【第7話】対価の価値
秋の冷気がアスファルトを舐めるように這い、街路樹の葉が乾いた音を立てて吹き飛ばされていく。
早瀬健一はコートの襟を立て、うつむきがちに歩いていた。
手の中で握りしめたスマートフォンには、会社からの「解雇通知」と、底を突いた「口座残高」を告げる冷たい文字が浮かんでいる。
三十代半ば、デザイン会社で培ってきたプライドは一瞬で踏みにじられ、妻と子供も生活苦から実家へと去っていった。
救いのない絶望感に突き動かされるように、健一はあてどなく夜の住宅街をさまよっていた。
ふと、冷たい秋風がぴたりと止まる。
周囲の近代的なアパートから取り残されたように、そこだけ時間が凍りついたような古い木造の一軒家が佇んでいた。看板はない。
だが、閉ざされた格子戸の隙間から、まるで心を麻痺させるような濃密な沈香の香りが漏れ出していた。
健一は吸い寄せられるようにその前に立ち、凍えた指先で古びた木製の引き戸をそっと掴んだ。
荒々しく引き剥がす気力もなく、まるで壊れ物を扱うように、指の腹でゆっくりと左右へスライドさせる。
カラカラと乾いた戸車が鳴り、静寂の中にわずかな隙間が生まれた。
室内を見渡した健一は、思わず「……なんだ、ここは」と乾いた声を漏らした。
薄暗い空間の壁一面には見慣れない民族調の仮面や古文書が無造作に吊るされ、天井からは乾いた植物が逆さにぶら下がっている。
中央の低い円卓の上では、一筋の蝋燭が不気味に揺らめいていた。
「そこまで来ておいて、踵を返すのですか」
奥の暗がりからかけられた低く重い声に、健一の肩がビクリと跳ね上がった。
そこに座っていたのは、鹿児島で代々、人間の業や因縁を取り除いてきたという生粋の霊能力者――阿門甲斐吽――だった。
その双眸は、健一が纏う失意と借金に打ちひしがれたドロドロとした執着を、すべで見透かしているかのように静かに見据えていた。
「風が止んだこんな夜は、その未練と敗北感にまみれた濁った匂いは、外を歩くだけで悪しきものを引き寄せますよ」
甲斐吽の重い声が空間を揺らす。
健一は警戒心から一歩退こうとしたが、なぜか足がその場に貼り付いたように動かなかった。
「……勝手に人の心を覗かないでくれよ」
健一は気色の悪さを振り払うように強がりながらも、目の前にある分厚い木製の丸椅子へと歩み寄った。
背もたれのないそれを両手で軽く引き寄せ、軋む音を立てないように慎重に、浅く腰掛ける。
両手で頭を抱え、荒い息を吐きながら吐き捨てるように続ける。
「噂で聞いたんだよ、ここでならどんな願いも叶うって。ねえ、教えてくれよ! 俺をクビにしたあの冷酷な上司たちを地獄に落として、会社を潰す方法はないのか? それか、一発で大金が手に入って、見返してやれるような呪いでも何でもいい! ……」
一気に吐き出された言葉には、追い詰められた人間の醜いエゴと、理不尽な社会に対するドロドロとした恨みが充満していた。
しかし、甲斐吽は眉一つ動かさず、静かに健一の目を真っ直ぐに見返した。
「人を呪い、過去の栄光に縋ることなど、この世の理に反します。あなたが抱えるその失職と家庭の崩壊は、会社のせいではありません。変化を恐れて現状にしがみつき、自らの手で未来を切り拓く気概を失ってきた、あなた自身の弱さが招いた結果にすぎません」
「なっ……ふざけんじゃない!」
健一は丸椅子の座面に両手を突き、前のめりに身体を乗り出した。
「何も知らないくせに偉そうなこと言うなよ! 家族のために必死で働いて、会社に忠誠を尽くしてきたのに、会社は俺をポイ捨てしたんだぞ! 何が悪かったって言うんだよ!」
怒号はいつしか情けない嗚咽へと変わっていった。
健一の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
それは会社への怒りではなく、自分の人生が音を立てて崩れていく恐怖に震える、惨めな男の泣き声だった。
甲斐吽はテーブルの上に静かに布を広げた。
「あなたのその執着の深さと、これから向き合うべき現実の因果を、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードが次々とテーブルの上に配置されていく。
中央に示されたのは、正位置の「塔」のカード。
崩壊した基盤、突然の破滅、そして過去の価値観からの強制的な引き剥がし。
周囲を囲むカードには、「ペンタクルスの5」が示す経済的困窮、「ソードの3」が刺さる心を引き裂く裏切りが正確に描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は低い声で告げた。
「あなたが執着しているその会社や過去の肩書きは、すでに砂上の楼閣です。それに縋り続けることは、難破した船の残骸にしがみついて冷たい海に沈むのと同じことです。『塔』のカードが示す通り、あなたがその過去の幻影を手放さない限り、永遠にその苦しみから逃れることはできません。そして、あなたが本当に恐れているのは『仕事を失ったこと』ではなく、『何者でもなくなった自分を直視すること』だ」
その言葉は、健一の胸の最も隠したかった核心を鋭く突き刺した。
健一は展開されたカード群を凝視したまま、息を呑んだ。
「……じゃあ、俺はどうすればいいんだよ。このまま仕事も金も失った敗者として、一生這い上がれずに生きろって言うのかよ」
「這い上がる必要はありません。一度、地に足をつけなさい」
甲斐吽の眼光がわずかに鋭くなった。
「過去の肩書きや会社への恨みという名の重荷をすべて手放せるように、この場で私があなたの因縁と不浄な執着を御祈祷し、きれいに祓い落として差し上げましょう。ただし、それにはあなたの強い覚悟が必要です。失うことを恐れず、ゼロから自分の足で歩き出すという覚悟がなければ、何度助けても同じ過ちを繰り返すことになります」
健一は息を呑んだ。これまでの人生のプライドをすべて捨て、ゼロから再出発すること。
それは彼にとって死刑宣告のような恐怖であると同時に、これ以上ないほどの圧倒的な解放感の予感でもあった。
「……わかったよ。もう全部捨てる。だから、俺をこの地獄から抜け出させてくれ」
健一の声は震えていたが、そこにはさきほどまでの狂気ではなく、濁りのない覚悟の光が灯り始めていた。
甲斐吽は静かに立ち上がると、部屋の四隅に御札を掲げ、低く重厚な声で祝詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き天地の大御神たちの大前に、畏み畏みも白す……」
阿門甲斐吽の力をもって、時の流れを視通し、過ぎし影を照らし、来たるべき道を示し、散り乱れし縁を結び直す。
言霊の響きが空間を震わせ、健一の背中から黒い澱のような重圧がスッと剥ぎ取られていく。
「祓え給い清め給え、祓え給い清め給え……!」
祝詞の終わりとともに、室内の張り詰めた空気が一気にほどけた。
「終わりましたよ。あなたの背負っていた悪しき因縁は、ここで断ち切られました」
甲斐吽の告げる声に、健一は深く息を吐き出した。
凭れていた重荷が消えた代わりに、生身の体が冷たい現実を剥き出しのまま受け止めている感覚がある。
「……ありがとうございました。一体、いくら払えばいいんですか」
健一がポケットを探ろうとした時、甲斐吽は静かに手を挙げてそれを制した。
「対価の定めはありません。あなたが抱えた悩みの重みと、これから歩む覚悟の価値に見合うものを、ご自身の意思でお納めください。分割でも、形あるものでも構いません。いつか必ず納めに来てください」
金額を提示されないことに戸惑いながらも、健一は「自分の価値」を問われているのだと理解し、深く頷いた。
古びた引き戸を開けて外に出ると、頬を撫でる秋の夜風は相変わらず冷たかったが、さきほどまでの刺すような痛さは感じられなかった。
財布の中身も、職もないという事実は一ミリも変わっていない。
だが、うつむくばかりだった視線は、不思議とまっすぐ夜の舗道を捉えていた。
ポケットの中で拳を強く握りしめ、健一は冷え切った街の中へと歩き出す。
救われたのではない。
ようやく、自分の足で立つためのスタートラインに立ったのだ。
第 7話(完)




