ep.3 村の少年③
森の奥から、低い唸り声が響いた。
それは、獣のものとは思えないほど重く、村の空気を震わせるような声だった。
「……全員、下がれ」
グレンが低く告げた。
その声には、いつもの稽古で聞くものとは違う緊張が滲んでいた。
「グレン?」
ダリルが声をかける。
グレンは答えず森の方を睨んでいた。
何かが森の縁に生い茂る茂みを押し倒しながら近づいてくる。
ばきばきと、太い枝が折れる音。
そして――それが姿を現した。
黒い毛並みに覆われた、巨大な獣。
六本の脚が地面を踏みしめ、その背には鎧のような棘が幾重にも並んでいる。大きく開いた口からは鋭い牙が覗き、赤く光る眼が村を見渡していた。
その姿を目にした瞬間、グレンの表情が変わった。
「……嘘だろ」
ダリルもまた、握っていた槍を強く握り直した。
「おい。まさか、あいつ……」
「ああ。間違いない……ネグリスだ」
二人の脳裏に、冒険者だった頃の記憶が蘇る。
かつて、二人は仲間たちとともに、別のネグリスと戦ったことがあった。
あのときの戦いは今でも忘れられない。
腕に覚えのある冒険者が揃ったパーティだった。それでも勝利を手にするまでには、全員が死を覚悟するほどの苦戦を強いられた。
一瞬の判断の遅れが命取りになる。
生半可な攻撃ではまともな傷ひとつ負わせられない。
そんな相手だった。
「なんで、こんなところに……」
ダリルが呟いた。
ネグリスの本来の生息地はここから遠く離れた地域だ。少なくともこんな小さな農村の近くに現れるような魔獣ではない。
それだけでも異常だった。
だがグレンの視線は別のものを捉えていた。
ネグリスの左前脚から、黒い毛並みを伝って血が流れている。胴体にも裂けた傷があり、背中の棘のいくつかは折れていた。
足取りもどこか不安定だ。
「……手負いか」
グレンが息を呑む。
「誰かと戦ったのか?」
「そうみたいだな。あれだけの傷……」
グレンは言葉を切った。
「だが、油断するな」
ダリルが低い声で続けた。
「手負いの獣ほど危険なものはない。まして相手はネグリスだ。弱っていたとしても俺たちが昔戦った個体と同じなら、今の戦力でどうにかできる相手じゃない」
「ああ。傷を負っているからこそ追い詰められている可能性もある」
グレンは剣の柄を握り直した。
「刺激するな。だが村へ入れさせるな。俺たちが引きつける」
「分かった」
「みんな、家の中へ! 子どもを先に下がらせろ!」
グレンの声が村に響いた。
その声に、立ち尽くしていた村人たちがようやく動き出す。
村長が呼びかけ、男たちは手近な農具や武器を手に取った。女たちは子どもたちを抱き寄せ森から離れるよう促していく。
「レイヴェル、こっち!」
ルイナが駆け寄ってきた。
「子どもたちを頼む!」
グレンはそう言い残し、剣を抜いた。
ダリルも槍を構え、彼の隣に並ぶ。
「まったく、とんでもないものが来たな」
「本当にな」
「あのときみたいに全員で囲めるわけじゃない。ここには戦える奴がほとんどいないんだ」
「だからこそ、村の中へ入れさせるわけにはいかない」
二人はネグリスを見据えた。
そのとき、ネグリスがゆっくりと首をもたげた。
赤い眼が、村人たちをなぞる。
そして、ひときわ低い唸り声を上げた。
次の瞬間、巨体が動いた。
地面を蹴り、森の縁から畑へと飛び出す。踏み荒らされた畝が崩れ、土が跳ね上がった。
「来るぞ!」
グレンが叫ぶ。
ネグリスは傷を負っている。それでも、その突進は恐ろしいほど速かった。
グレンが横へ跳び、剣を振るう。
刃が黒い毛並みを切り裂いた。だが、深くは入らない。
続いてダリルが槍を突き出す。ネグリスの脚を狙った一撃は巨体の動きにわずかに遅れ、棘の並ぶ胴体をかすめるだけに終わった。
「くそっ、やっぱり硬い!」
ダリルが距離を取る。
ネグリスは二人を睨みつけると雄叫びをあげた。
村人たちから悲鳴が上がった。
「近づくな! 絶対に一人で相手をするな!」
グレンは叫びながら、ネグリスの注意を引きつけようと動いた。
「手負いでも油断するな! 一撃でももらったら命はないぞ!」
ダリルが村人たちへ叫ぶ。
二人は知っている。
この魔獣を相手にするなら互いの動きを読み、隙を作り、連携して戦わなければならない。
それでも今の二人には仲間が足りなかった。
背後には守るべき村がある。
退くことも、思う存分に戦うこともできない。
そのことが二人の動きをさらに制限していた。
「ルイナ、みんなを連れて下がって!」
レイヴェルは叫んだ。
「分かってる! レイヴェルも早く!」
ルイナは近くにいた子どもの手を取り、村の中心からさらに離れるよう促した。
レイヴェルも子どもたちを守るように立ち、木の剣を握りしめる。
本物の剣なら、何かできるだろうか。
そんな考えが頭をよぎった。
けれど、すぐに打ち消す。
あの大きさの魔獣を相手に、自分が何かできるとは思えなかった。
それでも、背後にいる子どもたちを放って逃げることはできない。
そのときだった。
ネグリスが、突然こちらを向いた。
赤い眼が、まっすぐにレイヴェルを捉える。
「……え?」
理由は分からない。
ただ、見られた。
そう感じた瞬間、背筋が凍りついた。
ネグリスはグレンたちから目を逸らし、地面を蹴った。
「レイヴェル!」
グレンの叫び声が響く。
巨大な影が、畑を越えて迫ってくる。
レイヴェルは木の剣を両手で握り、足を踏ん張った。
怖い。
逃げたい。
けれど、背中にはまだ、逃げ遅れた子どもがいる。
「こっちに来るな……!」
声が震えた。
それでも、レイヴェルはその場から動かなかった。
赤い眼が近づく。
六本の脚が地面を蹴り、ほんの数瞬の瞬きの内に距離を詰め、目の前に迫っていた。




