ep.4 村の少年④
ネグリスの牙が目の前に迫る。
「避けろ!」
父さんの叫びが響いた。
考えるより先に体が動いた。僕は地面を蹴り、横へ飛び退く。
直後、ネグリスの爪が地面をえぐった。土が跳ね上がり、鋭い爪が目の前をかすめる。
息が詰まった。
あと少しでも遅れていたら、どうなっていたか分からない。
「レイヴェル!」
父さんが駆け込んできた。
僕とネグリスの間に割って入り、迫る巨体に向かって剣を構える。ネグリスが再び前脚を振るった。父さんは剣でその一撃を受け流し、押し込まれそうになりながらも踏みとどまった。
「下がれ! 子供たちを頼む!」
「でも……!」
「早く行け!」
普段とは違う、張り詰めた声だった。
僕は唇を噛んだ。ここにいても父さんの邪魔になるだけだ。今の僕にできることをしなければならない。
「……分かった!」
僕は木剣を握り直し、子供たちのもとへ走った。
ルイナも弓を手に、逃げ遅れた村人たちを助けていた。
「こっちよ! 早く家の中へ!」
村人たちは恐怖に顔をこわばらせながら、近くの家へ駆け込んでいく。泣き出した子供の手を引き、転びそうになった老人の肩を支える。僕たちは声を掛け合いながら、ひとりでも多くの人を安全な場所へ逃がそうとした。
村の外れから別の唸り声が聞こえた。
振り返ると、茂みの陰から小型の魔獣が姿を現していた。一匹だけではない。ネグリスの襲撃に乗じて村へ入り込んできたらしい。
「魔獣がこっちにも!」
誰かが叫んだ。
小型の魔獣は逃げ惑う村人へと飛びかかった。人々の悲鳴が重なる。
「ルイナ、子供たちをお願い!」
「分かった! レイヴェルも気をつけて!」
僕は近くにいた子供の背中を押し、家の中へ逃がした。まだ何人か残っている。早く助けなければ。
家の陰にいた小さな子供へ魔獣が飛びかかった。
「危ない!」
母さんが駆け寄り、子供を抱き寄せた。魔獣の爪が母さんの腕をかすめる。
「うっ……!」
「母さん!」
母さんの腕から血がにじんだ。
子供は無事だったが、母さんは痛みに顔をしかめている。魔獣は獲物を逃したことに苛立つように唸り、再び二人へ向き直った。
気づけば、僕は走り出していた。
二人の前に飛び込み、木剣を構える。背後には傷ついた母さんと、怯えて動けなくなった子供がいる。
ここを通すわけにはいかない。
怖かった。
いつもの訓練とは違う。牙も爪も本物だ。少しでも判断を誤れば、今度こそ誰かが傷つく。
それでも退くわけにはいかなかった。
僕は木剣を握る手に力を込めた。相手の動きを見逃さないように息を整え、集中する。
魔獣が低く身を沈めた。
来る。
魔獣の前脚が地面を蹴った。
さっきまで目で追うのが精いっぱいだった動きが、はっきりと見える。魔獣がどちらへ飛びかかろうとしているのか。爪がどこへ伸びてくるのか。まるで、時が遅くなったように。
僕は迫る魔獣から目を離さなかった。
振り下ろされた爪が目の前を通り過ぎる。僕はわずかに体を傾けた。爪先が服をかすめ、頬に風が当たる。
避けられた。
そう思う間もなく、魔獣が向きを変えて飛びかかってきた。
今度は横へ踏み込む。牙が顔のすぐ脇を通り過ぎた。あと少しでも動きが遅れていたら、噛みつかれていたかもしれない。
反撃しようと木剣を振るう。しかし、魔獣は身をひねってかわした。
すぐに爪が返ってくる。
僕は身を沈めた。爪が頭上をかすめる。続けて振るわれた前脚を、今度は後ろへ飛び退いて避けた。
怖さは消えていない。
むしろ、攻撃がかすめるたびに心臓が跳ね上がる。それでも、魔獣の動きは見えていた。次にどこへ爪が伸びてくるのか。どちらへ体を動かせば避けられるのか。考えるより先に、体が反応していた。
僕は必死に間合いを保った。
父さんに教わったことを思い出す。
力任せに振るうな。相手をよく見ろ。隙を見つけろ。
魔獣が低く唸り、再び飛びかかってきた。
鋭い爪が迫る。
僕は紙一重で身をかわした。爪が服の裾を裂き、すぐ後ろの地面に突き刺さる。
息を呑む暇もない。
魔獣は間を置かずに体勢を立て直し、今度は横から襲いかかってきた。僕はぎりぎりまで引きつけてから身をひねる。牙が肩先をかすめた。
ほんの少しでも判断が遅れていたら、避けられなかった。
それでも、まだ動ける。
僕は木剣を握り直し、魔獣の動きを追った。
何度も攻撃を仕掛けてくる魔獣。そのたびに、僕は紙一重で躱した。大きく動けば体勢を崩す。無理に反撃すれば隙ができる。だからこそ、相手の動きを見極め、必要な分だけ体を動かした。
けれど、いつまでも避け続けられるわけじゃない。
腕は痛み、息も上がっていた。足にも疲れがたまり、少しずつ動きが鈍くなっていく。
背後には母さんと子供がいる。
ここで倒れるわけにはいかない。
魔獣が再び身を沈めた。
来る。
爪が振り上げられる。体重が前へ移る。その一瞬、魔獣の動きが止まったように見えた。
今しかない。
僕は爪を紙一重でかわしながら、魔獣の懐へ踏み込んだ。
「うあああっ!」
残った力を振り絞り、木剣を全力で振り抜く。
鈍い音が響いた。
その瞬間、木剣が砕けた。
折れた柄が指の間から滑り落ちる。魔獣は衝撃に耐えきれず、地面へ転がった。短い唸り声を上げたあと、動かなくなる。
僕はその場に立ち尽くした。
勝った。
そう理解するまで、少し時間がかかった。
「母さん!」
すぐに振り返り、母さんのもとへ駆け寄った。
「大丈夫? 腕を見せて!」
「平気よ。ちょっと切っただけだから」
母さんはそう言ったが、腕からはまだ血が流れていた。
「ごめんね。あなたまで危ない目に遭わせてしまって」
「そんなこと言わないでよ!」
声が思ったより大きくなった。
母さんが目を丸くする。僕は慌てて口をつぐんだ。怒っているわけじゃない。ただ、母さんが傷ついたことが怖かった。もう少し遅れていたらと思うと、胸が苦しくなる。
「……子供は?」
僕は母さんの腕の陰にいる子供へ目を向けた。
子供は震えながらも、怪我はないようだった。僕はほっと息を吐き、母さんの肩を支えた。
「母さんは家の中へ。傷の手当てをしよう」
「レイヴェル……」
「大丈夫。もう魔獣はいないから」
そう言いながら、僕は砕けた木剣の柄を見た。
ずっと使ってきた木剣だった。最後まで握っていたはずなのに、今はもう使い物にならない。
けれど、考えている暇はなかった。
村のあちこちから、まだ悲鳴や魔獣の唸り声が聞こえてくる。ネグリスと戦っている父さんたちのことも気がかりだった。
僕は母さんと子供を家の中へ送り届けると、再び外へ向かった。
今度こそ、守れるものを守らなければならない。
木剣を失った手を握りしめ、僕は村の中へ駆け出した。




