【第4話】指輪の跡
八月の南風が、アスファルトの照り返しが残る街の空気をごりごりと無理やりかき混ぜるように吹き抜けていく。
神崎美鈴は、左手の薬指にある、きれいに跡が残った白い日焼けの線を、右手の人差し指で何度も乱暴に爪立てて削るように擦っていた。
心臓が不規則に跳ねる。
職場の給湯室で聞いたあの噂が、耳の奥でずっと反響していた。
営業部の同期である美鈴が、総務課の既婚者である片桐と関係を持ってから、もう三年が経つ。
妻とは別れる、家庭内は冷え切っている、少しだけ待ってくれ――その決まり文句を信じ続けた結果がこれだった。
片桐は最近、新しい後輩の二十代前半の女の子と頻繁に外回りに出るようになり、美鈴と目を合わせることすら避けるようになっていた。
奪うつもりなんてなかった。
ただ、彼の寂しさを埋めるのは自分しかいないと信じたかった。
なのに、この扱いは何だ。
私は、あの男の人生の便利な道具にされていただけなのか。
それとも、あの泥沼のような家庭に入り込み、すべてをめちゃくちゃにして、あの女と片桐を引き裂いてやれば、この胸の痛みは消えるのだろうか。
愛しているのか、それともただの執着なのか、自分でももう区別がつかない。
ただ、この胸の底に渦巻くドロドロとした黒い感情をどうにかしなければ、頭がおかしくなりそうだった。
スマホの画面には、既読のつかないメッセージ画面が冷たく光っている。
「……ふざけんなよ……」
乾いた声が、湿った夜の空気の中に溶けて消えた。
美鈴はヒールの高いパンクロックのような黒いブーツでアスファルトを蹴散らすようにして、あてどなく歩いた。
ネオンがまばらに光る寂れた商店街を抜け、海沿いの古びた住宅街に迷い込んだとき、湿り気を帯びた生暖かい南風がふと止んだ。
街灯の少ないその一角に、妙に古い木造建築がぽつんと建っていた。
周りのコンクリートのビル群に取り残されたように、そこだけ時間が止まっているように見える。
看板はない。
ただ、窓の隙間から、どこか懐かしい香炉の匂いが外に漏れ出している。
美鈴の足が止まった。
頭で考えるよりも先に、心がその場所を求めていた。
名もなき悩みを抱えたまま、人は今日も扉を叩く――そんな言葉が、どこからともなく美鈴の脳裏に浮かんだ。
なぜそんな言葉が浮かんだのか自分でもわからない。
ただ、ここに行かなければならないという、奇妙な引力だけがあった。
美鈴はためらうことなく、
古びた木製の扉の取っ手を乱暴に掴み、勢いよく開いた。
蝶番の乾いた音が響く。
室内を見渡した美鈴は、思わず鼻白んだ。
薄暗い部屋の壁一面には古そうな本や古文書など怪しげな呪具が並び、中央の小さなテーブルには不気味なほどの沈黙が満ちている。
いかがわしい新興宗教の拠点か、あるいはただの悪趣味な骨董品屋にしか見えなかった。
こんなところに何があるというのか。
冷めた嘲笑が口元に浮かびかけたその時だった。
「……どうぞ、お入りなさい」
テーブルの向こう側からかけられた低い声に、美鈴の背筋がピクリと跳ねた。
そこに座っていたのは、代々、人間の業や因縁、霊的な障りを取り除き続けてきたという生粋の霊能力者――阿門甲斐吽――。
その双眸は、美鈴が纏う醜いほどの執着や、生々しい嫉妬の色を、まるで透き通ったガラスを見るかのように静かに見据えていた。
「風が強い夜ですね。その荒れた心では、外を歩くだけで足元をすくわれますよ」
甲斐吽の声は、不思議と美鈴の耳の奥に直接響くような重みを持っていた。
警戒心から一歩引こうとした足が、なぜかその場に釘付けになる。
「……何よ、勝手に人の心を覗いたみたいな言い方して」
美鈴は吐き捨てるように言い放つと、促されることもなく、勝手に椅子を引き寄せてドカッと腰を下ろした。
腕を組み、冷ややかな視線を甲斐吽に向ける。
「噂で聞いたのよ、この変な小屋で、どんな願いでも叶えてくれるって。ねえ、教えてよ。私を裏切った男と、その男を横取りしたあの小娘を、二度と浮気できないように、あるいは社会的に破滅させるような方法はないわけ? それか、あの男の心を私だけに縛り付けるような呪いでも何でもいいわよ。お金なら払うわ」
一気に吐き出された言葉には、不倫という泥沼の中で煮詰まったドロドロとした憎悪がたっぷりと含まれていた。
綺麗事など一切ない、人間の剥き出しの執念だった。
甲斐吽は眉一つ動かさず、ただ静かに美鈴の目を真っ直ぐに見返した。
「人を呪い、縛り付けることなど、この世の理に反します。あなたのその怒りは、片桐という男に向けられているようでいて、実は『彼に選ばれなかった自分』の価値を受け入れられない恐怖から目を背けるための、身勝手な防衛心にすぎません」
「なっ……ふざけんじゃないわよ!」
美鈴はテーブルを激しく叩いた。
「何も知らないくせに! 私はあの人のためにどれだけの時間を無駄にしたと思っているの! 奥さんにバレないように耐えて、都合の良い女として扱われて、それでも捨てられた私の気持ちのどこが防衛心よ! あんなクズ男、この世から消えてしまえばいいのに、それでもまだ心のどこかで縋っている自分が情けなくて、惨めで……!」
怒号はいつしか嗚咽混じりの震え声に変わっていた。
美鈴の目から、大粒の涙がポロポロと頬を伝い落ちる。
甲斐吽はテーブルの上に静かに布を広げた。
「あなたのその執着の深さと、これから歩むべき現実の因果を、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードが次々とテーブルの上に配置されていく。
では、今から現在の状況、過去の原因、未来の展開、潜在的な意識、周囲の障壁、本人の望み、そして最終結果を多角的に映し出す「ヘキサグラム」の配置で観ていきましょう。
中央に示されたのは、逆位置の「恋人」のカード。
選べない優柔不断さと、不誠実な関係の破綻。
周囲を囲むカードには、「ソードの3」が刺さる心を引き裂く悲しみ、「ペンタクルスの5」が示す経済的・精神的な困窮、そして「悪魔」の逆位置が示す、呪縛からの強制的な解放と依存からの目覚めが残酷なほど正確に描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は低い声で告げた。
「あなたが執着しているその男は、愛など持っていません。ただ自分の保身と欲望を満たすための器でしかなかった。その男にあなたの人生の主導権を預け続けることは、自ら泥沼に沈んでいくのと同じことです。悪魔の鎖は、あなたがその手を離さない限り、永遠にあなたを縛り続けます」
美鈴は展開されたカード群を凝視した。
耳が痛いほどの真実が、そこに絵柄として浮かび上がっている。
不倫という名の自己満足の檻の中で、自分がどれほど醜く歪んでいたのかが、嫌というほど突きつけられた。
「……じゃあ、私はどうすればいいのよ。このまま泣き寝入りして、あいつらを許さなきゃいけないわけ?」
「許す必要などありません」
甲斐吽の眼光がわずかに鋭くなった。
「許すのではなく、断ち切るのです。霊的な障りも含め、私があなたのその腐れ縁をこの場で御祈祷し、きれいさっぱり祓い落として差し上げましょう。ただし、それにはあなたの強い意志が必要です。あの男の影をあなたの人生から完全に消去し、二度と振り返らないという覚悟がなければ、何度縁を切っても、また別の泥沼を引き寄せることになります」
美鈴は息を呑んだ。
片桐の名前を、記憶のすべてから消し去る。
それは恐怖であると同時に、これ以上ないほどの圧倒的な解放感の予感でもあった。
「……お願い。私を、その呪縛から引っぺがしてよ」
美鈴の声は震えていたが、そこには先ほどまでの狂気ではなく、濁りのない決意の光が灯り始めていた。
甲斐吽は静かに立ち上がり、部屋の四隅に御札を掲げると、低く重厚な声で祝詞を唱えながら、霊力を込めた印を結んだ。
室内の空気が一瞬で凍りついたように重くなり、美鈴の背中を冷たいものがサーッと駆け抜ける。
目に見えない黒い澱のようなものが、美鈴の背中から剥ぎ取られ、燭台の炎の中に吸い込まれて消えていくような感覚があった。
数分後、儀式を終えた甲斐吽がゆっくりと息を吐き、静かに告げた。
「終わりました。あなたの過去の因縁は、ここで断ち切られました」
美鈴は大きく息を吸い込んだ。
胸の奥に長年つかえていた鉛のような塊が、嘘のように消え去っているのを感じた。
スマホの画面を取り出し、ブロックリストを開く。
片桐の名前を選択し、何の迷いもなく「削除」のボタンを押した。
「……ありがとうございました」
美鈴は立ち上がり、初めて深い敬意を込めて甲斐吽に一礼した。
その顔には、泥沼を這いずり回っていた女の面影はなく、新しい人生を取り戻した一人の人間の誇らしげな横顔があった。
占い処を出たとき、顔を撫でる南風は、さきほどまでの湿り気が嘘のように、カラッとした心地よい夜風に変わっていた。
見上げる夜空には、都会の光に負けない星がいくつか瞬いている。
美鈴は自分の手のひらの重みを確かめるように、しっかりとアスファルトを踏みしめながら歩き出した。
胸の奥に灯った小さな火は、もう二度と消えることはない。
第 4話(完)




