ep.1 村の少年①
朝の空気は、少し冷たかった。
山間にある小さな村には、まだ薄い霧が残っている。
鳥の声。
風に揺れる木々の音。
遠くから聞こえてくる家畜の鳴き声。
いつもと変わらない朝だった。
「レイヴェル! 起きてるの!?」
家の外から声が聞こえた。
僕は布団の中で目を開ける。
「……起きてる」
「寝てるでしょ!」
「起きてるって」
「早く出てきて!」
声の主はルイナだ。
僕より一つ年上の幼馴染。
昔から、朝になるとこうして僕を起こしに来る。
……いや。
寝坊していないか、確認しに来ているだけかもしれない。
「もう……」
僕は布団から出た。
窓を開ける。
朝の冷たい空気が部屋に入ってきた。
「寒っ……」
「レイヴェル!」
「分かったって!」
急いで着替え、家を出る。
外に出ると、ルイナが腕を組んで立っていた。
「遅い!」
「まだ早いだろ」
「待たせたでしょ」
「待ち合わせしてないよ」
「細かいことはいいの!」
いつものことだった。
僕は苦笑する。
「おはよう、ルイナちゃん」
家の中から声がした。
「あ、おばさん。おはようございます」
ノエラが顔を出す。
僕の母さんだ。
「レイヴェルもおはよう」
「おはよう、母さん」
「今日は稽古?」
「うん」
「無理しないでね」
「分かってる」
「昨日も聞いたわ」
ルイナが口を挟む。
「ルイナも同じでしょ?」
「私は大丈夫!」
「昨日、転んでたじゃない」
「あれは地面が悪いの!」
「地面のせいにしないの」
母さんが笑う。
僕も笑った。
こういう朝が、僕は好きだった。
何も特別なことはない。
ただ、いつも通りの朝。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
「気をつけてね」
母さんに見送られ、僕たちは家を出た。
村の通りを歩いていると、あちこちから声が聞こえてくる。
「おはよう、レイヴェル」
「おはようございます」
「今日もグレンさんの稽古か?」
「はい」
「頑張れよ!」
この村では、みんな顔見知りだった。
小さな村だから、知らない人の方が珍しい。
少し歩くと、ルイナの家が見えてきた。
ルイナが家の中へ声をかける。
「お父さん!」
「朝から騒ぐな!」
中から男の声が返ってきた。
「おはよう、ダリルさん」
「おう、レイヴェル。おはよう」
出てきたのはルイナの父、ダリルさんだった。
大柄で、少し無愛想に見える。
でも、面倒見のいい人だ。
「今日は稽古か?」
「はい」
「終わったら畑を手伝え」
「分かってます」
「よし」
「私も?」
「当然だ」
「えー……」
「文句を言うな」
その時、家の奥から声がした。
「朝から何を騒いでるの?」
「母さん!」
ルイナの母、フィオナさんだった。
「おはようございます」
「おはよう、レイヴェル」
フィオナさんが笑う。
「今日もルイナに起こされたの?」
「はい」
「大変ね」
「ちょっと!」
「悪いだろ」
ダリルさんが言った。
「お父さんまで!」
僕は思わず笑った。
こういう時間も、いつものことだった。
この村では、誰かの家に行けば誰かがいて。
誰かが困れば、別の誰かが手を貸す。
そんな暮らしだった。
* * *
村外れの広場では、父さんが待っていた。
「来たか」
「うん」
「始めるぞ」
父さん――グレンは、僕に木剣を渡した。
僕が剣を習い始めてから、もう何年も経つ。
最初は木剣を振るだけでも大変だった。
けれど、毎日少しずつ続けてきた。
構え。
踏み込み。
振り下ろし。
受け。
何度も繰り返す。
「遅い」
「……っ!」
木剣が僕の肩を軽く叩いた。
「もう一度」
「はい!」
僕は歯を食いしばる。
もう一度、構える。
踏み込む。
振る。
「力みすぎだ」
「はい!」
「足を使え」
「はい!」
父さんは厳しい。
でも、僕はこの時間が嫌いじゃなかった。
むしろ好きだった。
少しずつできることが増えていくのが嬉しい。
「今日はここまでだ」
「もう?」
「ああ。畑を手伝うんだろ」
「うん」
僕が木剣を片付けていると、少し離れたところからルイナが声を上げた。
「終わった?」
「今終わった!」
「じゃあ手伝って!」
「分かった!」
僕が走っていくと、ルイナは満足そうに笑った。
「真面目ね」
「ルイナも手伝うだろ」
「私は村の戦力だから」
「自分で言う?」
「言うのよ」
僕たちは並んで畑へ向かった。
午前中は剣の稽古。
午後は畑仕事。
そんな毎日だった。
特別な冒険もない。
魔王と戦うこともない。
世界を救おうなんて考えたこともない。
ただ、この村で暮らして。
家族と過ごして。
友達と笑って。
明日も同じ一日が来ると思っていた。
* * *
夕方になると、村は少しずつ静かになっていった。
畑仕事を終えた人たちが家へ戻っていく。
子供たちも遊びを切り上げ、家へ帰る。
空が赤く染まり、山の向こうへ太陽が沈んでいく。
「今日も疲れた……」
僕は家へ向かいながら、肩を回した。
「レイヴェル」
「ん?」
「明日も稽古する?」
「もちろん」
「真面目ね」
「ルイナもやるだろ」
「私は弓の練習」
「じゃあ一緒だ」
「そうね」
ルイナが笑った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
村の分かれ道で、僕たちは別れた。
「おやすみ、レイヴェル」
「おやすみ、ルイナ」
僕は家へ帰った。
* * *
「おかえり」
「ただいま」
家に入ると、母さんが夕食の準備をしていた。
「今日は遅かったわね」
「ルイナと話してた」
「あら」
母さんが笑う。
「何?」
「別に」
「なんか変だよ」
「何でもないわ」
父さんが奥から声を出した。
「飯が冷めるぞ」
「はいはい」
僕たちは食卓についた。
今日の夕食は、パンと野菜のスープ。
特別な料理ではない。
でも、僕は母さんの作るこの味が好きだった。
「いただきます」
「いただきます」
食事が始まる。
「今日の稽古はどうだった?」
母さんが聞いた。
「父さんに負けた」
「何回?」
「数えてない」
「まだまだだな」
父さんが言う。
「でも、昨日よりは良かった」
「本当?」
「少しだけな」
「やった」
僕が笑うと、母さんも笑った。
「レイヴェルは頑張ってるものね」
「そうかな」
「そうよ」
「楽しみにしてる」
そんな会話をしながら、夕食を食べる。
何でもない。
本当に、何でもない夜だった。
――その時。
微かに何か聞こえた気がした。
「……?」
僕は食事の手を止めた。
「どうした?」
父さんが聞く。
「今、何か聞こえなかった?」
「何が?」
母さんも手を止める。
僕は耳を澄ました。
風の音。
木々の揺れる音。
虫の声。
いつもの夜の音。
「……気のせいかな」
「疲れてるんじゃない?」
母さんが笑う。
「そうかも」
僕も笑った。
けれど。
父さんだけは笑っていなかった。
「……グレン?」
母さんが声をかける。
父さんは立ち上がった。
「外を見てくる」
「こんな時間に?」
「念のためだ」
父さんが家の外へ出ていく。
僕はその背中を見つめた。
しばらくして。
外から父さんの声が聞こえた。
「レイヴェル、外に出るな」
いつもとは違う声だった。
低く、険しい。
僕は窓の方へ近づいた。
夜の森が見える。
月明かりの下。
木々が静かに揺れている。
その時。
森の奥から――。
鳥たちが一斉に飛び立った。
バサバサバサッ!
暗い森から、何十羽もの鳥が空へ舞い上がる。
「……何?」
僕は窓に手をついた。
鳥たちは、まるで何かから逃げるように飛んでいた。
そして。
森の奥から。
ほんの一瞬だけ。
――低い唸り声のようなものが聞こえた。
「……父さん」
返事はなかった。
父さんは森を見つめていた。
その手には、いつの間にか剣が握られていた。
いつもの夜だった。
いつもの村だった。
それなのに。
何かが、少しずつ近づいてきている。
そんな気がした.




