【第6話】明日への扉
じっとりとした汗が背中を伝う真夏の夜、高村由香は引き攣った笑みを浮かべたまま、スマートフォンを手の中で激しく震わせていた。
画面に映っているのは、美容外科の予約確認画面と、未払いのまま積み上がっていく医療ローンの督促通知。
二十代半ば。
SNSで目にする完璧なインフルエンサーたちの美しさに魅せられ、いつしか由香の心は「もっと可愛くなければ価値がない」という強迫観念に支配されていた。
最初は二重の整形手術から始まった。
次は鼻、輪郭、そして身体の脂肪吸引。
周囲から「綺麗になったね」と褒められるたびに自己肯定感が満たされる気がしたが、終わりなき美の追求は、やがて由香の預金残高を完全に食いつぶした。
親のカードを勝手に使い込み、消費者金融にまで手を出して迎えた現在、手元に残ったのは数百万の借金と、何度もの手術で不自然に引き攣った自分の顔だった。
鏡を見るたび、自分が自分ではない怪物のように思えて発狂しそうになる。
それでも、SNSに流れる「いいね」の数を失うのが怖くて、加工アプリで作り上げた偽りの笑顔を発信し続けるしかなかった。
「私、いったい何をやっているんだろう……」
誰にも言えない秘密と、膨らみ続ける借金の重圧が、由香の精神を内側からぐちゃぐちゃに破壊していく。
助けてくれる友達も、本当の意味で愛してくれる恋人もいない。
すべては、自分の浅はかな虚栄心が招いた自業自得だった。
だが、それ以上に由香を蝕んでいたのは、「愛されない恐怖」という名の底なし沼だった。
幼い頃から両親の不仲の中で育ち、誰かに必要とされることでしか自分の存在価値を確認できなかった彼女にとって、美しさとは、この世界で生き残るための唯一の防壁だったのだ。
どこへ逃げても、この現実から目を背けることはできない。
そう絶望しながら、由香は熱気のこもった街をあてどなくさまよい歩いた。
ネオンがまばらに光る寂れた商店街を抜け、海沿いの古びた住宅街に迷い込んだとき、まとわりつくような湿った熱気がふと止んだ。
街灯の少ないその一角に、周囲の近代的なコンクリートのビル群に取り残されたように、妙に古い木造建築がぽつんと建っていた。
看板はない。
ただ、窓の隙間から、どこか懐かしい香炉の匂いが外に漏れ出している。
それは遠い記憶の底を優しく揺り起こすような、白檀の香りだった。
由香の足が止まった。
頭で考えるよりも先に、心がその場所を求めていた。
名もなき悩みを抱えたまま、人は今日も扉を叩く――そんな言葉が、どこからともなく由香の脳裏に浮かんだ。
なぜそんな言葉が浮かんだのか自分でもわからない。
ただ、ここに行かなければならないという、奇妙な引力だけがあった。
由香は震える手で、古びた木製の扉の取っ手を引き、おずおずと開いた。
ギィ、と乾いた蝶番の音が静寂を切り裂く。
室内を見渡した由香は、思わず「うそ……なにここ」と息を呑んだ。
薄暗い部屋の壁一面には奇妙な呪具や古文書が並び、中央の小さなテーブルの上には得体の知れない静寂が漂っている。
いかがわしい新興宗教の集会場か、あるいは悪趣味なオカルトショップにしか見えなかった。
こんなあやしげな場所に来たところで、自分の借金も、崩れかけた顔のコンプレックスも消えるわけがない。
そう引き返そうとしたその時だった。
「……ここまで来ておいて、引き返すのですか」
テーブルの向こう側からかけられた低く重い声に、由香の足がピタリと止まった。
そこに座っていたのは、代々、人間の業や因縁、霊的な障りを取り除き続けてきたという生粋の霊能力者――阿門甲斐吽――だった。
その双眸は、由香が纏う承認欲求の亡霊のような気配や、整形と借金に狂わされたドロドロとした執着の因果を、まるですべてお見通しであるかのように静かに見据えていた。
「その虚栄心と自己否定にまみれた醜い匂いは、外を歩くだけで悪しきものを引き寄せますよ」
甲斐吽の声は、不思議と由香の耳の奥に直接突き刺さるような重みを持っていた。
警戒心から一歩退こうとした足が、なぜかその場に金縛りにあったように動かなくなった。
「……勝手に人の心を覗かないでよ!」
由香は半泣きになりながら、その場に崩れ落ちる。
両手で顔を覆い、荒い息を吐きながら吐き捨てるように続ける。
「ねえ、教えてよ! 私をこんな借金まみれにして、整形中毒にした美容外科医たちを地獄に落としてよ! それか、一発で大金が手に入って、誰もが羨むような完璧な顔と身体になれる呪いでも何でもいいわ! お金なら、払えるわけないけど……何でもするから!」
一気に吐き出された言葉には、追い詰められた人間の醜いエゴと、SNS社会の闇に毒されたドロドロとした嫉妬と絶望が充満していた。
甲斐吽は眉一つ動かさず、ただ静かに由香の目を真っ直ぐに見返した。
「人を呪い、虚像の美しさに縋ることなど、この世の理に反します。あなたが抱えるその借金と心の崩壊は、医者のせいではありません。他人の目を気にして自分の本質を売り渡し、歪んだ承認欲求に溺れて自ら運気をすり潰してきた、あなた自身の弱さが招いた結果にすぎません」
「なっ……ふざけんじゃないわよ!」
由香はテーブルを激しく叩いた。
「何も知らないくせに偉そうなこと言わないでよ! みんな可愛い子ばかりチヤホヤして、ブサイクな人間なんて誰も見向きもしない世の中じゃない! 私だって、愛されたかっただけなのに……! 誰も私を見てくれないから、せめて綺麗にならなきゃって思ったことの何が悪いっていうのよ!」
怒号はいつしか情けない嗚咽へと変わっていった。
由香の目から、マスカラが滲んだ涙がボロボロとこぼれ落ちる。
それは他者への怒りではなく、誰にも愛されない恐怖に震える、幼い子供のような泣き声だった。
甲斐吽はテーブルの上に静かに布を広げた。
「あなたのその執着の深さと、これから向き合うべき現実の因果を、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードが次々とテーブルの上に配置されていく。
現在の状況、過去の原因、未来の展開、潜在的な意識、周囲の障壁、本人の望み、そして最終結果が多角的に映し出される。
中央に示されたのは、逆位置の「悪魔」のカード。物質的な執着、歪んだ依存、そして自分で自分にかけた呪縛からの逃避不能。
周囲を囲むカードには、「ペンタクルスの5」が示す経済的・精神的な困窮、「ソードの3」が刺さる心を引き裂く自己嫌悪、そして「隠者」の逆位置が示す、孤独と現実逃避のどん底が残酷なほど正確に描き出されていた。
さらに未来を示す位置には、逆位置の「星」のカード。理想の喪失と、過度な幻想の崩壊が示されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は低い声で告げた。
「あなたが執着しているその美しさや他人の評価は、砂上の楼閣でしかありません。『悪魔』のカードが示す通り、あなたがその歪んだ執着の手を離さない限り、永遠にその苦しみから逃れることはできません。そして、あなたが本当に恐れているのは『ブスだと言われること』ではなく、『誰も自分を愛してくれないという事実を直視すること』だ」
「……じゃあ、私はどうすればいいのよ。このまま借金まみれの醜い敗者として、一生一人で生きていけって言うの?」
「一人で生きる必要はありません」
甲斐吽の眼光がわずかに鋭くなった。
「他人の評価という名の呪いをすべて手放し、この場で私があなたの因縁と歪んだ執着を御祈祷し、きれいに祓い落として差し上げましょう。ただし、それにはあなたの強い覚悟が必要です。偽りの美しさを捨て、他人の愛を乞う生き方をやめ、自分の足で立つという覚悟がなければ、何度助けても同じ過ちを繰り返すことになります」
由香は息を呑んだ。
整形で作った虚像を捨て、他人の「いいね」に依存する生き方を完全に断ち切ること。
それは彼女にとって死刑宣告のような恐怖であると同時に、これ以上ないほどの圧倒的な解放感の予感でもあった。
しかし、その恐怖を乗り越えなければ、自分は永遠にこの地獄から抜け出すことはできない。
由香は震える両手で自分の頬を包み込み、そして、これまでの人生で一度もやったことのない「本当の決断」を下すために、大きく息を吸い込んだ。
「……わかったわよ。もう全部捨てるから。だから、私をこの地獄から助けて」
由香の声は震えていたが、そこにはさきほどまでの狂気ではなく、濁りのない覚悟の光が灯り始めていた。
甲斐吽は静かに立ち上がり、部屋の四隅に御札を掲げると、低く重厚な声で祝詞を唱えながら、霊力を込めた印を結んだ。
室内の空気が一瞬で凍りついたように重くなり、由香の背中を冷たいものがサーッと駆け抜ける。
目に見えない黒い澱みのようなもの、すなわち彼女の執着と嫉妬の念が、由香の背中から剥ぎ取られ、燭台の炎の中に吸い込まれて消えていく。
儀式を終えた甲斐吽がゆっくりと息を吐き、静かに告げた。
「終わりました。あなたの背負っていた悪しき因縁は、ここで断ち切られました」
由香は大きく息を吸い込んだ。
胸の奥に長年つかえていた鉛のような塊が、嘘のように消え去っているのを感じた。
「……ありがとうございました」
由香は立ち上がり、初めて深い敬意を込めて甲斐吽に一礼した。
その顔には、承認欲求に狂っていた女の面影はなく、新しい人生を自分の足で歩き出す一人の人間の引き締まった横顔があった。
占い処を出たとき、顔を撫でる夜風は、さきほどまでのむせ返るような熱気が嘘のように、どこか涼しさを帯びて心地よく感じられた。
見上げる夜空には、都会の光に負けない星がいくつか瞬いている。
胸の奥に灯った小さな火は、もう二度と消えることはない。
彼女は自分の明日へと続く扉を開いたのだ。
【第6話】(完)




