、ベルティーニ邸の空気はひどく静かだった。
リヴィアは鏡の前に立ったまま、自分の姿を見つめていた。
落ち着いた色のワンピース。
つばの広い帽子。
肩までの茶色いウィッグに手袋。
街に紛れるための、どこにでもいそうな女の格好。
それでも、赤い瞳だけはどうしても隠しきれなかった。
鏡の中の自分と、数秒だけ視線がぶつかる。
――そして。
昨日の会議の後の話を思い出す。
***
「尾行にはお前も同行してもらう」
ダンテは当たり前だという態度で言った。
「……私も?」
薄々一緒に行くとは思っていたが、聞き返さずには居られなかった。
もちろん、ロベルトのことは心配だし、糸口が見つかるなら自分で確かめたい気持ちもある。
しかし、危険な現場である事に変わりはない。
心を奮い立たせるには、逃げられない理由が欲しかった。
ダンテはそんなリヴィアの心を知ってか知らずか続けた。
「俺はこの辺りじゃ顔が割れてるし、一人で歩いてると目立つ」
「だから連れがいた方が自然だ」
もっともな理由だった。
自分にしかできないような。
ただひとつ、疑問が湧く。
「……私も顔割れてそうだけど…??」
ダンテはリヴィアの顔をまじまじとみつめる。
「ウィッグでもかぶればいいだろ。あと帽子」
その言い草があまりにも他人事ですこし呆れた。
だが、緊張感の無い返事に少しだけ心が軽くなった。
***
今日、見張るのはロベルト・サンナ。
ベルティーニの下で荷運びをしている、ごく平凡な男。
そして、おそらく次に亡霊に攫われる可能性が最も高い人間。
何も知らないまま働く一人の男を、囮にする。
正しいのだと頭では分かっている。
けれど、その正しさは冷たくて、どうしても気分が悪かった。
控えめなノックの音が響く。
「ご準備が整いました」
外から、使用人の落ち着いた声がした。
「分かったわ」
最後に帽子の位置を整え、リヴィアは部屋を出る。
長い廊下を歩きながら、無意識に指先を握る。
ベルティーニ邸は今日も変わらず整っている。磨かれた床も、静かな足音も、落ち着いた照明も。
だが、そこに流れている空気だけが、いつもより少し張っていた。
玄関ホールへ出ると、すでにダンテがいた。
黒い上着に、いつもより少し軽い装い。
けれど、短く整えられた髪も、姿勢も、相変わらず隙がない。
彼はリヴィアの姿を見ると、ほんの一瞬だけ視線を止めた。
「悪くない」
開口一番、それだった。
リヴィアは眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「俺の隣にいても見劣らない」
何とも自分に自身があるような言い方にムッとしたのと、そんな言い方でも褒められたことに不覚にも喜んでしまった。
「そうですか」
何も気にしていないように、わざと淡々と返す。
ダンテはそれ以上からかうこともなく、視線をずらした。
少し離れた場所には、マルコが立っている。
今日は昨日よりもさらに目立たない服装だった。
地味な上着に、荷運びの監督にも見える落ち着いた出で立ち。
表向きは別行動を取るのだろう。
「配置は予定通りです」
マルコが低く告げる。
「ロベルトは朝の荷受けに出たあと、港の南側を中心に動きます。監視は最小限に。露骨な見張りにはしていません」
玄関の外には、黒塗りの車が待っていた。
冷えた朝の空気の中、車体だけが鈍く光っている。
ダンテが先に車に乗り込み、リヴィアもそれに続く。
車が走り出すと、窓の外を朝の街が流れていった。
まだ人の数は多くない。店を開ける者、荷を引く者、道端で短く言葉を交わす者。
どれも平和な日常の断片に見えるのに、今日はそのどこかに亡霊の手が潜んでいる気がした。
車はやがて港の近くへ入っていく。
道幅が少し広くなり、倉庫が増え、潮の匂いが微かに混ざり始めた。
ロベルトの尾行が始まる。
何かあったとき、自分は上手く立ち回れるだろうか。
リヴィアは帽子のつばにそっと触れた。
「着くぞ」
ダンテの声で、意識が引き戻される。
車がゆっくりと速度を落とした。
窓の向こうには、港へ続く石畳の通り。
朝の仕事が本格的に回り始めた気配がある。
荷を運ぶ男たち。
帳簿を抱えた商人。
道端で煙草をふかす作業員。
人が多く、紛れるには最適だ。
「ここからは別行動です」
マルコが助手席から振り返る。
「私は裏から回ります。お二人は表の通りを」
ダンテは頷いた。
車が止まる。
先にマルコが降りた。
その背中は、人混みに入るとすぐ見失えそうなほど自然だった。
リヴィアはそれを見送りながら、小さく息を整える。
「行くぞ」
ダンテが短く言う。
扉が開くと、外の空気が一気に流れ込んできた。
石畳の上に足をつけた瞬間、胸の奥の緊張が少しだけ輪郭を持つ。
港のざわめきの中、ダンテが歩き出す。
リヴィアはその隣に立ち、周囲へ視線を巡らせた。
通りに面した小さな喫茶店へ入る。
開け放たれた窓からは、港へ続く石畳の道がよく見えた。
店内の客は多くない。
仕事の合間に立ち寄ったらしい男が二人、カウンターで短く言葉を交わしているだけだ。
外から見えづらいが、視界は遮られないような窓際の席を選ぶ。
ダンテが椅子を引き、リヴィアを自然にエスコートする。
そんな場合ではないのに、慣れない扱いに少しだけ緊張した。
店の女が水を運んでくる。
ダンテは適当に紅茶を二つ注文し、それきり視線を窓の外へ戻した。
「ロベルトはどこ?」
声を潜めて尋ねると、ダンテは顎を少しだけ動かした。
視線を辿る。
通りの向こう、倉庫の入口近くで荷の確認をしている男がいた。
痩せた体つき。色褪せた上着。
何度見ても、どこにでもいそうな顔だ。
ロベルト・サンナ。
本人は何も知らない。ただ、いつも通り働いているだけだ。
その事実が、かえって不安を煽る。
しばらくは何も起こらなかった。
荷が運ばれ、帳簿が開かれ、ロベルトは二人の男と短く話し、また別の荷へ向かう。
ごく普通の朝だ。何も知らなければ、誰もそこに目を留めないだろう。
リヴィアは窓の外を見つめたまま、小さく息をつく。
その時だった。
視界の端に、妙な引っかかりが生まれる。
通りの角に立つ男。
作業着を着ているのに、手が綺麗すぎる。
その少し先には、物売り風の女がいた。籠を持ち、通りに立っているのに、一度も声を出さずに周囲を見ている。
さらに、ロベルトの方へ歩いていく一人の男。
役所の使いを思わせる地味な服装。腕には書類らしき紙束。
胸の奥が、ゆっくりと強張っていく。
ダンテの目が細くなった。
「ビンゴだ」
低い声。
リヴィアはわずかに頷く。
「三人いるな」
その一言で、空気が変わる。
リヴィアはカップに触れたまま、窓の向こうを見つめた。
役所風の男がロベルトに近づき、穏やかな調子で何かを話しかけている。
ロベルトは怪訝そうな顔をしながらも、手元の紙を覗き込んだ。
作業着の男は、角から動かない。
物売りの女もまた、何事もない顔で通りの端に立っていた。
何も知らない朝が、少しずつ歪み始めていた。
ダンテはカップを置いた。
「動くぞ」
それだけ言って、先に立ち上がる。
リヴィアもすぐに後を追った。席を立つ動作まで、なるべく自然に。
ここで急げば、彼らに気づかれかねない。
店を出ると、港の匂いがいっそう濃くなった。
潮と、木箱の埃と、積まれた荷の油っぽい臭い。
朝の光はまだ高いのに、倉庫の影がところどころ道を切り取っている。
ロベルトはすでに役所風の男の後ろを歩き始めていた。
怪訝そうな顔はしている。けれど、足は止まらない。
差し出された紙に何か気を取られているのか、時折視線を落としながら、ゆっくりと南側の倉庫通りへ入っていく。
作業着の男は少し離れて角から動かず、物売りの女は別の側から歩き出していた。
ダンテは足を緩めない。
人混みに紛れる速度で進みながら、視線だけで前と左右を測っている。
リヴィアもその隣を歩いた。
近すぎず、遠すぎず。
南側の倉庫通りは、表の道より人が少なかった。
荷車が通り、裏口から木箱が出入りし、酒場の裏手では樽が積まれている。
雑多なのに、どこか見通しが悪い。人目があるようで、肝心なところは死角が多い場所だった。
その時、物売りの女がふとこちらを見た。
視線が合う。
ほんの一瞬。
彼の名を呼ぶより早く、ダンテの手が伸びた。
ぐっと腰を引き寄せられる。
驚いて顔を上げた瞬間、彼の顔がすぐ目の前にあった。
息が触れそうなくらい近い。
リヴィアの身体が一瞬だけ強張る。
だが、ダンテの目は自分ではなく、その向こうを見ていた。
「動くな」
唇が触れる寸前の距離で、低い声が落ちる。
「見られてる」
一瞬で理解した。
キスするふり。
リヴィアは息を呑んだまま、身じろぎもできなかった。
ダンテの手が腰を支えている。手袋越しなのに、熱だけが妙に鮮明だった。
帽子の影の中で、彼の睫毛の影まで見える。
通りの向こうで、作業着の男がこちらを一瞥し、興味を失ったように視線を逸らす。
物売りの女も、もうこちらを見ていない。
「……もういい」
ダンテがそう言って、ようやく身体を離す。
腰に回っていた手が離れた瞬間、逆に少しだけ足元が心もとなくなった。
「先に言ってください」
小声で言うと、ダンテは平然としている。
「言えば不自然に固まるだろう」
全然悪びれない。
それが腹立たしいのに、今はそれ以上言う余裕もなかった。
ダンテは視線をロベルトの方へ戻す。
「まだだ」
役所風の男がロベルトを連れて、さらに奥へ進む。
表通りの喧騒が少しずつ遠ざかり、倉庫の壁が音を吸っていく。
背後の作業着の男と女も、ゆっくりとロベルトに近づいていく。
通りはさらに細くなる。
倉庫の裏手へ回る、石畳の荒れた道。表通りの喧騒が一気に遠のいた。
その時だった。
役所風の男が立ち止まった。
何かを言ってロベルトを振り返らせる。
その一瞬。
男の手が、素早く動いた。
「……っ」
首筋。
針のようなものが、一瞬だけ光った。
ロベルトの身体がびくりと震える。
「ダンテ!」
叫ぶより早く、ダンテはもう走っていた。
同時に、別方向からマルコが飛び出す。
いつの間にそこにいたのか分からないほど速い。
物売りの女が舌打ちし、身を翻す。
後方で、通りの角にいた男も一気に動いた。
全員が散る。
ロベルトは二、三歩よろめき、そのまま崩れかける。
役所風の男が腕を掴み、引きずるように奥へ向かおうとした。
だが、その肩をダンテが後ろから叩き落とした。
鈍い音。
男の身体が石壁へ激しくぶつかる。
一方でマルコは、物売りの女へ迷いなく飛びかかっていた。
女は素早く身をかわし、荷箱を蹴って視界を塞ぐ。
木箱が崩れる音。ばら撒かれる麻袋。
その影で、もう一人の男が裏路地へ走る。
マルコは一瞬だけ視線を走らせたあと、女の足を撃った。
振り返りざま、逃げた男の足にもう一発。
マルコが女を捕縛しようと近づこうとした、その時。
女の身体がびくりと跳ね、全身の力が抜けた。
男の方に視線を向けると、女と同様動かなくなっていた。
リヴィアは倒れかけたロベルトへ駆け寄った。
「ロベルト!」
肩を掴む。
目の焦点が合っていない。意識はある。
けれど、足に力が入っていない。
唇がかすかに動く。
「……な、に……」
背筋が冷える。
その背後で、ダンテが役所風の男を酒樽の上へねじ伏せていた。
次の瞬間、男の顎がわずかに動いた。
酒場の、あの男が脳裏をよぎる。
「だめ!」
リヴィアは反射で飛び出していた。
ダンテが押さえ込んでいる男の顎を掴む。
そのまま腕を口元へ押し込んだ。
「……っ!」
鋭い痛みが走る。
布越しでも分かる、歯が食い込む感触。袖口に血が滲む。
「何やってる!」
ダンテの怒声が落ちた。
けれど、その間にも男は口内に仕込んだ毒を噛み砕こうとしている。
リヴィアは腕を引かず、必死に顎を押し上げる。
「死ぬ気だわ!」
その声と同時に、マルコが戻ってきた。
女ともう一人の男は死んだと、その目で分かった。
荒い息ひとつ見せず、マルコは懐から布を抜く。
男の口元へねじ込み、後ろから顎ごと締め上げる。
別の手で首の後ろを打つと、男の身体から一瞬だけ力が抜けた。
「もう大丈夫です」
次の瞬間、リヴィアの腕が強く引かれる。
ダンテだった。
乱暴なくらいの勢いで自分の方へ引き寄せられ、男から引き剥がされる。
その顔を見た瞬間、リヴィアは一瞬だけ言葉を失った。
紺の瞳から、いつもの余裕が消えていた。
「……血が出てる」
低く押し殺した声だった。
白い袖口に、赤い色が滲んでいる。
「かすり傷です」
ダンテの眉間に皺が刻まれる。
リヴィアが「大丈夫」と言おうと口を開くより先に、彼は自分のハンカチを抜いた。
「動くな」
有無を言わせない声。
手首を取られる。
その動きは乱暴なのに、布を巻く手つきだけ妙に丁寧だった。
それが、かえって胸の奥をざわつかせる。
「……大したことないわ」
「黙ってろ」
遮るような声音。
だが、その直後に触れた指先は、ほんの一瞬だけ震えた気がした。
リヴィアは小さく息を呑む。
「腕なんか突っ込むな」
「死なせるわけにはいかなかったの」
そう言うと、ダンテは一瞬だけ黙る。
否定はしない。けれど、賛成もしたくない。そんな沈黙だった。
「だからって、お前が怪我していい理由にはならない」
怒っているようでいて、その下に別のものが滲んでいる。
その間にも、ロベルトは石壁にもたれたまま荒い息をしていた。
瞳は半分ほど閉じかけ、焦点は揺れている。
「……く、るしい……」
呻くような声。
周囲に控えていた部下たちが集まってくる。
その様子をリヴィア達は見つめていた。
「生きてる」
小さく呟くと、ダンテが短く答える。
「ああ」
マルコが取り押さえた男の手首を縛りながら言う。
「残りの二人は自害しました」
「こいつだけでも、生きたまま確保できたのは大きい」
男はぐったりと動かない。
その上着を探ると、注射器のようなものと、薬液アンプル。
小さな錠剤が入った袋が転がり落ちる。
さらに、内ポケットから折り畳まれた紙切れが出てきた。
マルコがそれを広げる。
3−E。 紙にはそう書かれている。
ダンテの目が細くなる。
「……やっと糸口が見えた」
マルコが薬液アンプルと錠剤を拾い上げる。
ダンテはそれを一瞥して命じた。
「これの成分も調べておけ」
リヴィアは傷を押さえたまま、息を整えた。
ダンテが確保した男を見下ろし、低く言う。
「……口を割らせる相手ができたな」
その声は冷たかった。
マルコが手際よく状況を確認し、部下たちに簡潔に指示を出す。
「ロベルトは歩けない」
「担架代わりのものの手配を」
「この男は拘束したまま屋敷まで連れて行け」
「はい」
部下たちが素早く動く。
ロベルトは半分意識を失いかけながら、低く呻いている。
目はまだ定まらず、呼吸も浅い。けれど、生きている。
それだけで十分だった。
狭い路地に、靴音と布の擦れる音だけが短く響いた。
その間にも、遠くでは港のざわめきが続いている。
たった一本路地を入っただけで、こんなことが起きているなんて、誰も知らないまま。
リヴィアは息を整えながら、崩れた木箱や転がった薬液アンプルを見つめた。
「……最低ね」
思わず漏れた言葉に、ダンテがわずかに視線を寄越した。
「今さらか?」
「目の当たりにするまで、信じられないくらい嫌な手口だから……」
ダンテは何も言わない。
ただ、その返事を聞いてから視線を外した。
「行くぞ」
ダンテが短く言った。
リヴィアは頷き彼のあとをついていく。
今回の作戦で、亡霊に繋がる手がかりを得た。
生きたまま捕らえた男。
薬液アンプル。3−Eと記された紙。
車の前まで来ると、マルコがすでに扉を開けて待っていた。
表情はいつも通り薄いが、その目には静かな緊張が残っている。
ダンテはリヴィアを先に車へ乗せると、自分もその隣へ腰を下ろした。
リヴィアは包帯代わりのハンカチに巻かれた腕を見下ろした。
じわじわと痛む。
けれど、不思議と後悔はなかった。
ダンテが窓の外を見たまま言う。
「戻ったら、傷の手当てをする」
命令のような口調だった。
リヴィアは少しだけ顔を上げる。
「尋問が先じゃないんですか」
「お前が先だ」
迷いのない答えだった。
車がゆっくりと動き出す。
前方では、ロベルトを乗せた車が先に港を離れていくのが見えた。
リヴィアは小さく息を吐き、背もたれに体を預ける。
ようやく、ほんの少しだけ力が抜けた。
まだ分からないことはたくさんある。
それでも、確実に真実に近づいている。




