【第8話】覚悟の一歩
十一月の半ばを過ぎ、鹿児島市内の空は乾いた青を湛えたまま、徐々に冷え込みを増していた。
天文館の喧騒から遠く離れ、古い家並みが身を寄せ合う路地裏。
アスファルトの冷気が足の裏からじわりと這い上がり、コートのポケットに突っ込んだ指先はかじかんで感覚を失っていた。
神村美咲は、足早に暗がりを進みながら、片手でスマートフォンの画面を強く握りしめていた。
画面に表示された地図のピンはまさにこの地点を指しているはずなのに、目の前にあるのはうらぶれた古い木造家屋の黒い板壁だけだ。
看板どころか、表札すらない。
「こんなところで、本当に……」
美咲は乾いた唇を噛み締め、肩に掛けた大きめのトートバッグの持ち手を引き寄せた。
中には、何冊ものクロッキー帳と、ボロボロになったペンタブレットの替え芯、そして今日の打ち合わせ用に描いた見捨てられたラフ画が詰まっている。
フリーランスのイラストレーターとして生計を立てて半年。
大手クライアントとの契約が突如打ち切られて以来、美咲の仕事は干からびていた。
SNSを開けば、自分の何倍もの「いいね」を集める同業者たちのイラストが流れてくる。
自分の絵には価値がないのか。
それとも、もう筆を折るべきなのか。
誰にも言えない焦燥と、誰かに認められたいという飢えが、彼女の心を内側から蝕んでいた。
ネットの片隅で見かけた「どんな迷いも断ち切り、どんな願いも叶えるという都市伝説のような奇妙な家」の噂は、藁をも掴む思いの美咲にとって、夜の闇に浮かぶ唯一の灯火に見えたのだ。
ふと、それまで頬を打っていた冷たい夜風が、嘘のようにぴたりと止まった。
周囲の近代的なアパートの明かりから切り離されたように、そこだけ時間が凍りついた空間。
閉ざされた古い格子戸の隙間からは、神経を逆撫でされるような濃密な沈香の香りが漂っている。
美咲は凍えた指先で、古びた木製の引き戸にそっと触れた。
恐る恐る指の腹で左右へスライドさせると、カラカラと乾いた戸車が鳴り、静寂の中にわずかな隙間が生まれた。
中を覗き込むと、薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や古文書が無造作に吊るされ、天井からは乾いた植物がぶら下がっている。
中央の円卓の上では、一筋の蝋燭が不気味に揺らめいていた。
「……うわ、何ここ。変な臭い……」
思わず呟いた美咲は、足を踏み入れるのを一瞬ためらったが、引き返しても状況が変わらない焦りから、おそるおそる戸を押し広げて中へ入った。
円卓の前に置かれた丸椅子に、美咲は行儀悪く浅く腰掛け、バッグを膝の上に抱え込む。
怯えを隠すように強気な態度を作ると、奥の暗がりへ向かって声を張り上げた。
「あの、ネットの噂で来たんですけど……。ここで私のイラストの仕事が増えるように、何か御利益のある御札とか、そういうの売ってもらえないですか? お金は……今あんまりないんですけど、分割とかできるなら……」
必死に営業トークのような調子で切り出した美咲だったが、奥の暗がりから姿を現した男――阿門甲斐吽の、底知れぬ光を宿した双眸に捉えられた瞬間、言葉を詰まらせた。
「風が止んだこんな夜は、その未練と、誰にも認められない焦燥にまみれた濁った匂いは、外を歩くだけで悪しきものを引き寄せますよ」
甲斐吽の重い声が空間を揺らす。
美咲はドキリと心臓を跳ね上がらせたが、図星を突かれた気恥ずかしさと動揺から、慌ててツンと顔をそむけた。
「な、何よ勝手に……。人の顔見ていかにもって感じのこと言わないでよ。私はただ、仕事をもらうためのアドバイスが欲しくて来ただけなんだからね!」
あからさまな虚勢を張る美咲に、甲斐吽は微動だにせず、静かにテーブルの上に布を広げた。
「あなたのその執着の深さと、これから向き合うべき表現の因果を、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードの大アルカナが次々とテーブルの上に配置されていく。
中央に示されたのは、正位置の「愚者」のカード。行き当たりばったりの挑戦、無謀な楽観、そして現実から目を背けて夢想に浸る危うさ。
周囲を囲むカードには、「塔」の逆位置が示す崩壊から抜け出せない停滞と、「月」が示す不安と妄想に囚われた心が正確に描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は低い声で告げた。
「あなたが執着しているその数字や評価は、すでに砂上の楼閣です。それに囚われ続けることは、潮流を見失った小舟で荒海に漕ぎ出すようなものです。『愚者』のカードが示す通り、あなたがその見栄と現実逃避を手放さない限り、永遠にあなたの絵は誰の心にも届きません。そして、あなたが本当に恐れているのは『仕事がないこと』ではなく、『自分の描いたものが誰からも愛されないこと』だ」
その言葉は、美咲の胸の最も隠したかった核心を鋭く突き刺した。
図星を突かれたショックと、自分の甘さを暴かれた屈辱感から、美咲の顔から血の気が引いていく。
「知ったようなこと言わないでよ……!」
美咲はガタッと丸椅子を鳴らして立ち上がり、円卓を叩くように身を乗り出した。
「私の何を知ってるっていうのよ! 毎日必死に描いて、SNSの数字だって気にして当然でしょ! 絵の仕事が来ないのは世間の見る目がないからであって、私のせいじゃないわよ! それなのに、現実逃避だなんて勝手なこと言わないで!」
叫びながらも、美咲の声の震えは隠しきれなかった。
図星を突かれた事実から目を背け、怒りで誤魔化そうとする必死の反発だった。
しかし、甲斐吽はただ静かに、その感情の波立ちを受け止めるように見据えていた。
「怒り狂うのは、その言葉があなたの心臓を正確に射抜いているからです。自分の実力不足と向き合うことから逃げ続け、他人の評価という幻影にしがみついている限り、何度ペンを持っても同じ絶望を繰り返すことになります」
甲斐吽の静かで冷徹な指摘に、美咲の勢いは嘘のようにしぼんでいった。
張り詰めていた糸がプツリと切れたように、美咲はその場に膝から崩れ落ちる。
「……っ、そんなの、分かってた……わよ……」
美咲の目から、大粒の涙がポロポロと床の上にこぼれ落ちる。
それは他人への怒りではなく、自分の才能の限界と向き合うことから逃げ続けてきた惨めな自分への絶望の涙だった。
「諦める必要はありません。ただ、描く理由を変えなさい」
甲斐吽の眼光がわずかに和らぐ。
「他人の評価という名の重荷をすべて手放すと誓いなさい。そうすれば、この場で私があなたの因縁と不浄な執着を御祈祷し、きれいに祓い落として差し上げましょう。ただし、それにはあなたの強い覚悟が必要です。評価を恐れず、ただ自分の内なる衝動のままに描き出すという覚悟がなければ、何度ペンを持っても同じ苦しみを繰り返すことになります」
美咲は息を呑んだ。他人の目を完全に捨て、純粋に自分の表現だけに立ち返ること。
それは彼女にとって恐怖であると同時に、これ以上ないほどの圧倒的な解放感の予感でもあった。
「……わかったわ。もう数字も評価も全部捨てる」
美咲の声は震えていたが、そこには先ほどまでの見栄や狂気ではなく、削ぎ落とされた覚悟の光が灯り始めていた。
甲斐吽は静かに立ち上がると、部屋の四隅に御札を掲げ、低く重厚な声で祝詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き天地の大御神たちの大前に、畏み畏みも白す……」
「阿門甲斐吽の力をもって、時の流れを視通し、過ぎし影を照らし、来るべき道を示し、散り乱れし縁を結び直す......」
言霊の響きが空間を震わせ、美咲の背中から黒い澱のような重圧がスッと剥ぎ取られていく。
「祓え給い清め給え、祓え給い清め給え……!」
祝詞の終わりとともに、室内の張り詰めた空気が一気にほどけた。
「終わりましたよ。あなたの背負っていた悪しき因縁は、ここで断ち切られました」
甲斐吽の告げる声に、美咲は深く息を吐き出した。凭れていた重荷が消えた代わりに、生身の体が冷たい現実を剥き出しのまま受け止めている感覚がある。
「……ありがとうございました。代金はお幾らですか?」
美咲がポケットを探ろうとした時、甲斐吽は静かに手を挙げてそれを制した。
「対価の定めはありません。あなたが抱えた悩みの重みと、これから歩む覚悟の価値に見合うものを、ご自身の意思でお納めください。分割でも、形あるものでも構いません。いつか必ず納めに来てください」
金額を提示されないことに戸惑いながらも、美咲は「自分の作品の価値」ではなく「自分の生きる覚悟」を問われているのだと理解し、深く頷いた。
古びた引き戸を開けて外に出ると、頬を撫でる十一月の夜風は相変わらず冷たかったが、先ほどまでの刺すような痛さは感じられなかった。
預金残高も、仕事の依頼がないという事実も一ミリも変わっていない。
だが、うつむくばかりだった視線は、不思議とまっすぐ夜の舗道を捉えていた。
スケッチブックをしっかりと抱きしめ、美咲は冷え切った街の中へと歩き出す。
ようやく、自分の手で線を描くためのスタートラインに立ったのだ。
そして数年後、誰もが美咲の作品を目にすることになる。
【第8話(完)】




