【第5話】捨てる覚悟
猛烈な太陽の光がアスファルトを白く焼き付け、逃げ場のない熱気が街全体をねっとりと包み込んでいる。
うだるような暑さの中、大野健太は汗だくのシャツの襟元を乱暴に引っ張りながら、荒い息を吐いていた。
頭の中にあるのは、通帳の残高と、今月末に迫った借金の返済日のことだけだった。
小さな印刷所を営んでいた父親が急逝し、後を継いだものの、設備は古く、大手との競合に敗れて経営は傾く一方だった。
どうにか立て直そうと手を出した融資や、一発逆転を狙った投資が裏目に出て、気づけば数千万円という途方もない負債を抱え込んでいた。
「ふざけやがって……なんで俺ばっかり……」
頼みの綱だった親族たちも、「自業自得だ」「関わりたくない」と冷たく背を向け、それどころか遺産の土地やわずかに残った機材を巡って、血で血を洗うような醜い奪い合いが水面下で繰り広げられていた。
実の兄弟からは「お前のせいで家の恥だ」と罵られ、妻は子供を連れて実家に帰ってしまった。
誰も助けてくれない。
誰も味方はいない。
このまま首を吊るか、それともすべてを投げ出して夜逃げするか。
そんな破滅的な思考が、ドロドロとした熱気とともに脳内を駆け巡る。
すがるような思い、いや、むしろ藁にもすがる思いですらない。
ただ、この絶望的な現実から目を背けさせてくれる何かを探すように、健太は目的もなく夜の街を彷徨い歩いていた。
ネオンがまばらに光る寂れた商店街を抜け、海沿いの古びた住宅街に迷い込んだとき、生ぬるい南風がふと止んだ。
街灯の少ないその一角に、周囲のコンクリートのビル群に取り残されたように、妙に古い木造建築がぽつんと建っていた。
看板はない。
ただ、窓の隙間から、どこか懐かしい香炉の匂いが外に漏れ出している。
健太の足が止まった。
頭で考えるよりも先に、心がその場所を求めていた。
名もなき悩みを抱えたまま、人は今日も扉を叩く――そんな言葉が、どこからともなく健太の脳裏に浮かんだ。
なぜそんな言葉が浮かんだのか自分でもわからない。
ただ、ここに行かなければならないという、奇妙な引力だけがあった。
健太は怯えたように震える手で、古びた木製の扉の取っ手を掴み、半ば無理やり引き開いた。
ギギィ、と耳障りな蝶番の音が響く。
室内を見渡した健太は、思わず「なんだこれ……」と小さく呟いた。
薄暗い部屋の壁一面には怪しげな呪具や骨董品が雑然と並び、中央の小さなテーブルの上には不気味な静寂が漂っている。
インチキ霊媒師の隠れ家か、あるいは悪質な新興宗教の拠点にしか見えなかった。
こんなあやしげな場所に、自分の借金が消える奇跡なんてあるわけがない。
そう引き返そうとしたその時だった。
「……ここまで来ておいて、帰るのですか」
テーブルの向こう側からかけられた低く重い声に、健太の足がピタリと止まった。
そこに座っていたのは、代々人間の業や因縁、霊的な障りを取り除き続けてきたという生粋の霊能力者――阿門甲斐吽――だった。
その双眸は、健太が纏う切羽詰まった貧乏神の気配や、親族間のドロドロとした金銭トラブルの因果を、まるですべてお見通しであるかのように静かに見据えていた。
「その濁りきった欲と絶望の匂いは、外を歩くだけで不浄のものを引き寄せますよ」
甲斐吽の声は、不思議と健太の耳の奥に直接突き刺さるような重みを持っていた。
警戒心から一歩退こうとした足が、なぜかその場に金縛りにあったように動かなくなった。
「……ふざけんなよ。アンタに何が分かるって言うんだ」
健太は捨て鉢な態度で、勝手にパイプ椅子を引き寄せてドカッと腰を下ろした。
両手で頭を抱え、荒い息を吐きながら吐き捨てるように続ける。
「おい、教えてくれよ! 俺の会社を潰したあの叔父どもに天罰を下して、奪われた遺産を取り戻す方法はないのか? それか、一発で大金が手に入るギャンブルの勝ち方でも、誰にもバレずに借金を帳消しにする呪いでも何でもいい! 金なら工面するからさ、教えてくれよ!」
一気に吐き出された言葉には、追い詰められた人間の醜いエゴと、泥沼の金銭トラブルに端を発するドロドロとした憎悪が充満していた。
甲斐吽は眉一つ動かさず、ただ静かに健太の目を真っ直ぐに見返した。
「人を呪い、一発の僥倖に縋ることなど、この世の理に反します。あなたが抱えるその借金と家族の崩壊は、叔父たちのせいではありません。現実逃避を続け、目先の欲に目が眩んで自ら運気をすり潰してきた、あなた自身の弱さが招いた結果にすぎません」
「なっ……ふざけるな!」
健太はテーブルを激しく叩いた。
「何も知らないくせに偉そうなこと言うな! 父さんが遺した工場を守ろうとして必死だったんだ! 周りが俺を嵌めようとして、誰も助けてくれなくて、どうしようもなかったから……!」
怒号はいつしか情けない嗚咽へと変わっていった。
健太の目から、悔し涙と情けなさの入り混じった涙がポロポロとこぼれ落ちる。
甲斐吽はテーブルの上の燭台に静かに灯りをともす。
「あなたのその焦燥の深さと、これから向き合うべき現実の因果を、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードが次々とテーブルの上に配置されていく。
現在の状況、過去の原因、未来の展開、潜在的な意識、周囲の障壁、本人の望み、そして最終結果を多角的に映し出す。
中央に示されたのは、逆位置の「ペンタクルスの10」のカード。
家系の崩壊、遺産や金銭を巡る争いの泥沼、そして基盤の喪失。
周囲を囲むカードには、「ソードの5」が示す不毛な争いと敗北、「ペンタクルスの3」の逆位置が示す技術や協力関係の完全な欠如、そして「塔」の正位置が示す、積み上げてきた虚偽の崩壊と強制的なリセットが残酷なほど正確に描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は低い声で告げた。
「あなたが執着しているその遺産や工場は、すでにあなたの手では守りきれないところまで腐敗しています。それに縋り続けることは、沈みゆく泥舟にしがみついて一緒に海底へ沈むのと同じことです。『塔』のカードが示す通り、一度すべてを更地にしなければ、新しい光は差し込みません」
健太は展開されたカード群を凝視した。
耳が痛いほどの現実が、そこに絵柄として残酷に浮かび上がっている。
自分がどれほど見栄と執着に囚われていたのかが、嫌というほど突き付けられた。
「……じゃあ、俺はどうすればいいんだよ。すべてを失って、借金まみれのまま、ただの敗者として死ねって言うのかよ」
「死ぬ必要はありません」
甲斐吽の眼光がわずかに鋭くなった。
「過去の遺産や親族への憎悪という重荷をすべて手放しなさい、この場で私があなたの因縁と不浄な金銭の執着を御祈祷し、きれいに祓い落として差し上げましょう。ただし、それにはあなたの強い覚悟が必要です。過去の看板を捨て、ゼロから這い上がるという覚悟がなければ、何度助けても同じ過ちを繰り返すことになります」
健太は息を呑んだ。
親の工場を手放し、プライドを完全に捨てること。
それは恐怖であると同時に、これ以上ないほどの圧倒的な解放感の予感でもあった。
「……わかったよ。もう全部捨てる。だから、俺をこの地獄から救ってくれ」
健太の声は震えていたが、そこにはさきほどまでの狂気ではなく、濁りのない覚悟の光が灯り始めていた。
甲斐吽は静かに立ち上がり、部屋の四隅に御札を掲げると、低く重厚な声で祝詞を唱えながら、霊力を込めた印を結んだ。
室内の空気が一瞬で凍りついたように重くなり、健太の背中を冷たいものがサーッと駆け抜ける。
目に見えない黒い澱のようなものが、健太の背中から剥ぎ取られ、燭台の炎の中に吸い込まれて消えていくような感覚があった。
数分後、儀式を終えた甲斐吽がゆっくりと息を吐き、静かに告げた。
「あなたの背負っていた悪しき因縁は、ここで断ち切られました」
健太は大きく息を吸い込んだ。
胸の奥に長年つかえていた鉛のような塊が、嘘のように消え去っているのを感じた。
「……ありがとうございました」
健太は立ち上がり、初めて深い敬意を込めて甲斐吽に一礼した。
その顔には、泥沼を這いずり回っていた男の面影はなく、新しい人生を一からやり直す一人の人間の引き締まった横顔があった。
占い処を出たとき、顔を撫でる南風は、さきほどまでの蒸し暑さが嘘のように、どこか涼しさを帯びた心地よい夜風に変わっていた。
見上げる夜空には、都会の光に負けない星がいくつか瞬いている。
健太は自分の手のひらの重みを確かめるように、しっかりとアスファルトを踏みしめながら歩き出した。
第 5話】(完)




