【第10話】凍てつく夜の終着点
十二月の半ばを過ぎ、鹿児島市内の空気はすっかり真冬の様相を呈していた。
桜島の方向から吹き抜ける季節風は、天文館の賑やかなイルミネーションの光を冷たく揺らし、歩行者たちのコートの襟元を容赦なく引き締める。
アスファルトは冷え切って硬質に輝き、息を白く染めながら足早に行き交う人々の影には、どこか慌ただしい年末特有の焦燥が張り付いていた。
その光景から少し離れた、古いビルが身を寄せ合う狭い路地裏。
その細い路地の一角に、古い木造家屋の黒い板壁がひっそりと佇んでいた。
そこだけは時間が凍りついたように、街の喧騒が奇妙なほどに届かない。
桐生真奈美は、冷え切ったアスファルトにヒールを鳴らしながら、頼りない足取りで暗がりを進んでいた。
手元のスマートフォンが示す地図アプリのピンは、まさにこの古い木造家屋の目の前を指している。
しかし、看板どころか表札すら掲げられていないその黒い板壁は、まるで訪れる者を拒絶するかのように重々しく静まり返っていた。
「ここ……本当に、あってるの……?」
真奈美はかすれた声で呟き、両手で抱え込んだ革製のブリーフケースをぎゅっと胸元に引き寄せた。
三十代前半の真奈美は、市内の老舗金融機関で融資担当の課長補佐を務めている。
仕事への誇りと責任感を持ち、誰よりも厳しく自分を律してここまでキャリアを築いてきた。
だが、今年に入ってから組織の統廃合に伴う大規模な人事異動があり、彼女の状況は一変した。
古い因習にとらわれた上司からの理不尽な査定、部下たちの突き上げるような不満、そして何より、「女性管理職の枠」という目に見えないプレッシャーに押し潰されそうになっていた。
自分の実力で勝ち取ってきたはずの立場が、いつの間にか周囲の顔色を窺うための仮面になり果てている。
家庭を顧みる余裕もなく、心身は限界を超えていた。
ネットの片隅で見かけた「どんな迷いも断ち切る奇妙な家」の噂にたどり着いたのは、まさにそんな時だった。
誰にも弱音を吐けず、完璧を演じ続けなければならない自分の心が、音を立てて崩れ落ちる直前のことだった。
ふと、それまで頬を打っていた冷たい木枯らしが、嘘のようにぴたりと止まった。
閉ざされた古い格子戸の隙間からは、濃密な沈香の香りが漂っている。
真奈美は凍えた指先で、古びた木製の引き戸にそっと触れた。
恐る恐る指の腹で左右へスライドさせると、カラカラと乾いた戸車が鳴り、静寂の中にわずかな隙間が生まれた。
中を覗き込むと、薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や古文書が無造作に吊るされ、天井からは乾いた植物がぶら下がっている。
中央の円卓の上では、一筋の蝋燭が不気味に揺らめいていた。
「……うわ、何ここ。変な臭い……それに、この薄気味悪さは……」
思わず呟いた真奈美は、足を踏み入れるのを一瞬ためらったが、引き返しても明日の職場が待っているだけの絶望感から、おそるおそる戸を押し広げて中へ入った。
円卓の前に置かれた丸椅子に、真奈美は恐る恐る腰掛け、バッグを膝の上に抱え込む。
怯えを隠すように強気な態度を作ると、奥の暗がりへ向かって声を張り上げた。
「あの、ネットの噂を見て来たんですけど……。ここで私の仕事のストレスがなくなるような、お守りとか、そういうの売ってもらえないですか? お金は……それなりに出せるので、早くどうにかしてほしいんです」
必死にビジネスライクな調子で切り出した真奈美だったが、奥の暗がりから姿を現した男――阿門甲斐吽の、底知れぬ光を宿した双眸に捉えられた瞬間、言葉を詰まらせた。
「凍てつくこんな夜は、その強がりと、誰にも弱音を吐けずにすり減らした心の澱みが、外を歩くだけで悪しきものを引き寄せますよ」
甲斐吽の重い声が空間を揺らす。真奈美はドキリと心臓を跳ね上がらせたが、図星を突かれた気恥ずかしさと動揺から、慌ててツンと顔をそむけた。
「な、何よ勝手に……。人の顔見ていかにもって感じのこと言わないでよ。私はただ、組織でうまくやるためのアドバイスが欲しくて来ただけなんだからね!」
あからさまな虚勢を張る真奈美に、甲斐吽は微動だにせず、静かにテーブルの上に布を広げた。
「あなたのその執着の深さと、これから向き合うべき表現の因果を、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードの大アルカナが次々とテーブルの上に配置されていく。
中央に示されたのは、正位置の「正義」のカード。
歪んだ均衡、自身の正当性への固執、そして融通の利かない厳格すぎる姿勢。
周囲を囲むカードには、「隠者」の逆位置が示す孤独な引きこもりと、「塔」の逆位置が示す崩壊を恐れてしがみつく保身が正確に描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は低い声で告げた。
「あなたが執着しているその正当性や評価は、すでに砂上の楼閣です。それに囚われ続けることは、潮流を見失った小舟で荒海に漕ぎ出すようなものです。『正義』のカードが示す通り、あなたがその見栄と完璧主義を手放さない限り、永遠にあなたの心は救われません。そして、あなたが本当に恐れているのは『仕事の失敗』ではなく、『完璧ではない無能な自分を他人に知られること』だ」
その言葉は、真奈美の胸の最も隠したかった核心を鋭く突き刺した。
図星を突かれたショックと、自分の甘さを暴かれた屈辱感から、真奈美の顔から血の気が引いていく。
「知ったようなこと言わないでよ……!」
真奈美はガタッと丸椅子を鳴らして立ち上がり、身を乗り出した。
「私の何を知ってるっていうのよ! 毎日必死に数字を追って、部下に舐められないように完璧を演じて、何が悪いっていうの! 組織で生き残るためにはこうするしかないでしょ! それなのに、理想論ばかり並べ立てて勝手なこと言わないで!」
叫びながらも、真奈美の声の震えは隠しきれなかった。
図星を突かれた事実から目を背け、怒りで誤魔化そうとする必死の反発だった。
しかし、甲斐吽はただ静かに、その感情の波立ちを受け止めるように見据えていた。
「怒り狂うのは、その言葉があなたの心臓を正確に射抜いているからです。自分の限界を認めず、強がりという名の鎧を纏い続けている限り、何度環境を変えようと、同じ孤独と重圧の地獄を繰り返すことになります」
甲斐吽の静かで冷徹な指摘に、真奈美の勢いは嘘のようにしぼんでいった。
張り詰めていた糸がプツリと切れたように、真奈美はその場に膝から崩れ落ちる。
「……っ、そんなの、分かってた……わよ……」
真奈美の目から、大粒の涙がポロポロと床の上にこぼれ落ちる。
それは他人への怒りではなく、誰にも頼れず、常に完璧を演じ続けなければならなかった惨めな自分への絶望の涙だった。
「諦める必要はありません。ただ、生きる理由を変えなさい」
甲斐吽の眼光がわずかに和らぐ。
「他人の目を気にして完璧を演じるという名の重荷をすべて手放すと誓いなさい。そうすれば、この場で私があなたの因縁と不浄な執着を御祈祷し、きれいに祓い落として差し上げましょう。ただし、それにはあなたの強い覚悟が必要です。失敗を恐れず、自分の弱さを受け入れて生きるという覚悟がなければ、何度
運気を変えても同じ苦しみを繰り返すことになります」
真奈美は息を呑んだ。
強がりを完全に捨て、自分の弱さを認めて他者に頭を下げること。
それは彼女にとって死刑宣告のような恐怖であると同時に、藁をも縋る最後の足掻きでもあった。
「……わかったわ。もう見栄もプライドも、全部捨てる。だから、私を助けて」
真奈美の声は震えていたが、そこには先ほどまでの見栄や狂気ではなく、削ぎ落とされた覚悟の光が灯り始めていた。
甲斐吽は静かに立ち上がると、部屋の四隅に御札を掲げ、低く重厚な声で祝詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き天地の大御神たちの大前に、畏み畏みも白す……」
阿門甲斐吽の力をもって、時の流れを視通し、過ぎし影を照らし、来たるべき道を示し、散り乱れし縁を結び直す。言霊の響きが空間を震わせ、真奈美の背中から黒い澱のような重圧がスッと剥ぎ取られていく。
「祓え給い清め給え、祓え給い清め給え……!」
祝詞の終わりとともに、室内の張り詰めた空気が一気にほどけた。
「終わりましたよ。あなたの背負っていた悪しき因縁は、ここで断ち切られました」
甲斐吽の告げる声に、真奈美は深く息を吐き出した。凭れていた重荷が消えた代わりに、生身の体が冷たい現実を剥き出しのまま受け止めている感覚がある。
「……ありがとうございました。代金はお幾らですか?」
真奈美がブリーフケースを探ろうとした時、甲斐吽は静かに手を挙げてそれを制した。
「対価の定めはありません。あなたが抱えた悩みの重みと、これから歩む覚悟の価値に見合うものを、ご自身の意思でお納めください。分割でも、形あるものでも構いません。いつか必ず納めに来てください」
金額を提示されないことに戸惑いながらも、真奈美は「自分の役職の価値」ではなく「自分の生きる覚悟」を問われているのだと理解し、深く頷いた。
古びた引き戸を開けて外に出ると、頬を撫でる十二月の夜風は相変わらず冷たかったが、先ほどまでの刺すような痛さは感じられなかった。
融資のノルマも、職場の人間関係も一ミリも変わっていない。
だが、うつむくばかりだった視線は、不思議とまっすぐ夜のネオンを捉えていた。
ブリーフケースをしっかりと抱きしめ、真奈美は冷え切った街の中へと歩き出す。
ようやく、自分の足で正しく歩むためのスタートラインに立ったのだ。
そして数日後、誰もが真奈美のしなやかな強さと笑顔を目にすることになる。
第10話(完)




