【第9話】未来への足音
十一月の冷気が街の輪郭を鋭く切り取る夜、天文館の喧騒から少し外れた路地裏は、昼間のざわめきが嘘のように深い静寂に包まれていた。
アスファルトの冷たさが革靴の底を伝い、コートの襟元をすり抜ける風が、肌を刺すような痛みを伴って吹き抜けていく。
その細い路地の一角に、古い木造家屋の黒い板壁がひっそりと佇んでいた。
看板はなく、表札すらないその家は、周囲の近代的なコンクリートの建物に挟まれるようにして、まるでそこだけ時間が止まったかのように存在している。
橘翔平は、足早にその黒い板壁の前で足を止めた。
手にしたスマートフォン画面の地図アプリは、この場所が目的地であると示している。
しかし、目の前にあるのはただの古びた壁と、閉ざされた古い格子戸だけだ。
「ここだな……噂通り、何もない場所だ」
翔平は低く呟き、肩から下げた黒いアタッシュケースの持ち手を強く握りしめた。
二十代後半の彼は、都内の大手IT企業から引き抜かれる形で鹿児島市内の老舗企業に転職し、現在は新規事業立ち上げのプロジェクトマネージャーを務めている。
周囲からは順風満帆のエリート街道を歩いているように見られていたが、その内側は限界を迎えていた。
上層部からの無理難題な納期設定、言うことを聞かない協力会社の人間関係、そして何より、自分の下した決断が会社全体を傾かせるのではないかという重圧。
毎夜のように襲いかかる不眠と動悸を抑えるため、睡眠薬に頼る日々が続いていた。
ネットの片隅で見かけた「どんな迷いも断ち切る奇妙な家」の噂にたどり着いたのは、まさに溺れる者が藁をもすがる思いのときだった。
仕事のプレッシャーから逃げ出したいわけではない。
ただ、この身をすり減らしてまで進むべき道が正しいのかどうか、誰かに答えを示してほしかったのだ。
迷う間もなく、翔平は冷え切った指先で古びた木製の引き戸に手をかけた。
これまでの相談者たちのような怯えはなく、むしろ一刻も早くこの重荷を降ろしたいという焦りが勝っていた。
指の腹で左右へスライドさせると、カラカラと乾いた戸車が鳴り、静寂の中にわずかな隙間が生まれた。
室内を覗き込むと、薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や煤けた古文書が無造作に吊るされ、天井からは乾いた植物が逆さにぶら下がっている。
中央の低い円卓の上では、一筋の蝋燭の光が頼りなく揺れていた。
「入る前から、その身に纏うプレッシャーの重みで息が詰まりそうですね」
奥の暗がりからかけられた低く重い声に、翔平はわずかに肩を揺らしたが、すぐに気を取り直して堂々と足を踏み入れた。
そこに座っていたのは、鹿児島で代々、人間の業や因縁を取り除いてきたという生粋の霊能力者――阿門甲斐吽だった。
その双眸は、翔平が纏う仕事への過剰な責任感と、自身を追い詰めている完璧主義の澱みを、最初から見透かしているように静かに光っていた。
「その冷え切った焦燥と、周囲を信用できずに孤立しているトゲトゲしい匂いが周囲に漂っていますよ。こんな風の止んだ夜は外を歩くだけで、悪きもの達を引き寄せてしまいますよ。……どうぞ、そこにおかけなさい」
甲斐吽の重い声が空間を震わせる。
翔平は微かに眉をひそめたが、円卓の前に置かれた丸椅子に腰掛け、アタッシュケースを足元に置いた。
「初めまして、橘です。噂を聞いて来ました。……失礼ですが、あなたには私の抱えているプロジェクトの行方が見えるんですか?今、会社の命運を分ける瀬戸際にいるんです。私の下す判断が間違っていないのか、それを知りたい」
どこか理詰めで、自身の正当性を証明するかのような翔平の口調には、周囲を信用していない警戒心が色濃く滲んでいた。
しかし、甲斐吽は眉一つ動かさず、静かにテーブルの上に布を広げた。
「人の進むべき道を数字や損得だけで測ろうとするから、その足元が揺らぐのです。あなたのその過剰な防衛心と、孤立を恐れながらも他者を寄せ付けない因果を、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードの大アルカナが次々とテーブルの上に配置されていく。
中央に示されたのは、正位置の「戦車」のカード。
猛進する勢い、強引なコントロール、そして周囲の状況が見えなくなるほどの前のめりな焦り。
周囲を囲むカードには、「隠者」の逆位置が示す頑なな孤立と、「正義」の逆位置が示す偏った正義感と視野の狭さが正確に描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は低い声で告げた。
「あなたが必死にしがみついているその責任感は、ただの『他人に弱みを見せられないプライド』にすぎません。すべてを自分で抱え込み、誰も信用せずに突き進む姿は、『戦車』の暴走そのものです。このままでは、プロジェクトが成功しよう失敗しようと、あなたの心身が先に自壊する。そして、あなたが本当に恐れているのは『仕事の失敗』ではなく、『完璧ではない無能な自分を他人に知られること』だ」
その言葉は、翔平の胸の最も隠したかった核心を鋭く突き刺した。
エリートとして完璧でなければならないという強迫観念と、誰にも本音を吐き出せない孤独。
図星を突かれたショックと、自分の甘さを暴かれた屈辱感から、翔平の顔から血の気が引いていく。
「なっ……なんだと!」
翔平はガタッと丸椅子を鳴らして立ち上がり、円卓を叩くように身を乗り出した。
「私の何を知っているっていうんだ!毎日終電まで働き、誰よりも数字を背負い、部下を引っ張っているのはこの私だ!誰も信用しないんじゃない、信用できるだけの成果を誰も出していないからだろう!それなのに、プライドだの独りよがりだの勝手なことを言うな!」
叫びながらも、翔平の声の震えは隠しきれなかった。
図星を突かれた事実から目を背け、怒りで誤魔化そうとする必死の反発だった。
しかし、甲斐吽はただ静かに、その感情の波立ちを受け止めるように見据えていた。
「怒り狂うのは、その言葉があなたの心臓を正確に射抜いているからです。自分の限界を認めず、強がりという名の鎧を纏い続けている限り、何度環境を変えようと、同じ孤独と重圧の地獄を繰り返すことになります」
甲斐吽の静かで冷徹な指摘に、翔平の勢いは嘘のようにしぼんでいった。張り詰めていた糸がプツリと切れたように、翔平はその場に膝から崩れ落ちる。
「……っ、そんなの、分かってた……よ……」
翔平の目から、熱い涙がポロポロと床の上にこぼれ落ちる。
それは他人への怒りではなく、誰にも頼れず、常に完璧を演じ続けなければならなかった惨めな自分への絶望の涙だった。
「諦める必要はありません。ただ、戦う理由を変えなさい」
甲斐吽の眼光がわずかに和らぐ。
「他人の目を気にして完璧を演じるという名の重荷をすべて手放すと誓いなさい。そうすれば、この場で私があなたの因縁と不浄な執着を御祈祷し、きれいに祓い落として差し上げましょう。ただし、それにはあなたの強い覚悟が必要です。失敗を恐れず、他者と手を取り合って進むという覚悟がなければ、何度ポジションを変えても同じ苦しみを繰り返すことになります」
翔平は息を呑んだ。
強がりを完全に捨て、自分の弱さを認めて他者に頭を下げること。
それは彼にとって死刑宣告のような恐怖であると同時に、これ以上ないほどの圧倒的な解放感の予感でもあった。
「……わかったよ。もう完璧主義も、全部捨てる。だから、私をこの呪縛から解き放ってくれ」
翔平の声は震えていたが、そこには先ほどまでの見栄や狂気ではなく、削ぎ落とされた覚悟の光が灯り始めていた。
甲斐吽は静かに立ち上がると、部屋の四隅に御札を掲げ、低く重厚な声で祝詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き天地の大御神たちの大前に、畏み畏みも白す……」
阿門甲斐吽の力をもって、時の流れを視通し、過ぎし影を照らし、来るべき道を示し、散り乱れし縁を結び直す。
言霊の響きが空間を震わせ、翔平の背中から黒い澱のような重圧がスッと剥ぎ取られていく。
「祓え給い清め給え、祓え給い清め給え……!」
祝詞の終わりとともに、室内の張り詰めた空気が一気にほどけた。
「終わりましたよ。あなたの背負っていた悪しき因縁は、ここで断ち切られました」
甲斐吽の告げる声に、翔平は深く息を吐き出した。
憑かれていた重荷が消えた代わりに、生身の体が冷たい現実を剥き出しのまま受け止めている感覚がある。
「……ありがとうございました。お幾らお支払いすれば......」
翔平がポケットを探ろうとした時、甲斐吽は静かに手を挙げてそれを制した。
「対価の定めはありません。あなたが抱えた悩みの重みと、これから歩む覚悟の価値に見合うものを、ご自身の意思でお納めください。分割でも、形あるものでも構いません。いつか必ず納めに来てください」
金額を提示されないことに戸惑いながらも、翔平は「自分の肩書の価値」ではなく「自分の生きる覚悟」を問われているのだと理解し、深く頷いた。
古びた引き戸を開けて外に出ると、頬を撫でる十一月の夜風は相変わらず冷たかったが、先ほどまでの刺すような痛さは感じられなかった。プロジェクトの納期も、山積みの課題も一ミリも変わっていない。
だが、うつむくばかりだった視線は、不思議とまっすぐ未来に向けられていた。
アタッシュケースをしっかりと握りしめ、翔平は冷え切った街の中へと歩き出す。
ようやく、自分の足で正しく歩むためのスタートラインに立ったのだ。
そして数年後、誰もが翔平の率いる事業の成功を目にすることになる。
第9話(完)




